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【完結】倫敦《ロンドン》  時折《トキオリ》、春 〜君を辿って〜   作者: 木村空流樹
第一章

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過去 十 苛立ち

 佐波(さわ)との会話の後、明継(あきつぐ)は人力車(ジンリキシャ)の上で考え事をしていた。

 蹴込(ケコミ)に足を組み、同じように腕も組んでいた。

 悩んでいたが、紅(こう)のためにと頑張る気力が戻って来た。


 見慣れた景色が辺りを流れる。渇いた大地に罅割(ヒビワ)れが生(ショウ)じている。偶(タマ)に、溝に車輪が落ち込んで、不安定になり、首を捻(ヒネ)るのを、気を付けていた。


 庶民は天都(てんと)から少し離れた、長屋(ナガヤ)に住んでいて、煉瓦(レンガ)作りの西洋建築には程(ホド)遠い身分の世界だった。入り組んだ道、一本でも貧富の差は歴然としている。


 俥(クルマ)を下車した。

 家の前に立つと、かくしの中から、紙の切れ端が顔を覗かせた。

 明継(あきつぐ)は完全に忘れていた。

 紅(こう)から買い出しを頼まれていたのである。しまったと顔に書いてある。


 ドアを開けた瞬間に『先生、材料は。』と聞かれるに違いないと渋々足を進めた。


 階段で何度も、もう一度、買い物をしに出直そうかと思い直したが、無駄な足掻(アガ)きでしかなかった。

 革靴が一歩一歩、階段に当たって、足取りを重くした。

 腹を括(クク)って扉の取っ手を握り締める。其(ソ)れでいて、何時(イツ)もより冷たく、堅(カタク)く、重い。


「ただいま……。」


 明継は、少し小さめの声で部屋に入った。

 違和感のある空気が頬に伝わった。其の違和感が何かを示すのかは直ぐに分かった。

 驚きで息が出来なくなる。やっとの思いで、息を細く吐くと、見開いた目から水分が飛んで乾燥し始めた。

 其(ソ)れでも、目を閉じる事が出来ない。現実を受け入れる事が出来ないように……。


「紅、何処(ドコ)だ……。」


 叫びは虚(ムナ)しく響いた。

 息を浅く吸い込む。

 発作に近い状態になる。呼吸が普通に出来ない。


「紅。」


 思い切り叫ぶと、明継は土足(ドソク)の侭(ママ)、部屋を駆け摺(ズ)り周った。

 何時(イツ)も居るはずの存在がいない。

 何時(イツ)も直ぐに出て来る存在がいない。

 何処(ドコ)にもいない。


 部屋の扉を、襖(フスマ)を、開けっぱなしにする。狭(セマ)い部屋を、何度も確認する。

 部屋の中を隈無(クマナ)く捜したが、何処にも紅の様子が伺(ウカガ)えない。一段と部屋が広く感じる。



 不安が一層深まった。必死に冷静になろうと努力はしたが、心は裏腹に動く。

 室内を見回すと、窓やドアが破(ヤブ)られている気配はない。物色された後もない。


「何処(ドコ)にいる。紅。」


 誘拐、強盗、拉致、色々な可能性を考える。

 明継は、地べたに座り込み、腰が抜けて、泣き崩れるかのように、腹ばいになった。

 其(ソ)して、拳(コブシ)を床に叩(タタ)き付ける。

 痛みで我を忘れるのを望んでいるかのように……。何度も何度も。

 痛みすらしない手が、色合いだけを鮮やかにした。肉が擦(ス)れ、血が滲(ニジ)む。其(ソ)れでも、打ち続けた。

 骨が擦(ス)り減って、肉が裂けた時、物音がする。



 物音と云(イ)うより悲鳴かもしれない。

 其ちらの方を即座に振り返る。明継に、紅の大きな瞳が向けられた。


「どうしたのですか……。先生。」


 驚きの眼が近づいて来る。

 明継の拳(コブシ)を凝視(ギョウシ)してから、手荷物を垂直に落とした。

 紅は慌てて救急箱を取りに行き、明継の横に座った。


「先生、其(ソ)の手……。」


 明継の拳には出血の色が痛々しさを伝える。指と指が直角に曲がった侭(ママ)、動きが鈍い。


 呆然と、明継は手当てする紅の横顔を見詰(ミツ)めた。紅は治療のため固まった指を無理矢理、離れさせる。上半身を起き上げ、紅の前に胡座(アグラ)を掻(カ)く。


「紅。」


 呆然とした侭(ママ)、の明継は、一生懸命、包帯を巻く紅を、まだ見詰(ミツ)めている。


「どうしたのですか。先生。床なんか殴って……。帰ってきたら、倒れているし、……。死んでいるかと思いました。」


「紅……、本物。」


「えぇ。本物です。」


 意味も分からず笑いが出る明継。

 渇いた笑いが部屋を木霊(コダマ)する。紅は呆(アキ)れて、目頭(メガシラ)に手を当てた。


「本物……。紅。しかし、どうして部屋に居なかったのです。外出をするなんて……、今までなかったのに……。」


 上から覗(ノゾ)き込んだ紅の茶毛が、目に留(ト)まった。

 瞳が睨(ニラ)み付けているが、紅の表情が愛らしい。


「折角(セッカク)、先生から貰(モラ)った鍵があるのですから、買い物ですよ。節(せつ)さんの件もありましたから、止めようと思ったのですが……。先生、余りにも遅すぎですし……。もっと早く帰る予定でしたが、道に迷ってしまって……。」


 玄関付近で散らばる食材、手持ち袋から野菜が、転がり出て来ていた。


「其うでしたか……。私は誘拐(ユウカイ)でもされたかと……。」


「部屋の中でですか。其れは、拉致(ラチ)ではないのですか。」


「どちらでも良いのです。こうやって見付(ミツ)かったのだから……。」


 又、笑い出す明継。


「此れ、御返(オカエ)しします。」


 天井を仰ぎ見て、紅が明継の目前に黒い鍵を突き出した。明継の顔の上に乗せる。


「此(コ)れ以上、床を壊されたくないですから……。」


 愛らしく微笑む紅。嫌みっぽく云(イ)ったつもりらしいが余計に、可愛い。


「分かりました……。預かります。」


 額から鍵を取ると、床に転がした。

 頑丈(カンジョウ)に縛られた包帯が、手の感覚を無くすほど殴ったのを印象づける。


 紅が帰って来たのが、純粋に嬉しかった。

 笑みが何時(イツ)までも顔から離れない。其れでも、不安は付いて来た。笑えども幸福にはならない。


「申し訳ないのですが……。抱き締めても良いですか。」


 不意(フイ)に明継が云う。


「又(マタ)、馬鹿な事を云って……。」


 傷ついた腕で、紅を引き寄せる。

 紅の上半身がバランスを崩し、明継の胸へと、撓垂(シナダ)れ掛(カ)かる。

 明継の頸(クビ)元に、紅の頭が掏(ス)り付いた。


「佐波(さわ)様は何と……。」


 其(ソ)の体勢の侭(ママ)、紅は話をした。俯(ウツム)いている紅に、視線を落とす。


「慶吾隊(ケイゴタイ)についてどう思われます……。」


「慶吾隊(ケイゴタイ)が動いているのは心配です……。皇院の誰かが私を狙(ネラ)っているのかもしれません……。」


 話す度に暖かい息が、漏れる。

 明継は愛おしく、優しい表情になった。

 胸の奥底から、幸福感が湧(ワ)いて出てきた。


「慶吾隊なら、紅に危害は加えないはずです。」


「皇院家(オウインケ)で一番嫌われているのは、私ですし……。」


「何時(イツモ)も、私と一緒にいたからですよ。」


「いいえ。其うではなくて……。」


 声を引き締めて、紅は呟(ツブヤ)く。

 紅の話をもう少し聞きたかったが、


「食事の支度(シタク)をしますね。」


 と言い残し、明継の腕の中から離れた。

 紅の表情は微笑(ホホエ)んでいた。



 (紅は何を云(イ)いたかったのだろう。其して、何を隠そうとしているのだろう……。)と明継は考えた。

 だが、無理に聞き出して、紅が傷付くなら、見ぬ振りをしようと腹を括(クク)る。時間がくれば、紅の方から話してくれると納得した。信頼関係は強いと思った明継。


「佐波様が会いたいと云(イ)っていました。」


「聞こえません。」


 と台所で紅が云(イ)うと、炊事場に重い腰を上げて、明継は向かう。


 其(ソ)の前に、靴を玄関に置き、転がっている食材と、鍵を戸棚(トダナ)に閉まった。


 紅の背中を確認できる位置で、壁に凭(モタ)れ掛かった。


「佐波(さわ)様が会いたいって……。」


 水場でシャッを捲(マ)くし立てて、食事を作っている紅に話し掛けた。其れでも、紅の動きは止まらない。


「どうする。」


「えぇ……。」


 紅の腕だけが止まらない。受け答えはするが、明継の方に正面を向けなかった。


「どうする……。」


「えぇ……。其うですね……。」


 明継は立っているのが面倒臭(メンドクサ)くなり、壁伝いに腰を下ろした。紅の背中に話し掛(カ)けた。

 炊事場に立つ紅の背は、とても華奢(キャシャ)な骨格をしている。女性のように細い手首が露(アラワ)になる。


「先生なら、どうしますか。もし会うなら何時(イツ)、会いに行きましょうか。」


「深夜に迎えがきます。佐波(さわ)様が信頼できる者を出してくれるそうです。近々に……。」


「ですか……。」


 紅の態度から乗り気ではないのが伺(ウカガ)えた。確かに、宮廷から離れて、三年、彼の元いた場所に舞い戻るのは勇気がいる。

 其の上、連れ出した明継が其れを薦(ススメ)めているのは、不可解に思われるかもしれない。


「先生……。今頃(イマゴロ)、何の用でしょうかね……。」


「さぁ。其処(ソコ)までは……。」


 紅は一呼吸(ヒトコキュウ)した。


「先生と引き離されるなら、戻りたくはありません……。」


 ぽそりと本音が出た紅。

 動揺の色が背筋に現れているが、明継は紅の安全を考えた。事情も伝えず、従えと云(イ)うのは理不尽(リフジン)に思えるかもしれない。

 卑怯(ヒキョウ)に思われても紅の安全第一である。


「大丈夫……。」


 節(せつ)の話を鵜呑(ウノミ)みにする訳ではないが、誰が紅に敵(アダ)なすか判断しずらい。佐波の権力の側に置けば、警備も万端だ。

 (其れを承知で佐波様は紅に会いたがっているのだと……。)其れならば、明継は従うしかない。


「先生は、どう御(オ)考えですか。」


「えっ……。」


 紅の背中が話すが、不意の質問に明継は答えに詰(ツマ)った。


「何が。」


「いえ……。何でもありません。出来上がってから呼びますよ。先生。」


 紅は、顔だけを明継に向ける。

 其(ソ)の表情は穏やかであったが、冷たい視線にも感じられた。



 歩みを進めて何時(イツ)もの居間に向かった。

 紅の好(コノ)んだ窓際の椅子(イス)に寄り添う。癖で、椅子の上に読み掛けの本を伏(フ)せてある。其の本は枝折(シオリ)や紐(ヒモ)があるにも関わらず、伏せてある。

 明継は本に紐を忍ばせ、机に置く。


 中央には硝子(ガラス)の灰皿があり、其の上に不釣(フツリ)り合いな煙管(キセル)が乗っていた。

 煙草(タバコ)は毛嫌いしたが、紅は煙管なら良いと了承されていた。

 明継は常用者でなかったにしろ煙草(タバコ)を止めたのである。本人も何故(ナゼ)吸っているのか疑問に、思ったからでもあった。しかし、今日は非常に吸いたくなる。


「今日はやけに疲れたな……。」


 上着を脱ぎ捨てて、足を放り投げた。

 一番楽な姿勢で寛(クツロ)ぐ。煙管には目をやるが、手に持つ事を拒否した。今更(イマサラ)、拳が痛いのである。



 昔良く、母に行儀(ギョウギ)が悪いと叱(シカ)られた。人前では母の顔に泥を塗ってはいけないと、何時(イツ)でも姿勢に気を付けていた。



 今では身の回りの事を紅に任せっきりにしている姿を叱るだろうか。紅の前では母と同じ様な行動を取っているのが、面白くて仕方ない。母に対する愛情が紅に移行したのかもしれない。


「行儀(ギョウギ)悪すぎです……。」


 驚いて、声の主を見た。


 紅がお盆を持って、明継の前まで来ていた。

 苦笑(ニガワ)いをする明継に、馬鹿な思い出を振り払った。少しだけ、紅に、母の面影を見た。


「ごめん。御免。」


 明継は立ち上がり、紅の側に寄る。



 低めの机に、紅は不服(フフク)そうに味噌汁と麦飯を乗せた。


 初めて明継と外出した記念にしようと考えた品揃(シナゾロ)えが出来ないのが、残念だった。

 先程(サキホド)、戸棚に食材を運んだ明継だけが、紅の心を理解していた。

 祝ってくれる気持ちを、喜ぶだけの気力は、先程、紅を抱き締めた時に、補充した。


「先生、どうぞ……。」


「あぁ。すみません。こんな時間になるまで、待たせて……。」


 自分の所為(セイ)で、食が遅れた意味で謝る明継。

 『いいえ。』と紅は首を振る。


 紅は箸(ハシ)を差し伸べた。

 何気(ナニゲ)ない動作に明継は、口元の笑いを隠せないでいる。


「何が可笑(オカ)しいのですか。」


「否。昔良く母と、此(コ)の様な会話をしたなと思いましてね……。」


「其うなのですか。」


「えぇ。其うだ……。紅の両親はどんな人でしたか。今まで聞いた事ないですし……。」


 紅は驚きに満ちた瞳で彼を見たが、明継は箸で味噌汁の具を食べていた。

 芋を口の中に頬張(ホウバ)る明継がやっと紅の方に興味が行くと、紅は視線を逸(ソ)らせてしまった。


「どうしました。紅。」


 返答すらしない紅に変な事でも聞いたかと、後悔する。弁解をする上手い台詞(セリフ)が見付からない。

 仕方なく黙々(モクモク)と食を進める。


「男親は……。」


 紅が重い口を開いた。


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[良い点] はあ。流れる、緊張感ありながらも美しい空気にドキドキします。紅くんが無事で良かった。簡素な食事なのに、美味しそうだなと感じました。
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