その伍
「なんだと」
ぬらりひょんは顔を赤くさせてそう目の前の天狗に問うた。
「それは本当のことなのか」
「ええ、本当です……」
ぬらりひょんは重い頭を持ち上げて、腕を組む。顔がゆでダコのように真っ赤になっていた。
(どうしてあの子はそんなことをした!)
ぬらりひょんは頭を抱える。
「ぺいを呼べ。人間の子供も連れてこい」
目頭を押さえて暗い天を見上げる。報告に来た天狗はぬらりひょんに背を向け空に舞うと、その背中の大きな羽で飛び立った。
(裁かざるえまい……)
残ったぬらりひょんは天狗の後ろ姿を見送りながらそう決断した。
――人間の妖怪界への侵入。
それは例え心許した者でも決して許させることではなかった。
それは一時間前に遡る。
クーラーの効いた部屋でぺいは頭に水をかけていた。「ふう」と一息つくと目の前の少年に目をやる。
「これからどうしようかー」
ぺいは尋ねた。少年もお気に入りの河童の人形を手にして、ベッドにあぐらをかいて座り込み、一緒に首を傾げる。
「あ、そうだ。優、今から不思議石のところいってみる?」
と、ふと思いついたようにぺいは放った。少年優も目を輝かせて、「いいね!」とベッドからぴょんと飛び下りる。
このときぺいは善悪の判断がついてなかった。この決断が後にぬらりひょんの怒りを買うことになるなんて、彼は思ってもみなかったのだ。
「優、どれくらい息を止めてられる?」
「うーん、三〇秒くらいかな。でもなんで?」
突然された質問に優はまたも首を傾げて、腕を組んだ。
「不思議石があるところは妖怪界と人間界の出入口にある洞窟なんだ。そこに行くには川の中を通っていかないといけないんだ」
「そうなんだ。ぼくでも行けるの?」
事実を聞いて優は不安そうに眉間に皺を寄せる。
「三〇秒なら大丈夫。ぼくこう見えても泳ぎはうまいんだ。優を連れて泳いでも、一〇秒もあれば洞窟につくよ」
ただし、相当速いからね、と悪戯にぺいは笑った。彼ら河童は代々泳ぎの名人である。それは例えオリンピック選手でも追いつくことのできない速さだ。水の中では彼らは陸上以上に自在に動ける。彼らのいう数十秒は人間で言う数分に当たる。そのため相当な水圧を優は感じることになるだろう。
ぺいに説明を聞いた優はまた不安げな表情を浮かべた。そんな水圧耐えられるのか心配になったのだ。だがぺいはけろりとして、大丈夫だよ、と続ける。
「ぼくの粘膜を優にも覆わせるから」
「粘膜?」
河童の粘膜は当人の意識で複数の相手に覆わせることができる。その粘膜は水圧、摩擦力を下げてくれるのだ。その粘膜のおかげで彼らは応用自在に水の中を動けると言っても過言ではない。現代の人間の科学では証明しきれない。未知の粘膜だ。
ぺいは笑って首を傾げる。「どうする?」と確認と取ると、優も笑って頷いた。
「行く!」
この決断がぺいの母親に聞かれていたのであれば、すぐさま止めに入られただろう。だが、今日に限ってその母親もいなかった。それが不運だった――
いったん河童淵に戻った二人は奥の方へと進み、人のいない所でこそこそと行動を開始していた。
「さあ、これでよし」
ぺいは優に触れると粘膜を優の全身に滑らせる。ぬるぬるとしたそれは、まるで生き物かのように優の表面を走り、すぐに彼の体を覆った。
「これで水にも濡れないよ」
ぺいは胸を張って少し自慢げに言った。
「へえ、すごいや」
指先で自分の腕を突つきながら、優はその感触を楽しむ。それを見ていたぺいは優の手を取った。
「手をつないで」
「うん」
そう言うと優の掌とぺいの掌の粘膜が避けるように走り、彼らの握った手をしっかりとガードした。
「これでぼくが粘膜を解除しない限り離れることもそうそうないよ」
確かに、優は試しに握った掌を開こうとしたが無理であった。感心したように彼はその状態を見つめる。
「さて、行こうか!」
いつになくぺいは胸を躍らせてそう放った。
優にとってぺいといる水の中は空を飛んでいるような感覚だった。たったの数十秒が、優には惜しく感じた。岩や小石は彼に当たることもなく、するすると肌を避けていく。勿論傷一つつかなかった。目を開けていても痛くない。不思議な感覚だった。
(魚の気分ってこんな感じなのかな)
あとは、息ができれば最高なんだけど、と優は付け足すように頭の中で呟いた。そしてほんの数秒後に青白い光が頭上に見えた。自分がどこにいるかなんて、もはやわからなくなっていた彼が唯一目にしたものだ。
そこに向かってぺいは優を引っ張った。優の体は徐々に浮上していく。そして――
「着いたよ!」
優の目の前に広がったその光景に彼は立ちすくんだ。真っ暗な闇の中に青白く光り輝く石石が、洞窟の壁、天井、床に惜しげもなく並んでいた。いわば天然のライトだ。暗闇に浮かぶそれは、夜の星空のようにも見えた。
優は星の中を歩んでいるような、そんな感覚になる。
「これ以上先に行くとおかんやおとんに怒られるから先には連れていけないけど、しばらくここで遊ぶ?」
ぺいは光っている大きめの不思議石を一つ拾うとにっこりと笑いそれを「お土産」と、優に手渡した。
「本当は来てはいけないの?」
「うん、妖怪以外は来たらダメなんだ。でも、ここならそう簡単にばれないと思うんだけど」
「ふーん」
優は辺りを見回した。洞窟の奥にはどんな妖怪がいるのだろう、とそんな好奇心に駆られるも、ぐっと堪えた。なぜならそうしなければ、ここにいる友達が怒られてしまうからだ。
だが、そんな我慢ももうじき無になろうとしていたとは、彼らは知る由もなかった。この時既に、ぬらりひょんの耳には届いていたのだ。
そんなことも露知らず、二人は不思議石を拾い、それを並べて石のお絵かきを始める。優は『すぐる』と描き、ぺいは『ぺいのすけ』と言葉を描いた。二つの名前が隣り合わせに、ぼんやり光り続けるそれは、まるで特別な絆のようにも見えた。
そんな遊びをひとしきりすると、ぺいは横になった。それを真似て、優も仰向けに天井を見上げる。そうしていると、本当に天空に星があるかのように見える。
「妖怪ってさ、大きくなったら何をするの?」
ふとそんなことを優は思って口に出した。一瞬驚いたような顔をして優を横目でみたぺいだったが、笑って、「うーん」と首を傾げる。
「本来ならね、人を驚かすのが仕事だったんだ。でもさ、最近それも難しくなってきちゃっててね。妖怪とか、幽霊とか、そういうものがごっちゃ混ぜになってきちゃってるんだ。全然別物なんだけどね」
「そうなの?」
「うん。妖怪は昔からちゃんと人間とは別に存在していて、妖怪の歴史みたいなのがあるんだ。でも幽霊ってね、そういうのとは別に人間自身が作りだしちゃってるようなもので……ぼくも授業あんまりちゃんと聞いてないから詳しくはわからないんだけど……」
「授業があるの?」
「あるよ。妖怪の学校。ぼくらもちゃんと勉強するんだ。ぼくが最近知った事は『お化け』って言われて妖怪も幽霊もごっちゃ混ぜにされてることなんだよ。だからというわけではないんだけど、妖怪は最近は人間を驚かすことに意義を感じなくなってきてるんだ。『幽霊が出た!』って言われちゃうとやる気がなくなるんだって」
優はその話を聞きながら「そうかあ」と呟く。確かに、自分達人間も『人間であるのに人間以外の者に間違えられる』なんてことがあったら嫌だなあと、感じる。それと同じようなものだろうか。
「だから今はめっきり妖怪は妖怪の世界で働くことが多くなってるよ。学校の先生とか、妖怪郵便局とか、人間界に似た構造だよ。多分ぼくもそういう一員になると思う」
ぺいは少しつまらなそうにそう最後に呟いた。妖怪として生まれ、誰も脅さず、妖怪らしく生きられないのは、やはりつまらないのだろう。はぁ、と少しだけ小さくぺいはため息をついた。
しかし次の瞬間には目を輝かせて、ぺいは座り込むと優の顔を見て、にかりと笑う。
「優は何になりたいの?」
一瞬キョトンとして、優は目を見開いた。まさか同じ質問をされると思っていなかったのだ。
「そうだなぁ……」
彼は目を瞑った。あんまり考えたことがなかった。
「ぼくは、まだ決まってないかな」
優は目を開けて苦笑した。彼もまた座り直すと、腕を組む真似をする。
「本当はね、妖怪博士になりたいんだ」
「へえ!」
ぺいは目を輝かせた。だが、次の言葉にその光もやや曇ってしまう。
「でもね、多分なれない。お父さんに聞いたら、笑ってダメともいいよとも言われなかったけど、それってお父さんの癖でさ。そういうときは、ダメってことなんだよね。ダメって言うか、きっと、『現実味』がないんだと思う」
少し大人びた発言をする優にぺいはじっとその話を聞いていた。
「お父さん見てるとさ、お仕事って大変なんだなって凄く思うんだ。帰ってきて、眠たそうな顔をして少し笑って『ただいま』って言ってくれるけど、お風呂入ってすぐ寝ちゃうんだ。だから、ぼくはそんなお父さんをもう少し楽にさせてあげられる仕事ができたらいいなって最近は思うんだ」
子供と言うのは敏感で、それは実の親が思っているよりも、察しがいい。色んな事を考慮して、大人の驚くような思考を生み出す。子供らしくない、と言われる子供の大半は、否、どの子供も大半は親の背中をよく見ている。親が辛そうであることを、感じとらない子供はいない。親が子を大事なように、子も親が大切なのだ。だから良く見て、良く考える。
特に優には母親がいない。父親の姿が親の姿そのものなのだ。そんな彼が大人びた感性をこの年で持っていても不思議なことではないのだ。
そんな少し大人びている優を見てぺいは感心した。人間って凄いなと、素直に感じた。誰かのためになれる大人になりたい、ぺいはそう思ったことはなかった。
と、わずかに静寂が辺りを包んだ。二人とも色々と考えていたのだ。そんな時だった。
「ぺい、及びそこの人間の子供よ」
急に目の前に、黒い羽が彼らの目の前に音もなく現れた。驚いて腰を抜かすぺいに、口をあんぐりと開けて動かない優がそこにいる。
「私は天狗の鷹助。ご同行願おう。ぬらりひょん様がお待ちだ」
黒い羽の正体は、あの、天狗だった。赤い顔に長い鼻。そして、背中には烏のような漆黒の羽。身に纏うのは修行僧の格好で、誰が見ても天狗だった。音もなくやってきたのは、その飛ぶ早さが尋常ではなかったからであろう。
鷹助の顔を見て、ぺいは顔を強張らせた。
「あなた……ぬらりひょん様のお付きの……」
「ぺい……貴方はしてはいけないことをしました。お分かりですか」
「で、でも! 洞窟までだよ! その先は――!」
鷹助はぺいの瞳を見て、悲しそうな瞳を浮かべた。「わかっている」とそう訴えるような眼であった。
「人間に、入口がばれることは決してあってはならない。ぺい、人間の子供、優よ、一緒に来てもらう」
優には突然のことすぎて何が何なのかわからなくなっていた。「え? え?」とただ聞き返すのみだけである。天狗が現れ、ぬらりひょんがどうという話をしていて、ぺいが何か戸惑っている。それだけが優にはわかった。だがそれ以上のことはわからない。
ぺいも優も、目の前の大きな天狗の両腕に抱きかかえられた。そしてその大きな翼で、ぬらりひょんの下へと向かっていくのだった。




