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彷徨える貴方  作者: 黒井基治
第2章 3部 北の大陸 無の國
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第61話 再会

ティナは起き上がる。茶色の部屋、眼前には古びた手紙の数々。ぼんやりとしていると、それを拾う手があった。色白の手だった。ティナはそれを見上げていく。ウラドだった。


「初めて、エーレと会った時、僕はドギマギしてしょうがなかった。美しい人だった。赤い目は薔薇のように綺麗で、笑顔も。でも、もう見られない。」


ウラドは手紙を何通か拾い上げ、その中を眺めた。


「でも、なんだか不思議。死に別れたのに、あの子の目は側にある気がする。もう会えないのに、いつか会える気がする。満足してる自分がいる。なんだろうね。」


ウラドはティナの方を見た。彼の赤い目は血のように黒くなく、むしろ、火のように暖かい色をしていた。ティナは少し微笑む。


「そうですね。」


ウラドは手紙を箱の中に収めると、それを魔法でしまった。彼はボソリと言う。


「ありがとう。」


ガチャ−–−


ドアが開かれた。入って来たのは、茶色の髪の娘だった。褐色の肌で小柄であるが、健康的な肉付きだった。ウラドは魔力を見ていた。繊細かつまっすぐに伸びた魔力だった。ティナは匂いを嗅いでいた。金木犀の滑らかな香りだ。新しい匂いなのであまり判然としない。だが薄らと嗅ぎ慣れた匂いがする。鉄と干した布団のような匂い、これは。


「ロキが来てるんですか?」


娘は少し驚いたように目を丸くする。すると今度はウラドが言った。


「となると君は、テナナだね?」


娘は少し沈黙したのち、吹き出すように笑った。そして、ウラド達に手を伸ばした。


「ひさしぶり、2人とも。10年ぶりだよ。」


2人は少し沈黙したが、彼女の手を取った。ウラドは頭を動かそうともしていたが、無理だった。ティナは耳をビリビリと震えていた。


「10年?!ここにいたのは数日では?!」


テナナは2人は持ち上げながら言う。


「ここの魔力は結界によって、空間ごと閉じ込められていたの。だから、本来流れるはずの時間と魔力に置いていかれて、時間的な差が生まれてしまった。と言う事なの。」


ティナはその話を無理なく理解できた。だが、テナナの顔は少しおもんばかしくない。彼女は軽くティナの手を握りながら小声で言う。


「少し話がしたい。ここの事、外の事で。−––––いまベル兄が来てる。彼はウラド兄と話がしたいみたい。」


ティナはそれとなく彼女の背後を覗き見た。ベリアールがダイニングで紅茶を嗜んでいた。ティナはまたテナナの顔を見る。警戒しているのが一目で分かった。やけに手を握りしめている。ティナは微笑んでから言う。


「そうだね。テナナ。ウラドさん。ちょっと出てますね。」


「–––––うん。僕の方は気にしないで。」


2人は部屋から出ていった。


ティーポットの乳白色の肌は熱く、中の茶葉は踊っている。テナナはその紅茶を、同じ色のティーカップに注ぐ。彼女の瞳に似た紅茶は、角砂糖2つで甘くなっていく。ティナは暫く紅茶に口をつけようとはしなかった。代わりに、よくしゃべった。カップを持ちながら,耳をパタパタと動かしている。


「この10年で、世の中はだいぶ変わったでしょう?」


テナナは昔よりだいぶ、幼さが消えていた。それよりかは,ロキの様な無機質さと、何か訝しげにする様な態度を、薄らと背中から漂わせてさえいた。あのベリアールの下での生活で、一体どの様な成長を遂げたのかは、なんとなく察しがつく。特に東の生まれであるティナには、手に取るようにわかっていた。だが一抹の純粋さと、なんとなく、聖母の慈愛に近しい優しさは、消えてなどいなかった。彼女はティーカップを後ろのポットの近くに置く。


「いや––––だいぶ変わったよ。むしろ危なくなっちゃった。少し前まで東の人達–––亜人の店も沢山あったけど、今はもうない。皆南に逃げて行ったよ。ロキ兄ちゃんの行きつけも無くなっちゃった。」


「行きつけ?」


ティナは振り返って地べたで双竜の隣に座ったロキを見る。彼は10年経っても若々しく、そして真っ黒な格好だった。彼はティナを見上げている。心なしかその眼差しは死者のものではなく、生きているものの様な微かな体温を感じた。彼は言う。


「あぁ。紫の−–––蛇の夫婦が営んでいた店だ。」


彼は素っ気なく答えたが、その後の眼差しは、なんだか残念そうであった。ティナは彼からテナナに視線を移す。彼女もまたなんだか、感慨深そうというか、陽光を背に物思いに耽る娘の様な顔をしていた。


「テナナ?」


彼女は顔を向けることなく、声を忍ばせて言う。


「ティナ姉、無の國で起きたことを教えてほしい。あのエルフからの話ではどうにも信じられない。」


あのエルフ、なんとなく察しはついたまま、彼女は紅茶を一口啜る。じんわりと甘みが広がり,舌を焦がす様な熱さが押し寄せてきた。彼女は少し熱そうに顔を歪めた後、舌触りの妙な心地のまま、話を始めた。ウラドの過去、獣人が排他される様になった所以、見たものを全て語った。テナナは頷くこともなく彫刻のように固まっていたが,その顔は芳しくはなかった。ジッと下を向き,腕を組み、怒りというよりかは何か、もっと深い何かを沈めたような眼差しだった。語り合えた時、彼女は少し礼を言うと、また語り出した。


「ベル兄の見解とは外れたものが多い。」


「サタエルさんはどうなったのでしょうか?まだ帰ってきてないようですし、それに、この一件は誰の仕業なんだろう–––?」


「サタエル–––あのエルフなら、ベル兄に刺殺された。この無の國を作ったのも彼女。」


ティナは耳をザワザワっと震え上がらせる。


「し–––!?」


「あの出血では、多分もう–––あの人は、ウラド兄に対して自責の念を抱いてた。何かあったんだと思う。」


「はぇ、なるほどね。」


テナナは一抹の恐怖が登ってきたのを感じた。だが、腕を擦って気を紛らわせる。


「ベリアールさんは、何をするつもりなんだろう–––」


テナナは鬱々とティーカップの水面を見る。


「ベル兄は、『歴史に名を残したい』って言ってた。何故そうしたいのかは分からないけど––––」


「詮索は推奨しない。」


ロキは唐突に口を挟んできた。彼の眼差しは冷たくはあったものの、空っぽなものではなかった。むしろ逆で、名状し難いが、なにか、訴えているような瀬戸際に立つものを引き止めようとするような眼差しだった。ティナが困惑した表情で彼を見つめていると、彼もまた言葉を発した。


「ベリアールとはもう関わらない。俺達は東の頃のように、旅を続けるまでだ。」


ロキは本当に珍しく、ほんの少し目を開いていた。灰色の目が、少し陽光に照らされている。彼は照れでも胡乱でもなく、ただ目線を下に逸らす。彼は寝ている双竜の顔を見ていた。彼らは子供のように丸まっている。息が浅いのか呼吸してあるのかさえ怪しかったが、ロキは彼らが温いのか背中で寄りかかっていた。


バキバキバキ–––ブチチチチチチチ!!!


その時、トウカの背中の少し下、腰の辺りから赤くて太い肉が突き出てきた。ロキは警戒心を高め、すぐに彼女から身を翻して離れる。ティナはカップを置き、すぐに手拭いを取り出した。何が起こっているのかは誰にも分からなかった。だがセナの背中には何の異常もなかった。血だらけになった背中を拭こうとした時、突き出していた肉が血を纏ったまま、ロキに向かった。


グサァァァァ!!!!


手のひらの真ん中に見事貫通した。血が滴り、彼の顔にも、台所にも血飛沫が飛び散っていた。グググと震えながら,ロキは肉を掴む。その時、トウカは目を開けた。


「お主、人ではないな。」


「トウカ––!彼らは私の友人です!いきなりこんなことを–––!」


完全な殺意を迸らせたその目は、血眼に等しかった。彼女はあの無邪気な眼差しなんてものではなく、胡乱そうで、光の消え失せた瞳をしていた。


「其奴は人間ではない。じゃが––––わしらと同じでもない。なんじゃ其奴は?其奴は真の友かの?」


ティナは唇を一瞬舐めた。彼女眼差しは子供の持つ純粋な疑問なんかではない。もっと沈んだものであり、もっと冷たく重々しいもの、刃と言うよりかは鈍器に近しくゆっくりと人を殺せるもの。『疑い』であった。


「東にこんな奴はおらん。」


ロキは淡白な眼差しを向けていたが、決して殺意や警戒ではなかった。彼の呼吸はとても安定しており、静かだ。テナナが杖を握ろうと手を伸ばしているが、ロキは手を出して静止する。彼の瞳には恐怖の色は一滴もなく、息すらも荒くはなかった。彼は彼女を見る。


「痛くないのか。」


トウカは眉間に皺を寄せる。


「なんじゃと?」


ロキはある一冊の本を召喚した。硬い本の端が少し欠けており、よくよく見ると血痕らしき汚れもあった。


「育児本に書いてあった。子供は脆弱で我々よりも多くの血を流せばすぐに死ぬ、と。」


ペラペラとページを巡っていくロキを、トウカは怪訝そうに眉間を寄せる。


「––––お主、聖導師の側か?であればわしはお主を屠る。」


ロキは、手を止める。セナは静止するように、力強く言う。


「トウカ−––!」


「聖導師はクズどもの温床じゃ!!!やれ、人を救うだの、天国へ導くだの、隣人愛などとほざいて、それを必要としないものを、何故許せないんじゃ!何故!––––」


トウカは床で拳を握りしめる。次第に、彼女の赤い瞳から涙が溢れる。


「何故−–––あの子供は−––あの人間は−––死なねばならんかったんじゃ−––!」


そして暫く黙り込んでしまった。言葉にできないなんて人間じみたものではない。最早、それに対する考えが出てこなかった。トウカは荒い息を少し吐いたのち、訝しげな目で問う。


「お主は、どうなのじゃ?」


淡々と、無言を貫く彼の顔を見た。だがロキは、少し口を開いた。


「信じたければ、そうすれば良い。信じたくなければ、そうすれば良い。」


トウカは殺意なんてものは逆に沈んでいった。代わりに浮かんできたのは、あの感情はなんだろうか。名状し難い、数々の感情の融合だった。彼女は力抜けたように笑った。


「もう良い。」


その時になってようやく、彼女は尾を引いた。


ティナは手拭いを握りしめたまま、耳を畳ませて言う。


「尻尾痛くないの?」


「–––少し切れ痔になった気分じゃ。わしらはある一定の成長で、尾が生える。またしまったりもできるがの。」


「––ウラドさんの記憶によって、貴女に大きなショックを与えた–––」


セナはトウカの尾を突きながら、ティナを見て言う。


「人は愚かじゃ。じゃが、それが常なるもの。かかぁも言っとたわい。されど–––その小童は死なねばならぬのかは、ワシにはわからんの。多分誰にも。」


ティナは軽く息を吐き、床に視線を落とす。トウカは立ち上がると、誰にも目を合わせずに言う。


「わしは外に出ていくわい。黒のっぽ、お主には礼を言っておこう。お主の言葉で、わしは聖導師どもを屠るのをしばし辞めておこう。」


達観しているのかはなんとも言えないが、やはり自由ではあると思った。トウカはペタペタ走って裸足のまま、家から出て行った。セナはのっそりと立ち上がった。


「ワシは雪食ってくる。そこの娘も付き合え。」


テナナは目を丸くした。セナはまだ眠たそうに目が細かったが,瞼から見える青い目は水晶のように美しかった。彼女はティナに軽く挨拶だけすると、椅子の背もたれにかけてあった外套を羽織り,黄色のマフラーをしてから外に出て行った。出た瞬間,トウカの特大の雪玉を、顔面に喰らっていた。ドアが閉められた時、ドア越しからはトウカの大仰な笑い声だけだった。ティナは思わず笑ってしまった。故郷では雪はそこまで降らなかったので、この光景は人生で初めてのものであり、やけに新鮮で面白かった。ロキはティナの笑みを下から一瞥すると、ほんの少し口角を上げて、また下ろした。彼はドアを凝視している。ティナは紅茶を少し飲む。


「テナナも–––だいぶ変わりましたね。どうでしたか?10年間。」


「最近になって–––育児本はあまり意味がないとわかった。」


「ふふっ、そうでしょうね。本でどうにかなってるなら、あやかってますよ。」


「テナナは––––変わったのか。俺には分からない。何の変化も感じられない。変わらず好き嫌いはあるし。ずっと本ばかり読んでいる。たまに花を眺めたり、俺の買い出しに付き合ったりしている。」


「良いですねぇ。」


少し沈黙が流れる。だが、気まずさはなかった。彼は淡々と壁を見つめていたが、不意にこちらを見る。


「––––ティナ。俺は『生きているように見える』か。」


ティナは少し困惑する。


「なんです?急に。」


ロキの眼差しは妙だ。生きてるような輝きはないが、死んでいる暗さもない。ただ眼差しがあると言う状態に近しい。


「『生きている』の基準が不明。『死んでいる』の基準も––––不明。」


ティナは少し目をまんまるにするも、すぐにまた微笑んだ。そして、悪夢で寝付けられない弟に語るように、出来る限り優しく言う。


「ロキさん、胸に手を当ててみてください!」


ロキは右手を左胸に当てる。


「ドクドクって、心臓が動いてるでしょう?だから生きてるんですよ!」


ロキは暫く手を離さなかったが、小さく、何度も頷いた。


「そうだな。」


ガチャ–––––


ドアが開かれた。出て来たのはウラドだった。ティナはあの記憶のこともあり、直ぐにティーカップを置いて少しこちらへ来た。部屋から同じように出て来たのは、やはりベリアールであった。彼はコートを片手に持っていたが、それをバサリと翻しながら羽織った。沈黙が少しある中、彼は朗らかにティナに言う。


「ティナ、一緒に外を歩かない?東のあの辺りは雪が少ないだろう?」


「え?あぁはい。」


ティナは諸々の防寒具を羽織ると、共に外に出た。


外は雪こそ降っていないが、やはり凍てついた空気は耳元を凍らせ、喉を痛めつけた。足跡のない雪道を登りながら、彼女は彼を見る。彼の背中は悠々としていて、上品でもあるが、何か底のない、いや、半透明のような気がしてならない。彼は片手に杖を持っていた。黒い軸の杖は年季があるものの、数は少なく艶もある。彼はこちらを見向きもせずに言う。


「ねぇ、ティナ。君はウラドをどう思う?」


ティナは拍子抜けした。


「どうって––––少し可哀想な方、ですかね。『死ぬことは幸福』––––初めて聞いた時は、冷たい方とも思いましたが、納得のいく過去でした。」


「そうだね。」


「ベリアールさんは?」


「僕?」


彼は立ち止まる。だがこちらを見ることはなかった。空虚に見受けられる背中は、微動だにしていない。


「––––––どうだろう。」


彼はやけに神妙で、役者が何か考えてる時の演技のような様であった。だがあれば恐らくは演技ではないのだろう。彼の瞳には確かに、探りを入れてる目だった。


彼は先を歩き続けた。細く高く伸びた針葉樹を抜けると、そこにはとんがっておりまっすぐに天に伸びた岩場であった。足を滑らせたら、真っ逆さまになってしまいそうな心地だ。彼はその先まで、なんの恐怖の面持ちを見せることなく歩く。ティナは少し後ろまで来た。ここから、あの家屋の後頭部が見える。ベリアールはその岩場の、彼の足元にある小さな墓跡のような物を眺めていた。ボロボロのそれは雪を被っており、彼はそれを手で払った。誰の墓なのか、墓なのかすらもわからない。彼は心優しい敬虔な少年のように遙か向こうを眺めながら語る。


「君は、不思議に思ってることがあるはずだ。そうだろう?」


ティナは軽く手を握る。手の中の血管が少し痺れる感覚がした。


「–––はい。」


目の前にいるベリアールは、まるで精神科医のようにも思えた。こちらを訝しげに見てはいないものの、中身までごっそり調べ尽くそうとしてる。だが、彼女はそれに怖気付くことなく立っていた。彼は振り返る。その瞳は月のように金色だった。


「僕が答えるよ。」


ベリアールは彼女を見ていた。彼女の瞳は艶やかな青い瞳は、微かに揺れていた。彼女は少し手を擦ったのち言う。


「ここで起きたすべては、何なのでしょうか?」


「–––––ありきたりだね。でも大切だ。」


ベリアールは崖向こうを眺める。


「ここはね、平ったく言えば––––粕が集まった場所–––停滞かな。」


「停滞–––ですか?」


「そう。サタエルが王家で爪弾きにされ、ここを拠り所としたように、ここは爪弾きにされたものたちの止まり木だよ。彼女はここを國にでもしたかったのだろうけど––––」


「ベリアールさんは–––ウラドさんの身に起きたことを知ってたんですね。」


「そうだね。ある程度は知ってた。––––ティナは、【方舟】って何か知ってる?」


ティナは首を傾げる。ベリアールはふぅっと白い息を吐いている。その心元はやけに静かで、頭の中では一つ一つを思いだそうと歩んでいた。


「方舟はね、聖典ではたくさんの生き物を乗せて洪水から逃れる時の船なんだ。でも、魔道士の界隈では、『何かを収納する高度な容れ物』なんだ。僕達は900年前、ウラドの記憶の一部を方舟に入れた。君がウラドの記憶を知ったのはそれを見たからだろうね。」


「容れ物––––そんなことをしてしまったから、この長い時の間、あの人は、悲しい気持ちを持ち続けることになったんですよ。」


「あれは僕達––––特にサタエルなりの優しさだよ。長い時間を生きたからといって、トラウマを克服できる訳じゃない。君達という『キッカケ』が無ければ、覚えている意味もない。」


ベリアールは無表情で、冷たくそうあしらった。だが彼女の溜飲はそんなものでは下りそうになかった。真実を前にしても、なんだか引っかかっている気がした。


「––––ベリアールは、今後どうするんですか?」


「君達の旅は、今後も観察させてもらうよ。テナちゃん達とも交流するといいさ。」


彼は、ほんの数秒間俯き無言を貫いた。だが、ゆっくりと顔を上げた。陰から光へと移ろう彼の笑みは、母のような柔らかい微笑みとも見えた。しかし、それは不気味だった。


「–––––歴史に名を残したいんだ。」


ティナははっと息を飲み、目を丸くした。


「歴史に–––?」


「––––––何故?君は意外と、物事を線のように見ているんだね。ウラドに似たかな。そうだねぇ––––僕は、最早神話の時代から生きてる。だからかな。」


なんのことなのか、重要なものだけが霞んでいる。だが、これ以上深掘りするのは彼女の性格上、少し躊躇われるものだった。だが彼の顔は心なしか安堵というか和やかなものであり、雪に頬を触れさせていた。彼はポケットに手を突っ込む。


「ティナ、ウラドの記憶はどうだった?」


彼女は曇った顔をする。


「はい––––」


「獣人達はどうだった?」


「仲が良さそうでしたよ。何故あのようになってしまったのでしょうかね–––––あの器のようなものは、あれは陶器でできた器ではありませんよね?あれは––––いえ、これ以上は––––」


「ティナ–––––君は心優しい子だ。そして、天才でもある。水の魔法しか使えないのに、よくここまでできたね。固有魔法なんて、それなりに実力がないとできない。」


ティナははにかむ。


「い、いえ–––そんな。」


ベリアールは微笑む。家屋のあたりにはアルバートが帰って来ていた。彼はシモンを抱きしめると、すぐウラドにも抱擁した。ベリアールはそれを見て、なんだか心臓がざわめくというか、アルバートを殴りたい一心になる。


「ティナ、ウラドのあの様子を見てくれればわかるけど、あの子はまだ意識がはっきりしてない。だから君に話しておくよ。」


「はい。」


「まず、君達はこれから西にあるドゥーマに行って、【カインの日記】を手に入れる。日記は君が僕に渡しておくれ。場所はその時になったら。」


「何故私なんです?」


「また君と話がしたいから。カインの日記が欲しいのは僕の個人的な理由だ。本当に些細な理由だよ。そして–––その後は北の大陸(アイデース)の最西部にあるトルキンの【聖カトュリーナ大聖堂】に行ってくれ。そこで、僕達は【学会】に参加する。」


「聖カトュリーナ大聖堂ですね?」


「そう。本当は別の場所だけど、錬金術師との戦争が酷くなりつつある。そのせいで学会も10年に一度になってね。もう後がない。」


彼は振り返る。特に平静の文字を皮に引っ付けたような顔をしているが、その眉は焦燥に滲んでいた。彼は大股に歩き出し、ティナの肩を掴む。


「頼んだよ。もう今すぐにでも出たほうがいい。」


「わ、分かりました。」


彼は振り放すように手を離すと、そのまま木の幹に触れる。そこから線が刻み込まれ、だんだんと縁取られる。うっすらと色を帯びて来た。サムラッチ錠の赤いドアだった。彼はそれを開けると、何も言わずにドアを閉めてしまった。必ず手を振ってくるような彼が、何をいう事なくそそくさと帰っていった。なんだか、気が付かぬ間に世界が一変しているような感覚がした。一つの選択によって世界が変わるような緊張と、焦りによって眩む視界に対しての恐ろしさを見つめているような気分だった。


ティナはあの家屋に戻り、普段通り夕食を振舞った。ウラドは黙々と食事をしていた。皆は今日のことを話す事はなく、むしろ明日のことを話した。ティナはベリアールに言われたことを言うと、皆は承諾した。その後はロキと皿を洗い、双龍の入浴を手伝ってもらった。彼らは犬猫のように頭を振って水を飛ばしてくるので、彼らの次は必ずティナであった。皆順々に風呂を済ませて眠りにつく時にやっと、今日1日を実感した。まるで長年目を覚ましていたような気がした。


朝日が昇り、各々支度を済ませていた。ティナはウラドにコートを被らせていた。


「ウラドさん、具合どうですか?」


ウラドはまだ弱々しい息だったが、少し頷いてはいた。


「うん。平気、ティナ。」


「なんです?」


「なんか、夢が覚めた気がする。この旅、君がいてくれたから、楽しいよ。」


ウラドは悴んだ手を何度か握る。


「夢から醒めた時、昔のことを思い出していたんだよ。あの杖、貰ったと思ってたけど、違った。あれはその辺で拾ったんだ。聖導師を今すぐにでも殺す為に。」


「–––ウラドさんは、いつから錬金術を?以前は「錬金術師だったから」と言っていましたが。」


「記憶が正しければ、僕は昔からと言うわけではなかったんだろうね。みんな死んで、途方に暮れてた時に、錬金術を知った。あの時–––あれがあればなんとかなったかもしれない。だからこそ、錬金術で聖導師を駆逐しようとしたんだろうね。」


「今は–––錬金術好きですか?」


「好きかは分からないね。もう腕や足のように感じる。ただ性には合ってる。」


「なら好きってことですよ!きっと!」


ウラドは少し微笑む。


「そうだね。」


身支度を済ませて、家屋を出た。


雪道を歩いていくと、森の出口が見えて来た。まるで延々と続く森に終わりがあったのだ。ティナは振り返った。ポツンと寂しく佇むあの家屋は、時代と繋がった。故に腐敗していくだろう。時代と共に、だがものは時と共にはいられない。故に風化していくのだ。だがそれは、理に戻ることであり、有象にとっては最良の結末なのだろう。彼女には、そんな、妙な納得があった。

無の國編 終。

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