東へ
第百二十五話
東へ
港町の夜は、まだ熱を残していた。
海から上がる湿った風と、通りに漏れる灯り。
人の声と、酒の匂い。
その中心にある酒場の扉が、ゆっくりと押し開かれる。
きい、と木の軋む音。
一瞬だけ、店内のざわめきが止まった。
視線が集まる。
マントを翻し、先頭に立つ青年。
カイル・レイフォード。
その背に続く四つの影。
誰かが息を呑む。
「……あの紋章」
「まさか」
「おい、あれ」
小さなざわめきが、波紋のように広がった。
「あれって――」
「カイル様じゃねえか」
「本物かよ」
カウンターの奥で、酒瓶を拭いていた店主が手を止める。
一拍。
そして、何事もなかったかのように、
顎で奥の席を示した。
「……空いてる。好きに使え」
それだけ。
だが、それで十分だった。
常連たちが、さりげなく椅子を引く。
通路が空く。
視線だけが残る。
歓迎でも、騒ぎでもない。
――英雄慣れした街の対応だった。
カイルは軽く会釈し、仲間へ視線を送る。
「行こう」
奥の大きな卓へ、五人が進む。
椅子が引かれ、順に腰を下ろす。
その瞬間。
「酒あるか?」
ツバキが言った。
着物の襟を無造作に崩し、
椅子に深くもたれながら。
「あるだけ出せ」
隣の客がむせた。
カイルがすぐにため息をつく。
「座って三秒だぞ」
「長旅だったんだ。
一杯目は水みてえなもんだろ」
ツバキは肩を回しながら言う。
その横で、サフィールが静かに指を立てた。
「店主。蒸留酒を。南方産があれば理想だ」
落ち着いた声。
柔らかな物腰。
「あと、グラスは薄口で頼む」
店主が眉を上げる。
「……あるな」
「さすがだ」
サフィールは満足げに微笑む。
そのやり取りを横目に、小さな声が続いた。
「……あの、すみません」
エリシアだった。
背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。
「温かいミルクを、いただけますか?」
酒場が、ほんの一瞬だけ静かになった。
そして――
「……あるぞ」
店主が短く答える。
笑いは起きない。
冷やかしもない。
ただ、少しだけ空気が柔らいだ。
エイルが肘をつき、くすりと笑う。
「相変わらずね、エリシア」
「すみません……
私、お酒はまだ……」
「いいんじゃない?」
エイルは軽く肩をすくめる。
「この中で一番まともだし」
「おい」
ツバキが即座に反応する。
「今のは聞き捨てならねえな」
サフィールが口角を上げる。
「安心したまえ。私も同意見だ」
「てめえもか」
カイルは小さく息を吐き、額を押さえた。
「騒ぎすぎるなよ」
だが声は柔らかい。
止めるというより、整える声音。
飲み物が並び始める。
酒。
酒。
酒。
ミルク。
ツバキが早速杯を持ち上げる。
「……っはぁ」
一口。
「生き返るな」
「まだ死んでないだろ」
カイルが呆れ気味に返す。
サフィールは酒を軽く揺らし、香りを確かめる。
「南方のものだな。
熟成は浅いが悪くない」
「飲めりゃいいだろ」
ツバキが言う。
「君は本当に野蛮だ」
「うるせえ」
エイルは頬杖をつき、店内を見渡していた。
「……視線、多いわね」
小声。
「敵意はないけど」
カイルが頷く。
「気にするな。
慣れてる」
エリシアがミルクを両手で持ち、
少しほっとしたように微笑んだ。
「……温かい」
その一言で、卓の空気が落ち着く。
しばらく、静かな時間。
酒の音。
食器の触れる音。
低い笑い声。
旅の合間の、当たり前の時間。
ツバキが杯を置き、カイルを見る。
「で?」
「東だろ?」
カイルは短く頷いた。
「東だ」
サフィールが軽く笑う。
「相変わらずだな。
君は迷わない」
エイルが目を細める。
カイルは杯に手を伸ばす。
杯が半分ほど空いた頃だった。
カウンターの奥で、
黙ってグラスを拭いていた店主が、
ようやく手を止めた。
視線だけが、こちらへ向く。
「……東へ行くのか」
低い声。
カイルが顔を上げる。
「ああ」
短く返す。
店主はしばらく何も言わず、グラスを置いた。
そして、ゆっくりとカウンターを回り、
五人の卓へ歩いてくる。
足取りは重くない。
だが、妙に静かだった。
椅子を引き、断りもなく腰を下ろす。
元冒険者特有の距離感。
卓の上の空気が、わずかに締まる。
「ここは西の端だ」
指先で、テーブルを軽く叩く。
「大陸で一番栄えた港町」
サフィールが頷く。
「物流の集積地でもある」
「そうだ」
店主は短く返し、続けた。
「中央には、大街道がある」
「大陸を縦に貫く一本の道だ。
北から南までな」
ツバキが杯を回す。
「わかりやすいな」
「迷うことはない」
店主の声は淡々としている。
「その道を東へ進めば、
いずれ山が見えてくる」
エイルの耳がわずかに動いた。
「山?」
「ああ。
大きな山脈だ」
だが、そこで店主は言葉を切った。
それ以上は、続けない。
サフィールが視線を上げる。
「越えた先は?」
店主は、少しだけ間を置いた。
「……知らん」
あっさりと。
「少なくとも、
俺が若い頃は――」
言いかけて、やめる。
代わりに肩をすくめた。
「東は東だ」
「昔から、
ろくでもない噂しか戻ってこない」
カイルが静かに聞く。
「魔族か」
店主は否定しない。
「……いる」
それだけ。
断言でも、断定でもない。
だが、重い。
「街が消えたとか、隊商が戻らないとか、
そういう話はある」
「だが、確かなことは
誰も持って帰ってこない」
エリシアが胸元で手を組む。
「困っている人がいるなら……」
店主は彼女を見る。
少しだけ目を細めた。
「いるだろうな」
ツバキが笑う。
「上等」
サフィールがグラスを揺らす。
「未知か。
興味深い」
エイルは窓の外へ視線を流す。
「……風、少し重い」
カイルは何も言わない。
ただ頷く。
店主が立ち上がる。
「まあ――」
椅子を戻しながら、軽く鼻で笑った。
「あんたらなら、
どうにでもするんだろ」
それは期待でも、皮肉でもない。
ただの事実確認。
カイルが答える。
「進む」
「そうか」
店主はそれ以上何も言わず、
カウンターへ戻っていく。
背中越しに、一言だけ残した。
「明日出るなら朝にしろ」
「昼を過ぎると、
この街の外は風が荒れる」
それで終わりだった。
卓に、再び静かな時間が戻る。
ツバキが杯を置く。
「東か」
サフィールが笑う。
「ようやく本番だな」
エイルが小さく呟く。
「……何かいるわね」
エリシアが微笑む。
「皆さんと一緒なら大丈夫です」
店主が去ったあと、卓には静かな時間が戻っていた。
酒の匂い。
食器の触れ合う音。
遠くの笑い声。
どこにでもある、港町の夜。
ツバキが最後の一口を飲み干し、
喉を鳴らす。
「……っはぁ」
満足げに息を吐き、椅子にもたれた。
「悪くねえ街だな」
「食事も飲み物も、
とても美味しいです」
エリシアが柔らかく笑う。
両手で持った空のカップを見つめ、
少し名残惜しそうにしていた。
サフィールはグラスを傾け、
残った酒をゆっくり飲み干す。
「補給も十分。
情報も手に入った」
「順調だな」
エイルは窓の外を見ていた。
港の灯り。
揺れる帆。
夜の海。
「……いい夜ね」
小さく呟く。
カイルは椅子から立ち上がった。
それだけで、四人の視線が自然と集まる。
「明日、出る」
短く。
だが、それで十分だった。
ツバキが笑う。
「おう。
体も鈍りかけてたとこだ」
サフィールが肩をすくめる。
「未知の大陸東部か。
退屈はしなさそうだ」
エリシアが小さく頷く。
「皆さんと一緒なら、
どこへでも」
エイルが立ち上がり、
軽く伸びをした。
「じゃ、今日はここまでね。
久しぶりにきちんとした寝床」
カイルが会計を済ませる。
過剰なやり取りはない。
値切りもしない。
礼だけを残す。
扉を押し開けると、夜風が流れ込んできた。
港町の夜は、まだ明るい。
灯りが並び、人の声が絶えない。
だが五人は、もう歩き出していた。
宿へ向かう足取りは軽い。
迷いはない。
明日、東へ向かう。
それだけが、すべてだった。
大陸の風はまだ静かで、世界は平穏に見えた。
つづく




