江戸時代の文字
番外編のような、日常のお話です。
文久三年十月
季節は秋。京の景色も紅く染まり、気温も寒むくなってきた。
あれからかなたは少しずつ、いつもの元気を取り戻しつつある。
「おい、かなた。今日からこの仕事も手伝え」
そういって土方が渡してきたのは書類仕事だった。どうやらあの一件からほんのわずかだが、かなたのことを認めようとしてくれているらしい。
「まだ、お前のことは信用してねぇからな。簡単な仕事だけだ」
まあ、そうだと思ったが。
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
アルバイト仕込みの作り笑いをしながら、渡された紙を見る。そこには、ミミズのような文字が沢山書かれている。
「あの、土方さん? これはなんて書かれているんですか?」
「あ? お前、文字の読み書きが出来ねえのか?」
いや、出来るのはできる。というより現代人なら大抵、読み書きは出来るだろう。けれど江戸時代の文字、いわゆる"くずし字"は、さすがに勉強していなければ、お手上げだ。
「いや、このような字はちょっと書けません。普通のやつなら書けます」
「普通のやつってなんだよ。これも普通だろ」
土方の突っ込みにかなたは、何も言い返せない。でもこの時代で生きていくなら、避けては通れない壁もある。
「じゃあ、この文字の読み書き教えてください!」
「...は?」
勢いよく詰め寄るかなたに、土方は眉をひそめた。
「俺は忙しいんだ。山南さんにでも教えて貰え」
それだけ言い捨てて、土方は足早に去っていった。仕事を任せたのに、なんとも無責任である。
仕方なく、かなたは書類を抱えたまま、山南の姿を探して歩き出した。
ーーーー
「あ、山南さん」
かなたは廊下を歩いていた山南の姿を見つけて、小走りに駆け寄る。
「おや、かなたさん。こんにちは」
山南の手には筆と薄い帳面が握られており、どうやら先程まで何かの記録をしていたようだ。
「こんにちは。何されてるんです?」
かなたは書類を抱えたまま、少し首をかしげる。
「隊士たちの当番表を直していたところです。風邪をひいた者が出たので、少し入れ替えが必要になりましてね」
そう言って山南は帳面を軽く掲げた。丁寧に並んだ文字が見えて、かなたは相談をもちかける。
「あの...実は、土方さんに書類を渡されて......でも、字が全然読めなくて」
かなたは困ったように笑いながら、抱えていた紙束を胸の前にずらして見せる。表紙に書かれた文字は、どれもくにゃくにゃと曲がっていて、まるで暗号のようだ。
「ふふ、土方君らしいですね。信用はしていないと言いつつ、ちゃんと役目を与えているんですから」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。彼なりのやり方なんですよ。任せられる範囲で少しずつ........ですね」
山南は納得したように頷き、かなたの手から一部の紙を受け取ると、目を通し始めた。
「これは、今月分の米の受け取り帳ですね。物資が届いた日付や量、それから保管場所などが簡単に書かれています」
「な、なるほど」
「記録の形式は決まっていて、慣れれば読むのはそう難しくありません。例えばここには、"二升"と書かれています」
「へぇ.....」
「"二"はともかく、"升"のくずしは特徴的ですからね。....こういう字は、何度も目にすると自然と読めるようになりますよ。特にかなたさんは、私が見る限り物覚えが良さそうですし」
「そ、そうですかね....」
「えぇ、頭の回転も早いので、すぐに覚えられますよ」
褒められて照れくさいが、それ以上にやる気が湧いてくる。この人は、その気にさせるのが上手い。
「が、がんばります!」
「ふふ。では、まずは"日付"の見方から始めましょうか」
山南は部屋へ入ると筆を手に取り、かなたと共に机の前に座る。書類仕事というより、まるで寺子屋の一場面のようだ。
そうしてかなたは、くずし字の世界に、少しずつ足を踏み入れていくのだった。




