変わらない風
第六十話
変わらない風
空は、歩くより静かだ。
地上みたいに足音が残らない。
道も、轍も、血も――今は遠い。
僕は運び屋の背にしがみつきながら、
指先で羅針盤を押さえていた。
風に煽られると、針が一瞬だけ迷う。
そのたびに、胸の奥が小さく跳ねる。
運び屋は何も言わない。
ただ、翼の角度を変えて、
空気の硬いところを選ぶみたいに滑っていく。
下では、煙がいくつも立っていた。
細いものもあれば、太いものもある。
生活の煙。鍛冶の煙。焼き場の煙。――そして、争いの煙。
同じ煙なのに、
匂いが違う気がして、
僕は唇を噛んだ。
「見えるか」
運び屋が、前を向いたまま言った。
「……見える。煙が多い」
「煙は嘘をつかない」
短い声。だけど、妙に重い。
僕は視線を少し右へずらす。
海を渡る船が、点みたいに流れていく。
大きい船も小さい船も、同じ方向に進むわけじゃない。
海流と風に、
勝ったり負けたりしながら、
ただ“運ぶ”ために動いている。
「船、多いな」
「ここは中継が多い。人は流れを止めない」
「止められない、の間違いじゃない?」
運び屋は一拍だけ黙って、翼をひとつ大きく打った。
「どっちでもいい。結果は同じだ」
その言い方が、
少しだけゾフ族の軽口に似ていて、
僕は勝手に笑いそうになった。
笑っていい場所じゃないのに、
笑いが出そうになる。
そういう瞬間が、今は怖い。
風が冷たくなってくる。高度が上がったのがわかる。
雲の縁をかすめると、白い霧が肌を舐めた。
僕は背負い袋の紐を掴み直した。
地図。
紙束。
木炭。
針と糸。
乾いた肉。
水袋。
ここに来てから、僕の“持ち物”が増えた。
増えるたびに、責任みたいな重さも増える。
「重いか」
運び屋が訊く。
「重い。でも、落とす方が怖い」
「なら、握れ」
「うん」
会話はそれだけで十分だった。
言葉を増やすほど、風に削られていく。
ここは空だ。大事なものほど短くなる。
しばらくして、
運び屋が翼をたたむ角度を変えた。
ほんの少し下降する。
地上が近くなると、
世界の音が戻ってくる。
遠くで鐘みたいな音が鳴った。
たぶん港だ。
別の方向からは、
獣の鳴き声が流れてきた。
それに混じって、
人の怒鳴り声も――薄く、細く。
僕は地図を広げる。
風で持っていかれないよう、端を指で押さえる。
地図の端はところどころ欠けていて、
山脈のあたりは線が乱れている。
記した者の手が震えたのか、
あるいは“書けなかった”のか。
「この辺りは……白い」
「飛ばない場所だ」
「……飛べない、じゃなくて?」
「飛べる。だが、飛びたくない」
その言い方で、十分だった。
空の種族が“嫌がる空”なんて、
ろくなものじゃない。
夕暮れが、背中から追いついてくる。
空の色が薄くなり、影が長くなる。
遠い雲が、赤く焼けた刃物みたいに見えた。
「今日は、ここまでだ」
運び屋が言った。
僕は頷く。
“まだ行ける”と言いかけて、やめた。
言えないわけじゃない。言っても、意味がない。
降りる場所は、小さな岩場だった。
草が少なく、風が抜ける。
火を起こすなら目立つが、今日は小さくでいい。
僕は地面に膝をつき、背負い袋を下ろす。
「水、残ってる」
「飲め」
運び屋は、周囲を見渡す。
首を動かす角度が少しずつ違う。
空を見て、地面を見て、遠くの暗がりを見る。
その動きが、翼を持つ者の“仕事”なんだと、今さら思った。
僕は乾いた肉を半分に割って差し出す。
「食べる?」
運び屋は一瞬だけ見て、受け取った。
「……助かる」
たったそれだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
“繋ぎ手”なんて言葉より、こういう短い言葉の方が、僕には効く。
夜が降りてくる。
空の星は早い。地上の闇は遅い。
遠くの煙だけが、暗闇の中でまだ生きているみたいに揺れていた。
僕は寝床を整えながら、最後にもう一度地図を見る。
白い場所が、嫌なほど多い。
「明日から、揺れる」
運び屋が言った。
「わかってる」
「手を離すな」
「……離さない」
短い約束。
でも、今の僕にはそれで十分だった。
僕は羅針盤を袋に戻し、
目を閉じる。
空の旅は続く。
世界は広い。
そして――
争いの煙だけは、
どこにでもある。
そのことを、眠りの底に落とすみたいにして。
僕は、静かに息を吐いた。
つづく




