Episode51・(Waka.mother Side)
妊娠が分かったのは、別れた後だった。
若き日頃、まだ大学生の時だった。
和歌の母親である杏子と、廉の父親である颯真は
物心付いた時は
既に両親が他界し地方の慎ましやかな養護施設で育った。
唯一の肉親である二つ歳上の兄と二人三脚で歩いてきた人生。
地元でひっそりと暮らそうと兄妹で約束していた。
しかしその器量故に難関国立大学から
推薦入学の話を持ちかけられ大学生になった事に従い、
兄は都心に上京した。
その1年後、
兄と同じ経緯で杏子にも同じ話が舞い込んだ。
語学を学びたいだけなのに、と思い断ろうとした。
が。
『え、凄いじゃん。 誇りに思うよ。兄として』
『此方で基盤が出来てきたから、此方においでよ。
2人、住む分には困らないと思う』
兄はとても驚き、そして喜んでくれた。
都心に着て、学業とアルバイトに追われる毎日の兄は
肩身が狭いだろうと妹に告げた。
大学に入学した時、
周りの空気はやけにピリピリとしてはざわめいていた。
ドラマでしか見たことがない、黒い出で立ちのボディガード。
大学の警備もかなり厳重だったと思う。
何故なのかという理由は、入学して2ヶ月して理解出来た。
代々の名誉や名声ある名高い名家で政治家を歳出してきた
千歳家の御曹司の青年が居たからなのだと。
彼の名前は、千歳賢一と言っていた。
長閑な田舎で育った自分自身でも、千歳家の名を知っていた。
政治業界の中でも千歳家の名前は有名だ。
大臣や国会議員に、千歳という名前がある。
それほどに知名度のある資産家であり
皆が恐れ戦く名家である材料と権力を備えていたのだ。
その権力故に千歳家の噂はあまり良い話ばかりではない。
都心に出てきて杏子は、
周りの華やかさと千歳家の人物と
同じ大学、更に同じゼミにいるという現実に圧巻されていた。
妹可愛さに
兄はわざわざ授業のない日は足を運んで心配していたけれど
しかし、杏子は恐ろしい程に冷静沈着だっと。
(接点もない。
それに後ろめたさが何もないなら、堂々としていたらいい)
住む世界が違う人。
そんな中で接点は生まれない。
普段通りに過ごしていた杏子の事が、
その態度が賢一は意外だった事を今でも覚えている。
周りは千歳家、と聞いただけでへこへこと別け隔てある
態度を示すのに彼女だけは180℃違っている。
常に凛然としていて別け隔てのない態度を変えはしない。
ただその時だけで、普段は誰とも距離を置いている。
賢一が周りは好感度を得ようと必死な中で、
水瀬杏子だけは違った。
特別扱いも、
好意を示す様な、好感度も得ようとはしない。
媚びを売る事すらしない。
だから、賢一の瞳には異様に映ったのかも知れない。
『君は違うね、周りとは』
いつものように図書館で勉強している時、
最初、賢一からそう話しかけられた。
『何がですか?』
『皆、千歳家の人間がいるって知ったら、
皆、態度が180℃違うのに、君は常に平常心で接してくれる』
『…………そうですか?』
当たり障りない声音。態度。
ちらり、と髪から向こうから伺えた横顔は
端正に整っていて、透明な薄幸な雰囲気を佇ませている。
杏子は何事がなかった様に、また自身の世界に戻っていく。
従順にしようという思惑を持つ
大人いないそんな中で靡かず、
自身の芯と軸を持ち
その大人で綺麗な横顔に惹かれてしまった。
(不思議な人だ)
そう思った。
千歳家と言えば名家で、
冷酷非道の家柄と人々だと有名だ。
家柄の地位や名誉を傷付ける者が居たらならば
その人間を潰す事を躊躇しないければ、赦さない。
千歳家の命令の波に泳がされ生きている自身には
無いものを持っている事でも賢一は魅力的に見えてしまった事は否めない。
これも演技なのかも知れない。
しかし軈て、図書館でよく会い話を交える度に
けれども、あまり千歳家の人間だとは感じさせなかった。
誠実で紳士的な人柄。
その内面には腹黒さの淀みは感じられない。
帝王学を学んでいる影響か、知識な豊富な面、
おぼっちゃま故に純粋無垢な素直な面も伏せ持っている。
本当にあの非道の千歳家の人間なのだろうか、と疑う程に。
それは孤児として
冷ややかな見られてきた杏子には痛い程に分かる。
彼は杏子の素性を知っても、態度は変わらなかった。
いつしか、二人の仲は、自然と恋仲に変わっていた。
しかし付き合っていく内に、
その身分差をひしひしと感じていた。
彼はいつか千歳家を跡目を継ぐ、千歳家の御曹司。
対して自分自身は兄と二人三脚で生き抜いてきた孤児。
国を権力を持ち揺るがす名家ならば、
その御曹司となれば、
いつかはどこぞの令嬢と歩んでいく。
例えば今は恋仲となっていても、この恋は成立はしないだろう。
___それは彼が赦しても、千歳家が赦さない。
(待っていなくとも、いつかは、別れが来るのだろう)
そうなれば、この関係が、実る事はない。
__そんな時、偶然、聞いてしまった。
千歳賢一には、いつかは伴侶となる見合いの相手がいると。
千歳家は大学卒業に婚姻したいがそれを先延ばしにしていて
本人が気乗りではない、という事も。
それは当たり前だ。
名家の御曹司で、名家となれば。
いない方が稀だ。
(…………彼が、失望する前に、私が身を引くべきだ)
大学卒業を迎えて、暫くした時。
杏子は、次第にそう考えていた。
彼が傷付いて失望する前に、手を打ってしまった方が良い。
大学卒業を迎えて、暫くした時。
『兄さん、あのね___』
颯真には全てを話した。経緯も思いも。
杏子にとって信頼出来るのは、兄しかいなかったから。
彼は冷静沈着に悔いはないのかと訪ねた後に
その硬い決心に、自ら仲裁役になる、と言った。
兄に手伝って貰う形にしまうが、
自分自身は死んでしまった事にして、目の前から消えてしまおう。
それで彼に納得して貰えば、
自分自身が消えれば、全てが元通りになる。
「最期にもう一度、
これで、いいんだね?」
後悔しないか、と颯真は聞いてきた。
うん、とだけ、杏子は告げた。
____しかし。
全てが終わったと思っていた矢先の事、
彼の子を身籠っている事に気付いた。
颯真は最初こそ静かな怒りを見せたが
最終的に妹の意志の強さに負け、意志を尊重した。
何事も兄妹で生きてきたのだ。
それに兄は感情的で動く人間じゃない。
その頃の颯真は
もう既婚者になり、来年には父となる。
兄妹と何時かは離れて、自分自身の家族を持つ事になる。
兄妹と言えども、それぞれの人生がある。
今まで通りに、兄と一緒にという形は無くなるだろう。
それに兄が作るであろう家族に入り込む事は、あまり良くはない。
第一、杏子はそれを望んでいない。
彼の忘れ形見。
家族の形は違えど、この子が自分自身の糧になるのなら。
生きる希望となるのなら、喜ばしい事はない。
杏子にとって、身籠ったこの子はもう家族なのだ。
『私、この子を産むね』
『……………それでいいの?』
『うん。だってこの子は、私のたった一人の家族だもの。
兄さんも家族が出来るでしょう?
それと同じ』
晴れ晴れとした表情の妹の強い決意に、
颯真も彼女には迷いはないのだと理解した。
何かあれば協力する、とまで約束してくれたのだ。
彼は冷静沈着に物事を飲み込み、
千歳家に悟られないようにと手配を始めた。
一度、郷里に返り、
子供を産む事を、数年は静かにそちらで暮らす事を。
育った郷里ならば、長閑な田舎だから、人目に着くこともない。
杏子の身籠っている子は則ち、
自分自身の姪か甥になるのだから。
自分自身にとっても親戚になるだろう。
ある年の梅雨が訪れる前に、杏子は密かに娘を産んだ。




