過去 九 報告
明継は急いで、佐波に会いに行った。根本的問題の解決にはならないが、心の気休めぐらいはなるだろうと思い、紅の助けになればと考えた。
緊急に呼び出しを受けた時と同じように、裏から入る。
大まかな事情を話した明継に佐波は険しい表情でこう云った。
「其れで、私にどうしろと……。」
佐波が返したのは冷淡な返事であった。彼は薄暗い部屋の中で、昨日と同じ様な面持ちで、上座に座っていた。衣装すら同じである。
佐波の突き放した言葉が、明継の心を虚無にした。其れでも、変に取り乱す事はしなかった。
「何かをしてほしいと云う気はありません……。ただ、伝えておく必要があると考えたからです。」
佐波は頷く事がない。
「伊藤殿は、紅を元に戻したいのだろう。ならば、節とやらを野放しにしておいても、良かろうに……。結果的には同じ事であろう……。たかが女の言葉など誰も信じはせん。新聞記者などほおっておけ……」
佐波の様子に愕然とした明継は、自分に味方がいないと実感した。
元から味方の無さは分かっていたが、自覚すると、辛いものがあった。
新聞と云っても、イデオロギーを拡散する様な内容が主流で、女性誌が軽く扱われていた時代だ。
「御言葉ですが……。紅を危険にさらすのはどうかと……。」
「其うなのか。」
佐波はどうやら事の重大さに気が付いない。
暗くて表情が伺えないが、其れでも何となく分かる。
「慶吾隊が動いています……。」
「誠か。」
流石に声が裏返っている。
佐波は、唯一の一連の事件の真実を了解している人物である。佐波は紅を弟のように可愛がっていた。
紅の為に、佐波は、噂を握り潰し、明継を不信に思う輩を処罰した。後ろから紅のために支援をしていた人物でもった。
皇院の血族が血相を変えて、紅を捜索すると出た時も、佐波が止めた。
宮廷のスキャンダラスは皇の威光を損ねるとして、揉み消されるのが風習になっていたが、皇院勢力が黙っている訳がなかった。
其れを黙らせ、佐波の父親である皇を動かした。
威厳や神々しさが今だ健在である父皇の命令を利用して、何とか明継と紅は難を逃れた。
其れ故に三年間も紅は何とか明継の側に居られるのである。其の苦労を明継は知らない。
「皇が動いているものと思います……。節が云っていました。」
明継は上司に失敗を報告するように、険しい口調である。
佐波は狐に抓まれた顔でいた。
其して、口に手を当てて、薄暗くとも血の気が引いた表情をしたのが、確認できた。
「其れは……、考えられない。父皇が、慶吾隊を動かしている何て……。」
佐波は考えを巡らせた。
大分昔に、皇院の男が逃げだした事があった。其の時は、脱走であった。
当時の皇は、軍人の敵前逃亡と云う罪を利用し、最も不名誉に、皇院の男を処刑させたらしい。
其れだけではなく、周りの皇院の血族が其の様な重い行為を、時代皇に懇願した。
時代の皇院達が、表舞台に立たなくても、絶大な信頼を勝ち取って来ただけはある。
だが、佐波の父皇は、其の行為を実に遺憾だと考えて、紅が逃げた時も、佐波の願いを快く引き受けて、其の他の皇院を押え付けたのである。所詮、皇院は皇の権力を利用しているに過ぎなかった。
「しかし、皇以外に慶吾隊が動かせる人物は……。」
「否。其れはない。」
明継は佐波の次の言葉を待った。
「何故ならば、紅を救うように、父皇にお願いしたのは私だからだ。其の上、父皇が、今さら、紅を捕まえて何をしようと云うのだ。もしや……。」
自分に問い掛けている佐波に、明継は俯いた侭でいた。
「父皇以外の人間が、紅を探そうとしている……、もしくは、紅を……。」
佐波の予想外の言葉に、目を丸くした明継は、慌てて話を聞こうとした。
次代当主の不信感に、明継が慌てた。佐波の不吉な言葉に動揺を隠せなかった。佐波の次の言葉は出てこない。
「皇以外に国の権力を振るえる者がいるはずはありません……。」
明継の声が引き攣っている。恐怖の為、脂汗が一気に流れ出た。
「父皇はまだ御健在。側近の皇院が皇の許可なく、動くはずはない……。可笑しすぎる……。」
佐波はまだ頭の中で考えを纏めているようだった。佐波の零れ聞く言葉に、一抹の不安を掻き立てられた。
佐波は、表情を立て直すように、背筋をしゃんとし直した。
「見苦しい姿だった。忘れてくれ。」
皇院は、皇の尻馬に乗って、同行しているに過ぎない、皇の一声があれば未然に防げるし、皇が反論すれば、意見など通りもしない。
だが、厄介な事に、血縁関係になっているので、皇の弟が皇院に位置する時期もある。そうでない時もあるが……。
やはり、肉親の情は切っても切れない物がある。
明継は、漏れ聞いた佐波の言葉に大きな存在が音をたてて、接近して来るのが分かった。
今までにない強力な権力。其して、自分達への敵意。
「お前は、何をしたいのか……。」
意味が分からず、視線が空を舞う明継。
突然の言葉に反応が鈍る。
「紅を……。」
言葉を続け様としたが佐波が奪う。
「否。伊藤殿が紅をどうしたいのではなく、自分に対して……。」
「はい。」
「自分がどうしたいか……だ。」
上手い言い回しではないが、意図するものは理解できた。しかし、今までの会話の流れと全然違う質問に驚きはあった。
「私は……。」
明継は、自分の事に関して執着がなく、逸脱した行動が多く見受けられた。
其れは、生命維持に不可欠な食も放棄している事からも伺えた。
(其れでも、紅がいるから、生きる気力が出て来るのである)と佐波は考えている。
明継に、元から生への執着はなかった。
「余り……。考えておりません。」
余りではなく、全然と云う訳にいかず、そう云ったに過ぎなかった。
「では……、紅がいなくなった後はどうする。」
一番難解な問いだった。
前に、問われた時は、倫敦に帰ると答えた。だが、今は違う。状況や、紅への感情。
返答に困り、其の選択肢は明継の頭の中には存在していなかった。
シドロモドロしている明継。
「……。」
「否。其うではなくて……。現実はきっと惨いだろう。罪を負わされる。皇家に対する反逆罪で終身刑か、無期懲役か……。もっと悪くなるかもしれない。」
「其れは、存じております。覚悟の上…。」
訝しげな雰囲気の佐波が、真剣な面持ちの明継を、伏し目がちに見た。
「お前は其の意味を分かっているのか……。」
「存じ上げています。」
沈黙が空気を包つむ。
面持ちだけが険しくなっている明継に、佐波は、只大きな溜息を吐いた。
「分かっていないな……。」
佐波は呆れ果て、言葉を失っているように見えた。
明継が言葉を解かっているだけで、死を理解していない。頭で理解しようとしている明継に、佐波は不安感を募らせた。周りを犠牲にしている事すら、気付いていない明継に腹立ちを感じた。
事態は、もっと深刻になっていると佐波は踏んでいる。状態を捉えていない明継に、其の話をしても理解出来ないだろうと考えていた。
「ホトホト、御前は馬鹿だ……。」
佐波は思った。
紅の性格は解っている。紅は其れでも明継にしがみ付こうとするだろう。明継は、紅の事で周りが見えなくなってしまっている。愚かしいほど馬鹿だ。
明継の問題点は其処にないと思っているのが余計、厄介だ。愛する者を守ろうとすればする程、何も見えなくなるのは、全般的な人間に云える事でもある。
倫敦での実績も或る男が、一人の少年のために、我を無くしている。或る意味美しくあり、気の毒でもあり、哀れであった。
其して、佐波も……、愛する者を助け様として同じ事をしている事に気が付く。
佐波が自傷気味に笑った。
「お前では埒がない。紅を連れて参れ……。」
「宮廷に紅を……ですか……、其れは危険ではありませんか……。」
「木は森に隠せ……、を知らんのか。一番安全なのは、私の手の内である。怪しい奴等に狙われないですむ……。」
「いいえ……。怪しい者が紅を狙うと云う事は、佐波様の身にも何かあるかもしれません。余りに危険すぎます。」
佐波の独り言を思い出し、(紅が危険に遭遇する時は、佐波も危険と隣り合わせではないか)と、明継は考えた。
今まで紅の身ばっかり気にしていた。(佐波も危険に巻き込まれると危険性がある)と、考えた。
「伊藤殿一人で紅の身を助けられると思いか……。」
佐波の言葉に押し黙る。
もしも、慶吾隊を出動させるほどの権力の持ち主であるなら、紅の命が狙われるかもしれない。だが、佐波の元なら……。
「其れでは、佐波様が、危険に曝されるのでは……。」
「諄諄。」
佐波はピシャリと云い放った。
明継は目上の人間に押し黙り、仕方なく頷いた。
「深夜に、迎えにやる。其れで紅を連れて参れ。闇夜なら、誰も怪しまれず、此処まで来られる。信頼できる馬子も付ける。其れならば、顔を見られず、来られるだろう。いいな。」
流石に生まれの良い威厳は健在で、命令した。明継は頷く。
其して、佐波の異変に気が付いた明継は、今までにない行動と言葉が、事の重大さを理解させるのには十分だった。
以前にも増して、色の濃い雰囲気が佐波の周りに纏わり付く。
「紅に危険が迫っているのか……。」
明継は、下唇を噛んで、言葉を漏らした。
三年間、佐波はどんな事があっても、紅を連れて来いとは云わなかった。
佐波自身が紅を守り切れないと確信をしているようだった。
明継は腹を括る。
「分かりました。」
節の時も、自分一人の力では紅も守り切れないと薄々は感じ始めていた。
明継は、力強く頷いた。




