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懸念材料

 私の名はヴァニティ。帝国軍の将軍だ。

 カールをマイシャへ派遣してから数日が過ぎていた。

 難民の手引きとは言っても,毎夜毎夜行われるわけではない。通常は一定の数が揃ってからまとめて手引きする方が発覚のリスクが少ないからだ。

 必然的にカールはその作戦が行われるまではマイシャに駐留する事となり,夜の間じゅう見張る関係で昼夜逆転の生活を送る事にもなる。

 なかば妖魔と行動を共にしているような状態であり,単独で行かせた事には多少のうしろめたさを感じなくも無いが,仲間たちに言わせれば日頃の侍女との生活が充実しているのだからそれくらいで丁度いいらしい。

 そんなある日。私は例によって,ユーリエに武術指導を行っていた。

「…今日はここまで」

 そう言って,ふうと息を吐く。

「ありがとうございました」

 そう言って礼をするユーリエ。

 もともと宮廷で培われてきた彼女の身のこなしは,洗練された隙のないものだった。だが今やいくつかの奥義まで修得した彼女のそれは,ゆるぎない自信を得て凄みすら醸し出すようになっていた。

「ありがとう…ございましたぁ…」

 一方のリリーは大きく肩で息をしている。

「…」

 いくらそっち方面に暗いとはいえ,それでも龍戦士の筈の彼女ですらまともにつきあえなくなるほどに熟達するとは。せいぜいさわり程度,そこから先は時間が許してくれないだろうと思ったあの日が遠く感じられる。

「あの…将軍?」

「…ん?…いや,何でもない…」

 訝しむユーリエに曖昧な微笑を返すと,彼女は困ったような悲しいような怒ったような何とも複雑な表情を向けてくる。

「…さて,次は剣だな」

 それを受け流して背中を向け,壁に立て掛けてあった蛟龍へと歩み寄る。

 後ろでユーリエが小さく溜息をつく。

「…」

 このところお決まりの流れだ。そして原因はこちらにある。要は近頃の状況が心に重くのしかかり,本来ユーリエの数少ない楽しみのためのこの時間までも,こうして雰囲気を悪くしてしまっているという事だ。

 さらに悪い事には,もともとあったもうひとつの楽しみ,”風”のエリィの見守りの方にも変化が起こっていた。”紅き流星”が行方をくらませてからすでに多くの時が流れ去り,聞くところによると約束の期限らしい二年が着々と近づいて来ていた。それに伴ってエリィの心身も限界に近づいており,それを見守るしかないユーリエにとっても決して楽ではない時間となってしまっていたのだ。

(…まぁ…そちらはどうしようもない事だが…)

 ユーリエに聞かせるわけにも行かない。心の中で溜息をついて,蛟龍を腰に。

「!」

 だがそこで予想外の事態が起こった。ちりっ,と震える蛟龍。

(まさかっ…!)

 ある意味日頃そればかり考えていたのだ。半ば反射的に浮かぶ,ある可能性。

「動くなっ!」

 自分でも随分久し振りというほどの俊敏さで二人のところへ跳躍。そのまま右腕にユーリエを左腕にリリーを抱えて引き寄せる。

「え…!?」

「ちょ…!?」

 突然の事に二人とも短く驚きの声を上げるが,少なくとも今はおそらくそれに構っている局面ではない。

「…」

 虚空をにらみながら,わずかな変化も見逃すまいと全神経を尖らせる。

「あ,あの…」

 腕の中でユーリエが身じろぎする。

「…じっとしていろ」

 少々きつく抱き寄せ過ぎたかも知れない。やや腕の力を緩めながら,しかしそう告げる。

「ユーリエ様,従って」

 反対側からリリーが真面目な顔で言う。このあたり,前例もあれば付き合いも長いリリーの方が話は早い。ユーリエはそれでようやく異変を感じて動きを止める。

「…」

 そのまましばらく,辺りを静寂が支配する。

 だがそれ以上の事は起こらなかった。蛟龍の震えは次第に弱くなっていき,やがて止まった。

「…もう大丈夫のようだ…」

 そう言って二人を抱えるのをやめる。

「あ,あの…何が…?」

 ちょっと頬を染めながら少し距離をとるユーリエ。

「…ん,ああ…」

 そこでなぜか思ったままを告げる事が憚られる。

「…すまない,異変が起こったと思ったのだが,どうやら勘違いだったようだ…」

「ボス…?」

 それを訝しむ響きがリリーの言葉に混じる。

 じっさい,蛟龍の震えは小さなものだ。腰に差している自分は確かな感覚としてそれを掴むことができるが,そうでもなければよほど注視でもしていない限りはそれに気づく事はできない。

 だが前例もありその仕組みを独自に研究してもいたリリーは,おそらくは蛟龍を注視していたのだろう。

「…漆黒将軍も,いよいよ平和に浸りきってなまってしまったようだな」

 ユーリエに取られぬようにそれに目配せし,当のユーリエには苦笑して見せながらそう言う。

「将軍…」

「…そうか,そうだな…すまない。非常時ならばともかく,勘違いで無礼なふるまいをしてしまったな…」

 深々と頭を下げる。誤魔化しの演技をしているかのような居心地の悪さを感じるが,それが勘違いであろうとなかろうと無礼なふるまいには違いない,と思い直す。

「い,いえ…」

 それで先ほどの成り行きを思い出し,再び頬を染めるユーリエ。

「…すまないついでに。今日の鍛錬はここまでとさせてほしい。…どうやら,先ほどの勘違いを引き起こすほどには体調が思わしくないようだ」

「えっ…」

 目を丸くして,すぐに気まずそうな表情で俯くユーリエ。

「す,すみません…」

「…いや,謝らねばならないのはこちらのほうだ…」

 こちらの体調が思わしくない事に気づけなかった事を詫びているのだろう。それにまた居心地の悪さを感じる。

 しかし今は,一刻も早く先ほどの懸念を確認しておきたい。

「…リリー,後は頼む」

「え?あ,うん…じゃぁユーリエ様,お風呂で汗を流した後で研究に付き合ってよ…」

 そんなやりとりに背中を向けてそそくさとその場を後にすると,自室へ向けて足を早める。

 先ほどは条件反射的に判断して行動したが,とりあえずの危機が去った今,落ち着いて分析し直す必要がある。

 自分にとって蛟龍の異変はつごう三度目で,うち二度はいずれも邪神がらみだ。逆に言えば邪神以外の異変は未経験で,蛟龍が異変によって反応を変えるような器用さを持ち合わせているのかどうかも分からないのだから,今回も邪神がらみと考えるのは早計だ。常識的に考えてマイシャから先へ進めていない帝国にエリティアの封印を解く事など不可能なのだから,邪神以外の異変である可能性もじゅうぶんにある。

 自室へ戻り,扉を閉めるとそれに背中を預ける。

<…父祖…>

 父祖へ話しかけるのは実に久しぶりだ,などと場違いな事を考えながら,古代語を意識して口を開く。これならば仮に声が漏れていたとしても,全てを知られてしまう危険は少ない。

<ユーリエには当面伏せておけ,という事で良いのだな?>

 このあたり,全てを見ている父祖は話が早い。

<…ああ。無用な心配はかけたくない> 

<ふむ…>

 その言葉に不審の響きは無い。前回のあれで,それなりに信頼されてはいるようだ。無条件に信頼されてはもちろん困るが,今はむしろありがたい。

<…父祖が,影響を軽減していたのか?>

 今回の蛟龍の反応には,喩えるなら手袋をはめて物に触れるような,そんな鈍さが感じられたのだ。

<そうだ。私はアリシアへ向けられる脅威からアリシアを護るのが役目だからな>

<…で…今回の異変を,どう見る?>

<どう,とは?>

<…>

 そこで父祖の反応にやや苛立つ。何のかんのと言っても最悪のケースが頭から離れず,父祖の物言いが切り札を隠して駆け引きに出ているかのように聞こえたためだ。

 やはり自分はまだまだ未熟だ,そう自戒しながら努めて冷静に言葉を繋ぐ。

<…私には経験が少ない。長きにわたってさまざまな脅威に触れてきた貴方ならば,今回のこれにもある程度の目星はついているのではないかと思って聞いてみたのだ>

<質で言うならば…そうだな,お前が此処に来る直前に触れたものに近い>

<!>

 やはり駆け引きと思わせたのは追い詰められた自分の精神状態だったらしい。何の惜しげもなくいきなり核心に触れる父祖。

<…では…邪神の封印が解けたというのか…>

<それは分からぬな。お前たちの話を聞いている限りではまったくあり得ぬ話だ。エリティアのそれがどのような状態なのかは分からぬが,少なくとも偶然に解けてしまうような代物でも無い>

 ルマールとの通信の話の事を指しているのだろう。確かにその通りだ。あの話の流れでエリティアの封印が先になるわけがない。

<…だとすれば,いったい…>

<それは分からぬな。感覚としては確かに先ほど言った通りだ。それ以外の何にも似ておらぬ>

<…>

 可能性としては,邪神以外で邪神並みの脅威の何かがあるのかもしれない。だがやはり,それだけの脅威が何の前触れも無しにいきなり起こるとは考えにくい。長きにわたってさまざまな予言を蓄積しているアリシアならばなおさらだ。

<で…どうするのだ?>

 こちらの質問をほとんどそのまま投げ返してくる父祖。

<…現状では動きようが無い>

 ルマールに確認をとる,という手段も無いわけではない。だがそこで,またなぜかそれが憚られる。培った勘がそうさせるのか,あるいは後ろ向きになっている精神状態のせいなのか。こちらの行動を,罠を張って待ち構えられているかのような感覚。

<…仮に,邪神以外の何かとするなら…今まで通りで構わないだろう>

 きっと後者だ。軽く二度三度頭を振ってそれを追い出し,言葉を繋ぐ。

<…邪神以外のそれが,邪神並みの脅威とすれば…ここアリシアに何の予言も遺されていないわけがない。貴方や女王が知らぬわけもあるまい>

<随分と,信用されたものだな>

 軽く鼻で笑うかのような口調で言う父祖には構わず,言葉を続ける。

<…それが無いという事は,大した脅威ではない…つまり予め対策を立てる程のものではなく,起こってからでじゅうぶん対処できる程度のものだという判断で良いはずだ。文献の散逸という可能性も無いわけではないが,それこそアリシアの性格から考えてあり得ない話だ>

<ふむ…ではあれが邪神のものとして,それでも動かぬで良いのか?>

<…まず,現状ではこちらに確認の方法はほぼ無い>

 そこで先ほど振り払った感覚が再び忍び込んで来る。

<…唯一絶対の方法は,本国のルマールと話す事だろう。我々が此処に居る意味も含めてもともとあり得ない話だが,その不可能を可能にできる力があるとすれば,やはりルマールしか居ない>

<そうせぬのか?>

<…次にそこだ。こちらからそれを切り出すのは得策ではない>

 それを言ってしまって,それまでもやもやとしていた感覚が形を与えられ急速にはっきりしていくのを感じる。

<…帝国にとってもそれは,たとえば陛下が崩御なさるのと同等の重大事だ。もし本当に何らかの方法で解いたのならば,すぐに向こうから何らかの伝達があってしかるべきだ。逆に言えば,急ぎの連絡が無ければそうではないという事にもなろう>

 本来的には重大でなくとも即座に連絡をすべきだ。だがルマールは,ハンが倒れた事実をしばらく伏せていた。大事に至らなかったという釈明もあり,もろもろの事情も絡んで結局その件の是非は問われなかったわけだが,少なくともそれは,ルマールも重大事であれば連絡すべきという認識である事を意味する。

 だが封印ともなれば話は別で,解いたとすれば無条件で即座に連絡すべきものだ。今までも散々その是非と事の重大さとを論じてきたのだから,些事と放置する事などあり得ない。

 仮にそれでもルマールがそれを伏せたとすれば,そこには見過ごせない何かが起こっているという事になる。

<ふむ…>

<…こちらから先につついてしまうのは…危険だ>

 しかしこちらの見立てとしては,あれは邪神によるものだ。見過ごせない何かなどただの取り越し苦労というならともかく,そうでなければ先にこちらの手の内を明かすのは得策ではない。

<よかろう。では向こうがそれを言わねば,その時はどうする?>

<…真偽がはっきりするまではやはり待ちだろう。仮にエリティアの封印が解けているとすれば…当然そちらはかなりの…国を揺るがす程の激震のはず。いずれなんらかの情報は入ってくるだろう>

 連合にとってはエリティアこそが最後の砦なのだ。それを失ってなお現状維持などという選択はあり得ない。

<…どのみちここの封印を解く気は無いのだ。それから動いたとしても大勢に影響は無いし,女王に報せるのもそれからで良いだろう>

<ふむ…では>

 父祖がおもむろに言う。

<ここが最後の砦となったかも知れぬという不安は全て,お前がユーリエの肩代わりをして引き受ける。敢えて情報を伏せるという選択をした事のもたらす結果も,責任も,すべてお前が引き受ける。そういう事で良いのだな?>

<…そうなるだろうな>

 同じ情報を持っている父祖が何を最善とするか,それは父祖の判断だ。伏せるとはすなわち父祖にも口止めを頼むという事で,その責任も結局は自分が引き受けるという事になる。

<お前は,それで良いのか?>

 意外な一言。

<…父祖?>

<ユーリエ(あれ)は…お前のそんなところにも申し訳なさを感じている>

<…っ>

 ユーリエの悲しそうな表情が浮かび,胸が痛む。

<むろん最終的な決定権はお前にあり,結論は変わらぬのだろう。だが…敢えて訊こう。独りで抱えてしまって…良いのだな?>

<…ああ。それで構わない>

 全てを満足させる答えが無いのなら,より善き道を選ぶ。そう信じて進み続けるしかない。

<よかろう>

 父祖の声が,妙に重々しく響いた。

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