Episode21・(Mother's Side)
とある母親達のお話。
後半
読み手の皆様にとって
不快なシーンな含まれている可能性有。
殺人事件の描写が現れますので
あらかじめブラウザバックを推奨致します。
「水瀬さん、全てがミステリアスな人だよね」
「誰もが憧れるキャリアウーマンで、美人さんなのにね」
それを横目に素通りした。興味の欠片もない。
休憩室に備えてあるコーヒーセットの機械から、
コップに注がれる珈琲を見詰めながら、目を伏せた。
和歌の母親__杏子には
この人生で、たった一人だけ、愛した人がいた。
けれど、その人と結ばれない事は解り切っていた。
平凡な自身とは違って、
彼はかなり高い地位の違う世界にいる青年。
自身との結婚だなんて反対されるに決まっている。
その人は、いずれ家が決めた人との政略結婚が成り立つ筈だ。
だから、気持ちが引き摺られる前に
杏子自ら、身を引いて彼の目の前から消えたのだ。
杏子は、怖かった。
もし“娘の存在”が知られれば、
ただ事では済まされないからだ。
きっと彼が“娘の存在”に気付いてしまえば、
今まで築き上げてきた穏便な生活は崩壊する。
娘の存在を悟られたとしたら、
奪われてしまうのは、確実な事だろう。
杏子にとって娘の存在は唯一無二の、何事にも代えがたいもの。
転勤のある部署に配属希望を出し
娘の存在を悟られない様に様々な地を転々とし、
娘を、和歌を奪われまいと、静かに暮らしてきた。
恋人との関係自ら引き裂いたのと引き換えに、
自分自身の元に訪れたのは、“娘”という愛しい存在だった。
ある意味、恋人の忘れ形見かも知れない娘は、
自分自身が傷付いた心の傷を無条件に癒してくれる。
(…………この子がいれば、私は何も要らないわ)
娘を初めて抱き上げた時に、芽生えた感情。
孤独だった人生の中で現れた自分自身の分身。
だから愛しい娘が誘拐された時も
本音を言えば警察に駆け込み、捜索願を出そうとした。
娘が見付かるのならばと、
捜索願も情報提供のビラも配りたかったのは、事実だ。
本当は、
手段なんてものは厭い、躊躇いたくはなかった。
けれど。
もし警察署に捜索願を出せば、創作のビラを配ってしまえば
娘______和歌の存在は明らかになってしまう。
娘の父親である青年の地位を鑑み、振り返ってしまった。
それ故に杏子は弱さから踏み出せなかった事も。
警察に捜索願を出せば、ビラで情報提供を求めれば
娘が帰ってくるだろう。しかし代わりに、
和歌は自身の元から消えて奪われてしまう。
そんなの、耐えられなかった。
己のお腹を痛めて産み、
ずっと一人で育ててきた一人娘。
彼女以上に愛しい存在も、大切なものなんていない。娘が居るならば杏子は何も望まない。何も要らない。
娘の為ならば、どんな犠牲を払ってもいい。
娘を、奪われる以外ならば。
我が子を自身の元から奪われてしまう程の、不幸ほど辛いものはない。
娘には、
父親は生まれる前に死んだと言い聞かせて育った。
大人の身勝手な事情でと脳裏を掠めたものの、
それが杏子の唯一の野望だったかも知れない。
現に娘が父親が生きていると知ったとしても、
和歌は、父親には会う事はないだろう。
否。杏子が会わさない。
(私にとって、和歌が全てなの)
身勝手な母親だと言われてもいい。
恋人の忘れ形見、それを越えた存在となった娘を、
誰にも渡す気は更々ないのだから。
けれどそれは所詮は偽り。
偽りが永遠に続く保証は何処にも存在はない。
和歌も成人したからこそ、いつか自身の父親の存在に気付く事であろう。
(その時は、和歌の意志に任せる)
その時は、抗ったりはしない。
本当の闇に葬りかけている真実をありのまま、白状するつもりだ。
けれど。
まだ、穏便に過ごせている間は、
平穏な母娘の関係で居させて欲しいと思うのは
身勝手だろうか。
地方にある女子刑務所。
此処では毎日、規則正しい生活を送り、
その規律や規則が乱れる事は滅多にない。
『被告人に、無期懲役の判決を言い渡す』
10年前のあの日から、
その判決を下された当事者、舞子は此処で生活をしている。
罪名は放火殺人。2人の大人と、2人の子供の尊い命を奪った。
まだ夜明け前の肌寒い風を頬に触れるのを、身に沁みつつ
ランニングコースを無言のまま走る。
すっかり此処での生活も日常も慣れ切ってしまった。
舞子には、夫と一人息子がいた。
けれど舞子はその最愛だった二人を裏切り
昔のながらの幼馴染であり、恋人だった人と不倫関係に走ってしまった。
きっかけは同窓会での再会。
互いに家庭を築いた後で再会した瞬間から、
身勝手にも彼とは運命を感じていた。
昔の恋の炎が燃え上がったというべきか。
もう一度、再燃した恋の炎は恐ろしい。
そう感じながらも
密会を重ねる内に舞子は、不倫の愛に夢中になっていた。
不倫中は
夫と息子を忘れる事になるくらいに心は昔に戻され、
夫と息子は二の次となり、不倫相手が一番となっていた日々。
再び彼を愛する様になっては、若き日の恋に浸る。
だが築いた家庭を壊したくはない。
一から築いた平和な家庭を壊したくはなかったので
舞子は昔の恋人と密会を続けている事を隠し続けた。
表では良妻賢母を演じていた。
しかし裏では夫と息子には穏便な事情を繕ってまで彼に会いに行っていた。
夫と一人息子も愛していると心を偽り
不倫愛に溺れては若きに戻り、二人を忘れる。
(私には帰る場所はあるのだから)
完全に自惚れて、甘えていた。
妻が不倫をしているとも知らず、夫と息子は快く見送り出してくれている。
夫と息子と過ごす時間を投げ出してでも、
不倫相手である彼に対して陶酔仕切っていたのは否めない。
けれど、そんな不倫生活も長くは続かなかった。
別れよう、と告げられた時、舞子の頭は真っ白になった。
誰にも明らかになっていないのに。
また昔の様に当たり前の様に密会を重ねていたじゃないか。
なのに。
どうして今更、別れるというのだ。
彼は言った。
また再会した事も、不倫関係になってしまったのは自身の過ちだと。
お互いに今は家庭を築いた立場で、家庭を大事するべきだと。
けれど、舞子は受け入れられなかった。
(裏切り者。私を弄んだだけなの?)
気付けば、体が先に動いていた。
彼の家に上がり込み、彼の築いたものを壊し、家に炎を灯す。
(貴方が、悪いのよ)
身勝手にも、全てを壊し奪った刹那、
彼を永遠に手に入れられたと思い込み、恍惚の微笑みを浮かべていた。
優越感に浸りながら、彼を奪った妻や子供を嘲笑っていたのだ。
あなた達が悪いのよ、と。
狂愛に、
狂い狂った舞子は、最早、正気を失っていた。
その時に思考回路に存在していたのは、不倫相手であって
もう夫と息子ではなかった。
無期懲役、と判決と刑期を下され
10年この場所に居る舞子は、今やお局の立場にいる。
けれど、
自分自身が犯した過ちを間違っていたとは思えない。
あの時、漸く全てが満たされた気さえした。
自身の家庭__夫と息子の事なんて眼中にもなく忘れ果てて、
不倫相手だけを見ていたのだから。
夜、
房の皆が寝静まった中、端に寝ている筈の舞子は
何故か眠れないまま一人取り残された様に黄昏に浸っている。
高い場所に設置されている
房の片隅の柵付きの小窓には、夜空が見えた。
星も月も見えない濃紺の空をその虚空の瞳で
見詰めている中で、不意にあの声が脳裏を余儀った。
『………………母さん』
此処に来て一度も、思い出した事もなかったのに。
可愛かった一人息子。
夫に似て、誰よりも気遣い屋で、優しかった。
あれから、10年。
10年も経過したから、あの子も随分と大きくなった事だろう。
たとえばきっと、すれ違ったとしても
その存在に気付かないに違いない。
(もう、会う事もないだろうけれど)




