立ち止まったその先には
この手紙を、いつ読むべきか。
かなたの頭の中は、その考えだけがぐるぐると駆け巡っていた。
京の治安は、時代が変わる狭間にあって、日を追うごとに悪化していく。
本当なら駐屯所に戻り、誰かに護衛を頼んで屯所へ帰るべきなのだろう。
けれど、今はその屯所にさえ戻りたくなかった。
かなたは坂本からの手紙を懐に入れ、しばらくの間、ぼんやりと歩く。
すると、すれ違いざまに一人の男とぶつかってしまった。
「あっ、す、すみません!」
「いや、こちらもすまない」
咄嗟に謝ると、男は被っていた笠を持ち上げる。そして、かなたの顔を見た途端、はっとしたように目を見開いた。
「中村…か?」
「あ……斎藤さん…!」
そこには、御陵衛士として伊東甲子太郎共に新選組を出ていった、斎藤一の姿があった。
「お、お久しぶりです……」
斎藤と顔を合わせるのは、御陵衛士の面々が新選組を出て以来、実に二年ぶりだろうか。
かなたも斎藤も、互いに気まずさを覚えたまま、しばし沈黙が流れる。
すると斎藤は、かなたの様子に何かを感じ取ったのか、わずかに目を細め、笠を深く被り直した。
「中村…今、時間はあるか?」
「え……? はい…少しだけなら……」
かなたがそう答えると、斎藤は小路へと入り、少し振り返ってかなたを見る。
「では、茶でも馳走しよう。こちらへ来い」
そう言うと斎藤は、迷いのない足取りで歩き始めた。
かなたは少し面食らいながらも、慌てて彼の後を追った。
――――
「こんな所に、茶店があるなんて知りませんでした…」
斎藤の後を追って入った、茶屋の椅子に座ると、かなたは店内を見渡す。
「俺もついこの間知ったんだ」
斎藤がそう言うのも無理はなかった。
なぜなら、店の入口や窓はすべて締め切られており、外から中の様子はまったく窺えない。
「ここの主人はどうやら、阿呆のようでな……まあ、こういう、あまり見られたくない場面には適しているがな」
斎藤がちらりと視線を向けた先には、老婆が一人、四六時中身を震わせながら店番をしていた。
店に入った際、茶と団子を頼んだはずだが、運ばれてきたのは茶だけだ。いや、茶だけでも出てきたのが奇跡、と言うべきだろうか。
とにかく店内は薄暗く、客の姿は他に見当たらなかった。
斎藤とはあまり面と向かって言葉を交わしたことがなかったので、かなたは気まずさを覚えながらも、一口茶をすする。
斎藤はゆっくりとこちらに向き直ると、ようやく口を開いた。
「…それで、何かあったのか?」
「え?」
「ああ、いや……何となく、様子がおかしいと思っただけだ。こちらの見当違いだったなら、すまない」
斎藤はそう言うと、少し照れたように視線を逸らす。
その様子を見ているうちに、かなたは昨日や今日の出来事を、気づけば口にしていた。
目の前の彼は相槌を打つこともなく、ただ黙って耳を傾けている。
話し終えたあと、斎藤は茶を口に含み、「そうか」と短く呟いた。
「坂本龍馬が、か…」
その口ぶりからして、彼もこの件をまだ知らなかったのだろう。
噂が広まっているのは、今のところ四条のあたりまでのようだ。
「はい……それに、土方さんにも当たってしまいました」
自分を戒めるような、かなたのその言葉に、斎藤はすぐには答えず、考えるように顎に手を添えた。
「副長も、中村も、どちらもよく考えた結果だろう。どちらも悪くはない。それは土方さんも分かっているはずだ。だから、そんなに気に病むな」
そういうと、一拍置いて彼は視線を湯のみへ落とす。
「お前は知りすぎている分、背負いすぎる。だが、知っていても止められんことはある。それを無理に変えようとして、すべてを壊すより…見届けることを選んだのなら、それも一つの覚悟だ」
斎藤の言葉は、励ましでも答えでもなかった。
けれど、そんな言葉が今はありがたかった。
かなたは握っていた湯のみの力を、ほんの少しだけ緩め、微笑みを返す。
「ありがとう……ございます」
今はこの一言でしか表せないが、いつかきっと、ちゃんとした形で礼を伝えよう。
そう心に誓ったところで、ようやく老婆が団子を机の上に置いていった。
それを一口頬張ると、胸につかえていたものが、少しだけ和らいだ気がした。
それからしばらくして、二人は店を出た。
「それじゃあ、ありがとうございました。おかげで、少しだけ元気が出ました」
斎藤は店の戸を閉めると、傘を深く被り直す。
きっと、御陵衛士の人間に見つかると色々と厄介なのだろう。
「気にするな。屯所まで送らなくて大丈夫か?」
「はい。何だか今日は、走って帰りたい気分なので…」
そう答えると、斎藤はその顔に似合わぬ、柔らかな笑みを浮かべた。
「ふっ、そうか。では、気をつけて帰れよ」
その笑顔に、かなたは思わずぽかんと口を開けてしまう。
この時代に来て、斎藤と出会ってから随分経つが、彼のこんな表情を見るのは、初めてかもしれない。
「あ、は、はい! ありがとうございました! では…」
ここで指摘してしまえば、かえって彼に気を遣わせてしまうだろう。
そう思い、かなたは慌てて別れの挨拶を済ませると、屯所に向かって走り出した。
斎藤は、その背中を見送ると、ただ黙って歩き出す。
自分も、あいつのように頑張らなければならない。
そう決意すると、斎藤は再び、無意識のうちに微笑むのだった。




