Episode44・(Misaki. Mother Side)
何処かで、疑問に思っていた。
『千歳家の人間は、皆、冷酷非道』
『千歳家の人間は、血も涙もない一族』
千歳家と婚姻を結ぶ前に、そんな話を耳にした。
箱入り娘だった祥子が、嫁ぎ先の家柄の良い話を聞いた事はなかった。
『名家と言えどお嬢様があの家に、お嫁に行くなんて』
影で使用人が涙を流し、慰め合っていた光景も見た。
それ故に大丈夫だろうか、と婚姻前に不安に苛まれた事もある。
資産家・政治家を産み出してきた唯一無二の名家との婚姻。
千歳家の存在は、政治業界ではかなり偉大な存在を放つ。
誰も頭の上がらない権力と財力を備えた家柄に背く事はない。
その裏では
金と鉄錆で成り立っている人間味のない冷たい家、だと聞いた。
マリッジブルーとも重なり嫁ぎ先に対して不安になっていた、
祥子の不安を打ち砕いたのは、紛れもなく夫となる存在である賢一だった。
彼は自分自身の想像する人物よりも、
気遣いや気配りを欠かさないかなりの紳士的で、
優雅な振る舞いを見せる。彼にどれだけ人間味を感じ、退かれただろうか。
彼は元々から心から優しい人物だったのだろう。
千歳家が冷酷な人物で、彼が、その家の出だとは到底思えなかった。
箱入り娘の祥子は優しい彼にはまり、伴侶として尽くす事を決めた。
(私にはこの人しかいない様に、
この人には、私しかいないのよ)
____そんな自信過剰さも相まって。
(次期政治家となるこの人を、私は支えたい。
いいえ、支えるのが妻としてのお務めなのよ)
しかし婚姻を結び、祥子が千歳家に嫁いでから、
祥子は夫である賢一にある“違和感”を感じ取ってしまった。
それは嫁いでから間も無く、
賢一を呼び出す為に書斎に向かった時の事だ。
微かに空いたドアの隙間。隙間から伺える、出窓からの景色を賢一は切なく見詰めている。
夫は、一人になると何処か上の空だ。
そして言葉には出来ない、深い影を佇ませている。
それはまるで箱庭に取り残された小鳥の様に、遥か彼方を見詰めたまま動かない。
まるで隔離された距離感に、祥子は圧倒された。
その誰かを偲ぶような薄幸な眼差しは、
言葉には表せなくて、端正に整った顔立ちは美しい。
映画のワンシーンの如く、今にも涙が一筋、溢れてしまいそうな横顔だった。
そんな夫の表情を、度々見る様になった。
何故、彼はそんな悲しげな表情を浮かべているのだろう。
それはずっと疑問として、祥子の心に引っ掛かったままで。
それは今でもそうだ。
婚姻を結んだ20年前から
それは、それだけは、何一つ何も変わる事はない。
それでも幸せだと思い込もうとした。
けれど、現実は残酷なもので。
『賢一様には、嘗て恋い焦がれた人がいた』
使用人の一言に、嗚呼、と思った。
その一言は純真無垢な令嬢の言葉を打ち砕くには、
意図も簡単で___落胆したのを覚えている。
受け入れたくはなかったが、悟らなければいけない。
嘗て賢一には愛した人が居たのだ。
その人と結ばれなかった事を、
既婚者となっていた今でも憂いているのだと。
本当は、何処かで祥子は寂しさを拭えなかった。
表向きは夫に愛されていると知りながらも、
心にはぽっかりと穴が空いた様な感覚を拭えない。
_____だが今、その理由が分かった。
本当に賢一が愛しているのは、
妻である自分自身ではなく、“彼女”なのだと。
____祥子の書斎。
夫の付き人として、
責務を務める祥子に千歳家から与えられた小さな部屋。
薄いベージュの壁紙を特徴に、小さな部屋には
デスクトップや寛げるソファーを備えている。
そんな中でデスクに座り、祥子は怒りに震えていた。
(……………まさか、こんなこと)
(貴方は誠実な人だと信じていたのに………)
心が怒りに震える。
握り締めた紙は、皺が寄り始めていた。
“見逃せない現実”は、純粋な祥子には見逃せない要因だ。
そんな中、コンコンと控えめなノックが鳴った。
どうぞ、と言って部屋に入ってきた刹那、喜子は固まる。
相手は、賢一だった。
あの日、娘の嫁入り修行の話が食い違った末にすれ違い、
今まで大人しく夫に仕えてきた淑女という仮面を剥ぎ、
初めて自我というものを露にしたあの日。
本当は賢一の心を見透かしていたと暴露してからというもの
互いに気不味く、会話もなく相手を避け、不協和音の空気が漂う。
賢一が部屋に入ってきた途端、部屋には気不味い雰囲気が、流れる。
賢一の眼差しや表情は、真剣そのものだった。
祥子は内心で賢一を睨んだ後、合っていた目線をパソコンに向けた。
「_____話があるんだ」
賢一は、ぽつりと告げた。
「妻である君には、
本当の事を伝えないといけない、と思っていた」
「…………………」
千歳賢一は、誠実な姿勢のままだ。
彼は何時でも紳士的で誠実な姿勢を曲げた事はない。
祥子は心の何処かで、不服そうな感情を覚えながらも、
隠されたままでいるのは、何処か癪だと感じていた。
「すまない。祥子、君には残酷な話となるだろう」
「……………いいわ。話して下さい」
何処か不満げな祥子の表情を承諾しながら
窓に叩き付ける雨と、灰色に住んだ雲を見詰めながら
賢一は口を開き、話し始めた。
「私が、大学生の時だ。
当時、私にはお付き合いをしている女性が居た。
彼女は早くに両親を亡くし、どんな時もお兄さんと二人三脚、生きてきた人だった」
彼女は、物心つく前に両親を亡くし、
孤児院でたった一人の身内である実兄と慎ましやかに二人三脚、人生を歩んできた女性だった。
知性に溢れた賢い人物。だが、
それを決して表には出さない物静かで控えめな健気で謙虚な人物だった」
最初は、
健気で謙虚なその物腰低い佇まいに、惹かれた。
彼女と関わりを持っていく内に、彼女は慈愛に満ちた面を知り、
その一面を賢一は、まるで女神の様に眩しかった事を覚えている。
「けれど、私が大学生4回生。今の美岬と同い年の時だ。
病弱な彼女は、病が要因でこの世を去った」
(……貴女は今もその人を忘れられないのね)
何処か未練さの名残りのある語り方。
その暗雲の瞳がまだ彼女を心に留めている、というのは表情を見なくても解ってしまう。
悔しかった。
想像するだけならば内々で消化出来る感情も、事実を本人の口から聞いてしまえば。
夫が、今も心に佇んでいる女性を語るのは、
ある意味、屈辱的で知らぬ間に強く奥歯を噛み締めた。
しかし祥子は内心、何処かで夫を嘲笑っていた。
けれど、表向きは聡明の賢き妻を演じてみせた。
「私は、貴方の心の誰かがいると分かっていたわ。
でも言ったら貴方を傷付けてしまいそうで、怖かったの。
妻になった私が、私ならば、私が尽くして居れば、
貴方の心の中にいる誰かを忘れてくれる………。
それは過信過ぎるけれども、私がいる事で忘れる事が出来るのなら。
……………けれど、そうじゃなかったみたいね」
心の中で嘲笑が止まらない。
夫には、心には愛した人が佇んだままだと知ってから
祥子は変わり果ててしまった。
嘗てこそ思っていた。
妻である自分自身ならば、いつか彼が思い続けている
女の存在も無かった事に出来る、彼女を追い出せるという過信が、
絶対的な自信が、祥子の心の中にあったのだ。
いつか心の中にいる彼女を忘れて
自身を愛し、娘を愛してくれるのだと。
けれどもそれを願うのは来世になりそうだ。
(私は、あの女に勝てなかった)
いつか抱いていた。
賢一の心に留まり居座っている彼女を追い出してやる、と。
けれども彼の今の言動を聞く度に永久に無理だと言う事を、悟ってしまったのだ。
侮辱的で、屈辱的だった。
何度もこの心が擦り減り続けた事か。
けれど、出来なかった。変えられなかった。
その証拠に、賢一の心の中には、未だに自身ではなく彼女がいる。
自分自身でも、娘でもない、女が。
結局、賢一には、彼女しかいない。
祥子の事も、美岬の事もどうでもいい。
「じゃあ、貴方にとって、私と美岬の事はどうでもいい存在なのね」
「それは、違う!!」
雨音がやけに煩く聞こえた。
賢一の即答の叫びが、部屋に響いた。
確かに彼女が今でも心の中に居るのは否めない事実だが。
けれど、彼女は自分自身の心に居るだけで、
もうこの世には居ない。
「今の私に大切なのは、君と、美岬だ。
それは何事にも変えられない事実だ」
現実にいるのは、自身を献身的に支えてくれる妻。
無邪気で可憐で愛らしい何者にも変えられない娘。
二人だけだ。
必死に訴える賢一に、祥子は冷めていた。
ふっと呆れた様に嘲笑い、
(そんな熱弁を振るわれても、
結論で片付ければ、心の中に居るのは、“彼女”なんでしょう)
今の賢一には、誠実さの欠片もない。
ただ、現在 何も知らない夫を軽蔑している自身を、否めない。
あれだけ千歳賢一に泥酔していた愛情や心は、
自分自身でももう皆無になっている。
____それに、祥子にはある強みがあった。
(何も知らない、憐れな人)
(貴方が、とんでもない失態を犯しているとも知らずにに、ね)
(貴方はこの現実を知らないでしょう?)




