Episode36・(Misaki. mother side)
前半が美岬、後半が祥子の視点です。
美岬は”母親の異変”を感じ取っていた。
例え仮面を作っているとしても、今まで千歳家の妻として
おとしやかな淑女を、良妻賢母の女性を演じている筈だった。
現に叱責された以外、
母親は上品で優しい人物だったのだから。
けれど今は明らかに違う。
ちらりと見た母親の姿も、朗らかな優しい面持ちはどこにもない。
その表情は何処か気難しく張り詰め、
刺々しい雰囲気と放っていて口を開けば、逆鱗に触れてしまいそうだ。
今までま父親の選挙期間でも、そんな顔は見せなかった。
寧ろ箱入り娘故に様々な地に降り立つ事を望んでいた。
(どうしたのかしら)
父親の方は至って普通だ。
いつも変わらない威厳さと、紳士的な雰囲気を纏っている。
仮面夫婦を演じている二人は、それ以上も以下も行動を起こさない。
何事も無いように水平に、天秤を保ち続けている。
だからこそ何かあったとは思えない。
「美岬」
「はい」
「明日から毎日、料理を教えて下さる、
家庭教師の方が来るわ。これからは花嫁修業に徹しなさい」
「…………え」
いつの間にか祥子の食事は終わっていた。
厳格な意志を感じられる声音が物事の重さを感じさせる。
その瞳は心なしか機械的で冷たい。
(それは、そうよね)
千歳家に生まれた男子は帝王学を学び、
女子はいずれ名家に嫁ぎ、家に決められた伴侶に尽くさなければいけない。
それらが昔からの千歳家の習わしだ。
今まで美岬は箱入り娘として、大切に育てられ
怪我をすると危ないという理由から、家事炊事等には無縁の生活だった。
料理を習う、と告げられ、
自分自身は誰かの元へ嫁ぐ身なのだと噛み締める。
婚約者が決まったなら、後は自身が努力の末に技量を積んで嫁ぐだけだ。
(________嗚呼、どんどん自由が無くなっていく)
泣きたくなった。
美岬は呆然としながらも、母親を見た。
そして流し見る様に隣にいる父親を見詰める。
賢一も厳しく威厳のある瞳で此方を見詰めていて、その瞳は揺らがない。
(逃げる道なんて、何処にもない)
分かっている。
分かっているけれど、この息苦しさは何なのだろう。
美岬はひとつ頷いた後、そっと告げた。
「お母様、明日は午後から、用事が………」
明日はいつも通り、男性と会う約束をしていた。
誰も知る事のない、令嬢の夜遊び。
美岬は美岬で自身の自由をドタキャンするつもりは更々ない。
温もりを求める日々を美岬は断ち切る事の出来ないのだから。
顔色をうかがいながら上目遣いで美岬がそう呟くと、
背筋が凍る程に祥子の眼差しが更に険しくなった。
「用事? そんなの単なるおままごとでしょう。
そんな安っぽい“おままごと”と、千歳家、どちらが大事か分かるでしょうに。
貴女は千歳家の一人娘であり令嬢なの。
千歳家に尽くし、これから樹神家に、真之助様を支える事が大事に決まっている。
それを自身の用事を優先するですって?
千歳家の人間であるというの自覚が無さ過ぎるわ。
………千歳家より自分自身の私情を優先するなんて許されない事よ。
大学生になったからって浮かれたのね。
恥ずかしいとは思わないの。
その用事は断りなさい。許しません」
涙腺が震えた。初めて母親から冷や水を浴びせられた感覚。
冷酷で淡々とした物言いには、微かな怒りが込められている。
まるで普段の祥子とは、違って見えた。
反対に言葉には出来ない
無言の圧力はずっしりと美岬の心の中に居座る。
はい、としか言えなかった。
_______美岬、自室。
優秀を済ませて、美岬は化粧台に座った。
鏡には目を伏せ不安げな表情の面持ちをした令嬢が映っている。
花嫁修業に関する家庭教師が
毎日来るとなれば、夜遊びに時間は費やせない。
間接的にまるで夜遊びを止めろ、と言われているような気分だった。
明日以降の約束も、全て中止にするしかない。
(お断りの連絡を入れなければ)
携帯端末を手に取った。
美岬が夜遊びと比例するかのように
付き合った男性は数知れない。
震える指先で画面をスクロールする、
画面には様々な男性の名前が入力されている。
画面をスクロールしていくうちに、美岬は再び、目を伏せた。
(____温もりが、恋しい)
千歳家では、
両親に与えられなかった愛情という名な温もり。
それを他人で補っては、勝手に満たされていた気分に浸っていた。
それが、家の決めた婚姻によって奪われる。
(どんどん自由が無くなっていく)
分かっていた筈だった。
いつかは誰か一人の男性を支え、愛さねばならないのだと。
だが美岬の心境は複雑だ。
恋愛依存である故、一人だけを愛するなんて無理だ。
そんなの耐えられない。
此処まで来ると最早、夜遊びは日課となっていた。
己の何かが欠落するように思えた。今の生活が消えるなど考えられなかった。
(お嫁になんか、行きたくない。今のままでいい)
どうしようも出来ない現実に不安の天秤が震えている。
自身の私利私欲の感情が邪魔をする反面、
けれどこの家の娘として生を受けたからには、
自分自身でどうする事も出来ないもどかしさが募った。
「厳し過ぎやしないか」
静寂な部屋に、一言が残響した。
食事を終えて、
ナイフとフォークを置いた賢一が静かに告げたのだ。
立ち上がっていたまま動かない妻の背中を彼は見詰めていた。
「なにがです。
嫁いでから困るのは美岬よ。今の内に学ばせておかないと。
それに千歳家の娘なら、完璧でないといけないでしょう。
美岬が恥をかくという事は、
千歳の名に泥を塗るにも等しいでしょう」
「君は___美岬の婚約や嫁入りに対して熱心だな」
そう呟いて、持ち上げていたワイングラスを置く。
その刹那、祥子の中で解れていた糸が途切れた。
「_____貴方は“娘の事でさえも、どうでもいいの”?」
祥子は此方へ向いた。
賢一は密かに驚きを隠せない。
据わった面持ちに、冷たい声音。
今まで、上品な朗らかさが板に着いていたというのに。
賢一は険しい面持ちを向けながら、ゆっくりと首を傾げた。
彼女のこんな冷たい声音や、表情と態度を見た事も聞いた事もなかった。
「私、知っているのよ。
貴方がわたくしを愛していないこと」
「…………何を言っている?」
冷静な声音で賢一は返す。
「わたくし知っているの、貴方がわたしを愛していない事を!!
現にわたくしの事など眼中になかったじゃない!!」
祥子の怒号が、リビングに響いた。
滅多に感情を表す事のなかった祥子の凶暴な自我に
賢一は驚愕し呆然としている。
「貴方の元に嫁いでから何かが変だと思っていた。
でもいずれ変わってくれると思っていたわ。………美岬が生まれてからは尚更ね。
貴方が
初恋の人を忘れてわたしを愛して視線を向けてくれると。
それを待ち望んで、わたくしはずっと我慢をしてきた!!
けれど貴方は、妻のわたしではなく、あの人の事ばかり。
美岬が生まれてからは、益々、酷くなって………」
“あの人”と言われて、賢一は眉を潜める。
「祥子、落ち着いて………」
祥子は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちる。
強気な言葉が、弱気になり段々と涙声になっていく。
「こんな屈辱なんてないわ。
お嫁に嫁いで、わたくしは貴方にだけ尽くしてきたのに
こんな惨めな思いをさせられるなんて………」
「……………それは、すまなかった。だが___」
それは、誤解だ。
そう思って、告げようとしたのに。
その刹那。
妻に伸ばしかけた指先が、ぴたりと止まった。
何故ならば、顔を覆った指先の隙間から
ぎょろりとした据わった形相を見てしまったから。
それは、まるで妖怪の様に伺えた。
「_____だから」
「美岬には、わたしの様な惨めな思いなんてさせない。
心の中にいる人だけを愛して、
妻として愛されない屈辱を味わわせたくないもの。
だから早くお嫁に出すの。今の内なら、
絶対に美岬は幸せな生活を送れるわ」
祥子の陰謀。
初めて見た善子の形相と据わった言葉に、息を呑む。
そんな陰謀を孕んでいるなんて思いもしなかった。
そして今も心の中に忘れられない人が居る事を悟られ
長年、妻から根に持たれていた事に、
賢一は絶句せざる終えなかった。




