Episode20・(Ren Side)
もしも、あの時に
自分自身の存在を認めてくれていたのならば。
自分自身の存在を思い出してくれたのならば。
世界は、人生は、変わっていたのかも知れない。
水瀬家で引き取られた事が、唯一の廉の救いだった。
和歌も、和歌の母親である杏子も変わらず優しい。
その優しさが時に辛くなる時もあるけれども、温かな居場所だった。
優しい人達に拾われた事が救いだと痛感している。
それ以外の自身を考えてみた事もあるが
敢えて考えなかったのは、慈悲に満ちた伯母の善意を
無にするようで失礼だと思っていた。
事の発端は、
小学校を卒業し中学生になるタイミングだった。
厳冬が消え去り、新春の暖かさが感じられる季節になった頃。
廉は、この季節が大嫌いだった。
昔からお伽噺のシンデレラのように
魔法が解ける時刻に近付いていく気がしていたからだ。
「廉君、お父さんに会いに行く?」
それは、伯母の一言だった。
この時、生活の軸はヨーロッパだった。
伯母の仕事の関係で移住し、時に日本に一時帰国する生活。
両親の事は思い出さなかった。
川嶋家からも音沙汰もなく伯母も口にする事はなかった。
この頃になると同時に父親に受けてきた傷痕が、
癒えてきた頃のである。
水瀬家の生活にも慣れ、
廉には父親、というワードは意外な響きと取れる。
あれから父親は精神科病棟長期入院し、
終身の特別ホームに入所したらしいと聞かされていた。
廉にとって、最も忌まわしいのは母親だけれど
父親の事もそうなのかと尋ねられたら否めない。
いつも穏やかで、
常に笑顔を絶やさなかった優しかった父親。
それに嫌悪感を抱く要素は何処にもなかった。
けれど母親が居なくなった事で、
狂気に狂ったあの鬼の形相を浮かべた男が、
未だに記憶の中にある父親と同一人物とは思えなかった。
多感な年頃は、あの時よりも更に存在意義を問うてくる。
父親に暴力や暴言を浴びせられ、
罵詈雑言、虐待を受けていたのは事実だ。
廉にとって今やあの父親は、恐怖心の対象でしかない。
狂喜に狂ったあの、独特の形相が、脳裏に浮かぶ。
優しい穏やかな父親像と、狂喜の沙汰に陶酔した男が
脳裏で交差する。
時が経過して落ち着いて
伯母には伯母なりに考えていた事があるのだろう。
中学生になる節目にけじめとして、息子を会わせようとしたらしい。
今は分からないけれど、いずれ分かるのかも知れない。
転勤族で日本に帰国する時期もいつになるか分からない。
「ごめんね、突然。
廉君が決めたら良いことよ。これも貴方の人生なのだから。
……でも、場合によっては廉君が傷付くかも知れないの。
一度、廉君がどうしたいか、考えてみて」
伯母である杏子は、優しくそう告げた。
彼女は決して強制せず、廉の意思を尋ねてから
兄に、甥を、息子を会わすのか決める様だった。
廉は迷うと共に疑問が浮かんだ。
(僕が、傷付くとはどういう事だろうか)
蓋を開けてみないとわからない。
伯母は、自分自身が虐待を受けていた事を思慮している。
癒えかけた傷口を抉ってしまう事になると
案じて告げた発言だろう。
記憶を思い返せば、
狂喜に狂ったあの独特の形相が、脳裏に浮かぶ。
優しい穏やかな父親像を思い出しては、
やがて狂喜の沙汰に陶酔した男が脳裏で交差する。
けれど廉の記憶の中には
存在していたのは、長らく優しかった父親でしかない。
妻を想い狂い、人格が豹変した人間。
妻の毒牙によりその為には息子すらも忘れた。
あの人を離れていた生活を送っていたとしたら、
呑まれ喪った正気を取り戻していたなら。
あの忌まわしき呪いが解けたのなら。
様々な事を考えて、廉は父親と会う事を決めた。
今では考えられないけれども、会う事を決めたのは
この日常生活が非現実の幸せで
まだ父親と離れて暮らす様になってから
数年が経ち落ち着きを見せた事が影響したのかも知れない。
当日。
車に乗り、施設に向かう中の車内で様々な交差する。
(今、父さんはどうしているだろうか)
自分自身を見たら、何を言うのだろう。
あの優しかった父親の姿か、それともまた鬼の形相の狂気の姿か。
どんな言葉をかけてくれるのだろう。
諦観を抱いた細やかな淡い期待感と、
植え付けられた恐怖心。
連れて来られたのは、白い施設。
暖かな光りが差し込む場所で、まるで別世界に来たようだった。
淡く優しい光りの空間で過ごす、
人達は心無しか優しい微笑みが絶えない不思議な世界だった。
此処では誰もが都会の喧騒から離れ
穏やかで朗らかな表情を浮かべている。
だからなのか余計に非現実的で此処に居る人達は、
皆、幸せそうに見えるのかも知れない。
伯母と従妹に不安に悟られない様に、
それを隠すように作り笑いの仮面を貼り付けて浮かべていたが、
本音を言えば、施設に着いた途端に小さな心は、
不安感は苛まれていた。
(大丈夫だろうか)
不意に従兄の横顔を見た和歌は、凍り付いた。
普段は穏やかな表情を殺し微かに驚く程に
気難しい表情を浮かべていたからだ。
否。彼女は、気付いていた。
従兄の手が微かに震えている事に。
けれど廉の心情を考えて、敢えて何も言わず知らないふりをした。
室内用エレベーターで、二階に上がった後、廊下を歩く。
マンションを思わせる一人一人の部屋の個室に名前のプレート。
父親の名前の書かれたプレートを見つけた瞬間、
存在感を示し心臓が踊り出した。
父はどんな表情を見せ、どんな言葉をかけるのだろう。
どんな台詞をかければよいのかシュミレーションしてみても
台詞は浮かばないままでいる。
6畳程の白い部屋の簡素な部屋。
置かれたのは、シングルベッドと来客用のソファー。
白い世界だった。
そのベッドはリクライニングで起こされ、
座った様な形になった父親は窓の外を見詰めていた。
「兄さん」
妹にそう呼び掛けられると、彼は此方を向いた。
穏やかで朗らかな表情。その表情はあの頃よりも
少し更に柔らかい。
(…………父さんだ)
目の前にいる男は、明らかに廉の記憶に
根強く残っている優しい父親の姿そのものだった。
自分自身を見て、何も言わない事に廉は胸を撫で下ろす。
あの鬼の様な父親は現れない、
此処にはいないと知った刹那の証拠に
安堵感からいつの間にか、従妹と繋いでいた手は離れていた。
「今日は、廉と和歌が来ているの、ほら」
朗らかな表情を浮かべた男は、廉を見詰めてきた。
刹那に穏やかな面持ちの父親と、狂気の沙汰のあの男の面影と重なってしまう。
緊張感が迸った。
少し背筋に冷や汗をかく感覚を覚えながら、微笑んだ。
言葉が浮かばない。どうすればいいか考えていた時、
父親は廉を見て微笑んだ後、告げた。
「………綺麗な子だね、誰かな?」
途端に周りが、空気が、凍り付く。
廉は茫然自失として立ち尽くしている。
向けられた穏やかで朗らかな表情が、ただ安心出来たように嬉しかった。
また、あの頃の父親に会えた様な感覚がしていたのに。
父親のたったの一言で、廉は絶望に落とされる。
「………兄さん、廉よ? 貴方の息子の」
「俺には息子はいなかったけどな。勘違いじゃないか?」
きっぱりと否定した声音。表情は、悪びれたものはない。
刹那。みるみる、目の前が真っ暗になる。
(なに浮かれてたんだろう。
救われていい筈がないのに。望みなんて持ったらいけないのに)
与えられた罰なのだ。
心に添えられた氷が静かに溶けていく。
これが正解なのだ。苦しめ、苦しめ、苦しめ___。
途端に呼吸が締め付けられる様な感覚に陥り、
居ても立っても居られなくなり、廉は部屋から飛び出した。
廉の淡い期待と思いは、父親の一言によって打ち砕かれた。
「…………れ、」
和歌は名前を呼ぼうとしたのだろう。
けれど名前を呼ぼうと、言葉を紡ぐより先に少年は消えていた。
父親の部屋を飛び出した廉は
ドアの前に出ると壁に背を預けそのまま項垂れた。
(都合のいい想像なんて赦されないのに、何を考えていたんだろう)
何処かで
あの頃の優しい父親の姿を伺えて勝手に安堵していた。
あの頃に戻れた気がして嬉しいとすら、感じていたのに。
突き付けられた現実は
頭に稲妻を撃たれかの如く、衝撃が大きく項垂れた。
妻の毒牙の呪いは、解けていない。
混乱した頭が、思考が、現実を上手く飲み込めない。
けれど溢れ出した感情は、紛れもない本物で、
ぽたりと膝に落ちた一筋の涙。
(父さんは、僕をもう二度と思い出さない)
妻の毒牙が、心に刺さっている限り。
杏子が言っていた“傷付くかも知れない”という言葉の真意を悟った。
母親に裏切り捨てられ、唯一の頼りだった父親。
その父親からすらも、廉を見捨てた。
何処かで解っていた。
こうなるかも知れないと酷い父親の姿。
それを見ようとしなかっただけだ。
現実は、残酷なものである。
見たくなかった。知りたくなかった。
けれど突き付けられた現実を脳裏が呑み込んだ時に、
枯れた嘲笑が浮かぶ。
(誰からも、忘れられた。
僕を、知っている人なんて、誰もいない。
それでいいのだ。これが与えられた罰なのだ)
何処かで悟る。
両親はもう、何処にもいない。
川嶋廉という人間は、もう何処にもいない。
自分自身を否定された世界はこんなにも、無慈悲で冷たい。
「…………廉」
澄んだ声が降ってくる。
気付くと、心配そうに見下ろしている和歌の姿があった。
見上げたその少年の顔は、
虚空を映した瞳は潤るが、果てしない虚空を浮かべていて
その姿は今にも崩れてしまいそうだった。
和歌は何も言えなくなって、立ち竦む。
そ何かを言葉をかければ、壊れてしまいそうだったからだ。
最初の頃はショックだったが、
あの事があったから、良い意味で割り切れたのかも知れない。
伯母は申し訳ない事をしたと深く謝っていたが、
伯母の事は微塵も憎んでいない。
寧ろ、割り切れるきっかけをくれた事に感謝した。
(僕の存在は、否定された)
何処かで淡い期待を抱いて、生きるより決別出来て良かった。
これは『殺人鬼の女』が下した代償。
自分自身を知っている人間はいないのだと悟ったのだから。




