Episode92・(Waka Side)
機械の無機質な音が、
ただ静寂な部屋に木霊する。
ベッドに横たわる青年はまだ目を覚まさない。
ただその表情は変わらず、穏やかて優しいものだ。
「………嫌な予感がするの」
時折、
誰に見張られている気がする。
振り向くと誰もいない筈なのに。
ただ研ぎ澄まされた警戒心が、
気を尖らせているのはきっと気のせいではない。
だからこそ、最近の帰り道は、
わざと電車の便を送らせたり帰り道を遠回りして帰宅したりと
試行錯誤して追っ手の理由を探っているのだ。
もう柔な少女じゃない。
子供騙しの様な落とし穴には嵌まらない。
“千歳 賢一様
お忙しい中、
お便りありがとうございました。
無責任な方々が居る中で
貴方様のお言葉は、有難く存じます。
ですが私と貴方様が接点を持っていたのは
もう何十年も前の事です。今の貴方様にとって
私や存在を知り得た娘との接点を持つ必要性はないと思います。
貴方と私は、もう20数年前に別れたのです。
元々、私達には縁等、無かったのでしょう。
将来を別の道を歩むと決めた時点で、
思い返せば、あの頃から縁はなくなり、切れてしまったのです。
私の娘は、関係ありません。
例え、娘が貴方様の血を引いているとしても、
貴方は“血縁上の父親”というだけなのですから。
貴方様には家族がいて、帰る場所がある事でしょう。
貴方様は私にも、娘にも責任を感じなくてよいのです。
娘に対する責任も決断も、私が全て決めた事です。
貴方様が知らなかった事は当たり前の事です。
私が身勝手にも決めた決断は、貴方様には関係がございません。
だからこそ懺悔を覚える必要もないでしょう。
そして勿論、千歳家に私の娘を渡す、という選択はございません。
………私の事情を知っているのならば、
娘を取り上げるという行為は、
私にとっての最大の不幸だという事はご承知の筈です。
貴方様は娘の人生には関係も接点も持たず、
そもそも関わりがないのですから、父親と名乗る資格もないのです。
それ故に
貴方様に求める事は何も発生致しません。
貴方様には懺悔をする権利も責任もないのです。
私や娘とは無関係。
今まで、そう生きてきた筈です。
無縁で素通り出来る筈なのに、何故、それを選択しないのでしょうか。
貴方様の仰っている“知って欲しい現実”とは、
私達に関係があるのだと推測致しますが、
私は知りたくお教え願いたいと存じております。
ただ、娘に関係する事ならば、
私は絶対に許さないという事を、念頭に置いて下さると幸いです。
____水瀬 杏子
今の杏子は疑心暗鬼にかかっている。
あの手紙は賢一の本心なのか、単なる演技なのか。
彼女が疑心暗鬼になり、賢一の言葉を受け入れられないのは、れっきとした理由がある。
政界の名家と呼ばれる千歳家。
千歳賢一議員には一人娘がいる。
けれども彼女は表舞台には立っていない。
最近の噂だと、千歳家は、跡継ぎ問題に揺れているという。
(………もし、和歌を、千歳家の跡継ぎに迎えるとしたら?)
和歌は他人同然と言えど、千歳家の血を引いている。
“和歌を千歳家の跡継ぎに仕立て上げる”
そんな画策は、きっと千歳家では安易に浮かぶ筈だ。
賢一は人良さそうなふりをして
此方の出方を何処かで伺っているのかも知れない。
人は変わる。
あの頃の世間知らずの素直な青年もきっと、
数十年が立ち政界の人間として闇に呑まれ、もう面影はもう残っていないのだろう。
人は、ずっと同じ人格では生きれない生き物だ。
そして何よりも千歳家は、何をするかは分からない。
最初、強気で出てみるしかないのだ。
“もしも”を考え、娘を奪われない様に。
(…………娘は、私の全てなのよ………)
有給休暇を消化する形で、休職した。
この問題を母親一人に重荷を背負わせるのは
なんだか気が引けて、そして従兄の状態も気掛かりだ。
幸いにも上司が理解ある人で、事情を組んでくれた。
日本に残る事にし、従兄の看病に専念している。
………勿論、彼に忍び寄る取り巻きにも、視線を逃さない。
(きっと、前とは違う)
母親の狂乱にて、犠牲になった息子。
加害者には優しく、被害者には無慈悲な日本の犯罪の慣例。
今後も廉にも魔の手が伸びる事は覚悟して置いた方が良いだろう。
____マスメディア、メディアスクラムは、容赦はない。
けれども。
『廉、きっと貴方が
目を覚ましたら、驚いてしまうかも知れない』
待合室のフリールームにて休憩を取りに訪れた刹那
携帯端末が鳴り、知らない番号を受け取る。
____無言電話。
すぐに、ぷつり、と途切れてしまう。
その回数は幾度となく増えている気がする。
けれども、聞き逃せなかった。
今回は違う。
『______妹を、潰す存在。消えろ』
その呟きを、和歌は逃さない。
背筋が凍り寒気がした。____何故ならば
その声には、聞き覚えがあったからだ。
(…………あの人)
____千歳家の奥様、千歳賢一官房長官の妻。
忘れもしないあの時、
自分自身の素性を叩き付けてきたあの人だった。
“妹”というのは、あの人物か。
10年の忌まわしい記憶が脳裏に霞んでから、鼻で嘲笑う。
ずっと接点がなかったのに今更、接触を図るのかという思いは拭えない。
(“千歳の貴婦人”の 何の様かしら?)
今の和歌には、それを気にする程の余裕はない。
従兄は危篤状態は脱したものの、意識不明だ。
異母妹よりも、ずっと一緒に過ごしてきた従兄の方が優先順位は上だ。
今は廉に対する警備態勢に、目を光らせて置かなければならない。
____特に彼の素性と過去は。
(……‥廉に対するお礼は、私、何も出来ていないもの)
ずっと影で支えてくれた従兄に、
お礼の一つ出来ていない事を和歌は気にしている。
だが同時に無言電話の意図を、思考回路が自然と探り始めていた。
千歳美岬、否、
樹神美岬の身に何か不都合な事が事が起こったのだろうか。
気にしなければ良い話だが、彼女の異母姉として、何処か依存されている気がする。
千歳家にも警戒心を巡らせなければならぬのか。
(………厄介で、面倒臭い)
自分自身は単なる、“千歳家の血を引いているだけの器”だ。
和歌自身は、令嬢でもなんでもない。一庶民なのに。
父親である千歳賢一は責任放棄し、母を棄てて逃げた。
和歌の解釈はそうだった。
自分自身の過ちから逃げる為に政略結婚へ逃げた無責任な男。
樹神家の若奥様と再会したあの時、
表向きは、何事にも無さそうだった。
だが、裏に何かしら抱えているのだろうか。
_____けれども
(彼女にとって、不都合な事とは、なに?)
それが、見当たらない。
美岬にとって、不都合で、不幸なこと。
樹神家の妻に何があったのか。




