Episode83・(Waka. Misaki Side)
陽が昇った事に気付いて、和歌はゆっくりと顔を上げる。
部屋の片隅に座り込んだままの
彼女の目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
退院したものの、精神的に一睡も出来なかった。
____目を閉じても、闇の中で脳裏に浮かぶものは、
深紅に染まった世界、
深紅に濡れた女、倒れ伏せている従兄。
まるで非現実の闇に投げ込まれ、その場の時が止まった様に感じた。
無慈悲で無情なマスメディアは
母親による息子を殺傷した話を見逃す筈なく執着した。
現に今も廉の住むマンションにはマスメディアが数日間、
ずっと張り込んでいる。
ちらり、と床を見遣ると大学病院で売店で購入した週刊誌。
川嶋舞子の半生を書き連ねている、という事で立ち読みした後に購入を決めた。
(___私は貴女が、廉を苦しめた人、という人しか知らないから)
川嶋舞子という女性を知りたい本気度の好奇心。
数日間の入院、警察の事情聴取から解放されたものの
未だに和歌の神経は張り詰めたままでいる。
……彼女もまた懺悔に苦しんでいるからだ。
(………あの時、もっと早く、駆け付けていれば……)
あの親子を再会させてしまう結末になった自分自身を恨む。
だからこそ従兄に、
自らを傷付けた母親と顔合わせさせさせてしまい、
その心に哀傷を抱き、心身ともに深傷を負わせた自分自身は、共犯者だと思うのだ。
舞子と鉢合わせていなければ、廉は、少しばかりか助かった筈だ。
だが、彼の表情を見た時、
蜘蛛の糸の様に複雑に絡む感情に苛まれるは、変わらない。
従兄のあんな安堵した安らかな表情は、睡眠時にしか見る事なかったからだ。
まるで、それが安らぎと言わんばかりに。
廉にとって、何が正解なのか。
彼自身に正解はないのかも知れない。
水瀬和歌について、身辺調査を進めた。
国立大学の外国語学部を首席で卒業した彼女は、
翻訳者となり海外を飛び回り、海外と日本を往復する生活をしている。
仕事の関係で現在、年に日本に滞在期間がほんの僅か事も特徴的だ。
美岬は、和歌の経歴を羨ましく、そして恨めしく思った。
華々しい経歴と順調に積まれているキャリア。
(____同じ姉妹でも、何故こうも違うのかしら?)
本来ならば、和歌は自分自身の地位に居た筈だ。
同じ千歳家の血を引いていながら、自分自身とは
正反対の人生を歩んでいる。
(本当なら、貴女は肩身の狭い人生を歩む筈だったのよ……)
____今の自分自身の様に。
なのに彼女は羽ばたいて人生を謳歌している様に見える。
興味見たさと好奇心が掻き立てられる。美岬は今の和歌が見たくなった。
興信所から和歌が日本に帰国している期間を把握して
和歌が通訳者として勤める外資系の会社に通訳者として
樹神家に派遣させる様に、美岬は仕組んだ。
“ホームステイを迎い入れますので、その通訳しながら教えて欲しい”という名目。
外資系の会社には、水瀬和歌を指名して必ず来させる様にとも釘を打った。
樹神家にご指名で通訳者として派遣されると聞いて
和歌は拍子抜けすると共に恐縮した。
そんな早々とキャリアアップしても良いのかと。
しかし、そんな緊張は吹き飛んだ。……悪い意味でだ。
樹神の表札が掲げられた、西洋風の建物。
和歌は俯き呼吸と覚悟を備えるとその凛然とした面持ちを上げる。
「_____久しぶりね」
口角を上げて、にっこりと微笑する夫人。
その微笑みは恍惚に満ちていて何処か滑稽の様な気がした。
和歌は会社にて顧客情報を予め脳裏にインプットしている。だからこそ樹神美岬、という名前を見た刹那、
千歳美岬なのではないかと不審に思っていた予感が的中してしまった。
(…………今は、貴女と再会したくなかった)
何故だ、と思ったが、答えは安直に浮かんだ。
千歳家は誰もが知る名家。
樹神家はそれに匹敵する偉大な一族。
美岬は、彼女は、偉大な樹神家に嫁入りしたのだと悟る。
白亜の豪邸、見通しの良い広々としたリビングルームに通された。
きらびやかなシャンデリアにウッディを基調とした建物は
居るだけで温かみを与えている。ふかふかとした広いソファーお雛様の様に、控えめに和歌は座った。
差し出された甘い香りの紅茶が、現実感を色濃く残す。
美岬はあの頃よりも大人となり、
華やかで落ち着いた貴婦人の様な雰囲気が備わっている。
しかし大人な貴婦人の面持ちの中に潜む、
愛嬌と何処と無く幼さが佇んでいた。
「…………どうも。初めてお目にかかります。
通訳を担当させて頂きます、水瀬と申します」
あの頃よりも凜然とした端正な顔立ちと
大人なキャリアウーマンを沸騰させる雰囲気を備えていた。
しかしながら
その面持ちには疲れが伺え覇気が失せている。
どことなくその面持ちに美岬は訝しんで、不満に思った。
(___貴女は自由奔放に生きているというのに、何が不満なの?)
それでも彼女は平常心のままだった。
鞄に入れた名刺入れから手際良く、名刺を取り出して差し出し、美岬に渡す。
しかし美岬は、
不穏な表情を深め、心に秘めていた怪訝さを顔に表し、
名刺を一瞬だけ見ただけで、そのまま人形を棄てるかの如くゴミ箱に捨てた。
「何処まで他人行儀なの」
「………それは、どの様な事でしょうか」
「まあ、でもいいわ。素直に罠にかかったものね。
それだけは褒めて上げるわ」
「………どういう事でしょうか」
(………その態度が、気に食わない)
いつも優雅で平然と、凜としたその姿。
「通訳として呼んだのは嘘よ。ホームステイなんてないわ」
「…………はい?」
和歌は固まった。
その冷たい瞳。
高らかな口調は上から目線の、
何処と無く人を蔑んだ様に見える。
さっき出迎えた彼女の微笑みや態度とは正反対に違うものだ。
そして悟った。
(自分自身の私用の為に呼んだのなら、いい加減にして欲しい)
公私混同はしたくないが、今の和歌には余裕がない。
可笑しいと思っていた。
この家に外国人が居る気配がなかったから。美岬の言う通り、
ホームステイという話は最初から存在しないのだろう。
この樹神家の夫人の私用により、自分自身は呼ばれた客。
「………では、私は何をすればよろしいのでしょうか」
「貴女を呼んだのにはちゃんと意味があるわよ。
___使用人として、ね」
精神は張り詰めている上に一睡もしていない。
大人しくしていたが、流石に和歌の堪忍袋の緒が切れた。
「申し訳ございません。
私、生憎、通訳しか出来ない者でして」
「その態度止めてくれない? 仮にも私達、同窓生なのよ?
そろそろ昔の態度に戻って頂戴よ」
「…………承知致しました、では。
______何故、私が此処に呼ばれたの?」
あの頃よりも端正な顔立ちは更に磨かれ
更に凛として雰囲気は前途洋々、余裕綽々としたものだ。
スーツに身を包み、凜然とした顔立ちの女性。
キャリアウーマンと呼ぶに相応しい態度と物腰。
「貴女は優雅そうね。自由に生きていて羨ましい」
「………そうでしょうか。私は貴女こそ、素晴らしいと思いますが」
「それ、皮肉?」
美岬は眉を潜めた。
「………奥様は
樹神家に嫁ぎ、妻として当主様を支えていらっしゃる。
ご立派です」
(………他人事みたいに)
褒められてもちっとも嬉しく無い。
寧ろ、屈辱心が背骨に迸る様な、祟る様な感覚に襲われた。
「………よ」
「はい?」
「本来ならば、貴女がこの惨めな立場にいる筈だったのよ!!」
広いリビングルームに、美岬の罵声が響く。
監視カメラが、盗聴器が仕掛けられてようとも構わなかった。
和歌に対する美岬の激情は加熱したまま、治まらないのだ。
和歌は珍しく目を点にして固まっている。
(………突然変異に何を言い出すのだろう)
「本来なら、あたしの今の立場は、
千歳の長子が果たすの。本来ならあんたがその役目を果たす筈だった」
嗚呼、と和歌は頭を抱えたくなった。
美岬が自分自身を呼び出した理由は、“見せつけ”なのだ。
貴女の代わりに不幸になっているとでも言いたい事を。
“和歌が千歳の長子であり、
その役目を果たしていない”というのが、言い分だ。
美岬は、自分自身が長子となり、千歳家の役目を
果たさなければならない事をずっと恨めしく思っている。
____それは今でも。
その事を盾にすれば、和歌は何も言えないと分かっていて
和歌を問詰する。
「その役目を私が背負っているの。
でも貴女には分からないでしょうね。あたしの肩身の狭さを。
無責任なあんたの代わりに私は、何もかも背負っているのよ。
自由もなくてただプレッシャーだけを与えられる生活を。
情けなくて、惨めで堪らないわ!!」
貴婦人の本音、誰にも言えない心底の叫び。
周りからは、何不自由のない悠々自適の生活を送る、
優雅な貴婦人に見えるだろう。でも、本音は違うのだ。




