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下巻


 自室のソファで海堂と向かい合い、海瑠は腕を組んでいた。珍しく眉間に皺を寄せている。まだ昼間ということもあり、テーブルに置かれているのは濃い日本茶の注がれた急須と湯呑だった。

「ねぇ海瑠! 今日は買い物付き合ってくれる約束だったじゃない。なんで急に無理になったの」

 七海が耳に響くほどの大声でがなり立てる。可憐ではかなげな見た目からは想像もつかないやかましさだ。

「だから仕事で海堂さんと大事な話があるんだ。この後すぐに出ないと駄目で、帰りも遅くなるから今日はお前一人で行って来い」

「だって海瑠ってば前もそんなこと言ってドタキャンしたじゃない。最近アタシの事おざなりにしてない?」

「んーなことない。ほれ、財布渡すから好きなもん買ってこい。な?」

 海瑠はポケットから取り出した財布を七海に投げ渡す。七海は顔を真っ赤にして唸り声を上げる。

「バカ! 本当に好きなもの買っちゃうからね! ブティック一軒丸ごと買ってやるから!」

 とんでもない捨て台詞を残して七海が部屋を飛び出した。嵐の後の静けさともいうべき静寂に部屋が包まれる。

「すいません。機嫌いい時と寝てる時は静かなんですけど」

 椅子に腰かけ、終始居づらそうにしていた海堂が苦笑して頷いた。

「――とにかく本題に。あれは手に入りましたか?」

「はい。例の新宿で起こった殺人事件に関する調書です。鑑識結果も中に」

 海瑠は湯呑をテーブルに置き、封を開ける。中に入っていた書類を取り出してテーブルに広げ、写真の束に一枚ずつ目を通した。

「ご希望通り、死体と現場の写真を入れておきました。ほぼ発見された状況が再現されているはずです」

「どうもありがとうございます。――なるほど、こりゃひどい」

 写真に写っていた死体はもはやジョークの域だった。

 三人のうち一人は顔の下半分がちぎれ飛び、膝から崩れ落ちたままの姿勢で絶命している。もう一人は鼻と唇の間、人中と呼ばれる急所の辺りが完全に陥没していた。そして最後の一人は両手両足が不自然な方向に折れ曲がり、胸から腹にかけて引き裂かれ、ほぼ全ての内蔵を引きずり出されていた。

 写真には死体を個別に写したものの他に、事件現場の路地の様子や三つの死体がまとめて入るアングルで写されているもの等があった。海瑠はその内の一枚を手に取り、海堂に向き直る。

「これ、地面に転がってるのって銃弾ですよね?」

 海堂は身を乗り出して写真を覗きこむ。

「はい。中国製の密造銃と思われるリボルバー式拳銃が一丁発見されています。――とはいえ現場には硝煙反応が無かったため、撃つ間もなく殺害されたようですが。その際にリボルバー部分が破損し、弾が周囲に飛び散ったのだと思われます」

 三人の死体が写った写真を見比べる。首の曲がった死体の右手が奇妙な形に曲がったまま硬直していた。

「銃を持ってたのはこいつか。何も持ってないのは警察が押収したからですか?」

「そうです。さすがに本物の拳銃を野ざらしにはできませんからね」

「こいつらの中で銃を持ってたのは一人だけ? 他の奴らは持ってなかったんですか?」

「調書によれば現場から発見された銃は一丁だけだったそうです」

「銃の装弾数は?」

 海堂が首を傾げる。質問の意味を捉えかねたのだろう。

「発射された弾丸がないということは五発ですよね? 現場に落ちてた弾はちゃんと五発ありました?」

 写真をつぶさに見るとわかるが地面には五つの薬莢が転がっている。

「あ、あぁ――申し訳ありません。回収された銃の装弾数は五で、落ちていた弾は間違い無く五発ありました」

「ふーん」

 海瑠は空になった湯呑に茶を注ぎ直し、書類の束をパラパラとめくった。

「はらわた引き出されてる奴の死因は失血によるショック死か。生きてる間に解体されたってことかな?」

「恐らくは」

「凶器は刃物と考えられる――ね。どう思います?」

「まず間違いなく獅童の業でしょう。指示通り、先の粛清における童龍寺組の構成員の死体を用いて都内の各所で偽の報道を行っております。ですが、これで果たして足取りが掴めるかどうか――」

「まぁ雲隠れしてくれたらそれはそれで。そうも行きそうにないですけど」

「根拠は?」

「勘です」

 海瑠は反応を待ったが、海堂は沈痛な面持ちで黙り込んでしまった。

「海堂さん。突っ込むところですよ」

「あながち間違いではないかと。私も同じ見解ですので。勘ですが――」

 海瑠は目をシパシパさせた後、ふっと小さく笑った。

「だろうな。来るべき時が来た――そんなところか」

 海堂は目を伏せたまま何かを考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げ、まっすぐに海瑠を見据えて口を開いた。

「若様。私からも申し上げたいことがあります」

「わか――!!」

 唐突に海堂が発した言葉に、海瑠はむせてしまった。いくらなんでも若様はないだろう、時代劇でもあるまいに――海瑠はせき込みながら笑った。

「なんだよ海堂さん、いきなり」

「以前はそうお呼びしておりました。ほんの、五年ほど前までは――」

 海堂が向ける真剣な眼差しを見て、海瑠は表情を元に戻す。

「――そうなんですか。羨ましいな」

「私は若様とお嬢様、お二人が赤ん坊の頃よりお仕えさせていただいております。畏れ多い事ではありますが、私はお二人に実の子供にも似た愛おしさを抱いております」

「ありがとう。七海にも聞かせてやりたいです」

「ですので海琉様。私は一人として我が子を失うような思いはしたくはありません。どうか、ご自愛ください」

 それだけ言うと海堂はドアを開けて部屋から出ていった。後には海瑠一人が残される。

「気持ちは本当にありがたいんだけど、一人も失いたくない――か。難しいこといってくれるなぁ」

 頬杖をついてぼやく。言葉とは逆に口元がニヤけていた。

「愛情っていいもんだな。やっぱりまだまだ生きたいよ、俺は」

 大きく伸びをして立ち上がる。

 不謹慎であるとわかっているのに妙に気分が高揚していた。



 *



 進入禁止テープの貼られた現場から足早に離れる。目立つのだけは極力避ける必要があった。

 この一週間の間、定期的に起こった三件の殺人事件の現場はすべて見て回ったが、いずれの現場にも警察が張り付いていてろくな情報は得られなかった。ただ、ニュースで写った事件現場の光景に感じたものをいずれの現場からも感じ取ることができた。間違いなく自分が修めた技術が用いられている。

 ただ不可解なのは、実際に現場から感じるものはどうも確信を得るには至らないものばかりということだ。言葉では言い表しづらいが、一言でいうならば作為的であるということか。

 もしそうなら自分の存在はやはり気づかれている。おそらく現場から発見された死体はフェイクだろう――自分を誘き出すための。

 どうするべきか――右手を顎に添え、頭を巡らせながら歩いていると、横断歩道の赤信号に気づいて足を止める。何気なく道路の向かい側に目を向けると、一人の少女が目に付いた。雑踏の中でもよく目立つ黒く美しい髪と可愛らしい顔立ちをしている。

 ふとその少女と目が合った。帽子を目深に被りなおし、視線を外す。

 信号機が青に変わったことを告げる音楽が流れだし、停滞していた人々が動き出す。その流れに合わせるようにして横断歩道の中程まで歩いたとき、突然真正面からぶつかるようにして何者かが胸に飛び込んできた。反射的に足を止め、右手を手刀の形に引き絞る。

「海瑠! わぁ、ホントに会えた!」

「な――!?」

 密着した状態で見上げているのは、先ほど通りの向かいにいた少女だった。ガラス玉をはめ込んだような、美しく大きな目を少しだけ潤ませている。なんの邪気も感じさせない少女の視線に呑み込まれ、身動きを取れずに固まってしまった。

「海瑠のことだから例の事件現場に行ってるんじゃないかなーって思ってたんだぁ。ホントに会えるなんて嘘みたい」

 少女は力の限り抱きついて離れようとしない。周囲の人間も足を止め、好奇の視線を向けてくる。

「ちょ、ちょっと待て! とにかく向こうまで渡ろう」

 少女を無理矢理引き離し、人混みをかき分けるようにして横断歩道を渡りきる。近場のビルの陰に駆け込んで一息つこうとしたが、すぐに先ほどの少女が右腕に抱きついてくる。

「ねぇ海瑠どうしたの? ひょっとしてお仕事中で、声かけたらまずかった?」

「待てよ、それよりお前は一体――」

 言いかけて絶句した。間近でみた少女の顔に見覚えがあった。

 似ているどころか確かな面影がある。いつからか思い出さぬようにしてきた顔がじわりと脳に浮かび上がった。

「なな、み――?」

 忘我のうちに口から漏れたその名を聞いて、少女が不思議そうに首を傾げる。

「そうだよ? 当たり前じゃない」

 血の気が引くのと同時に愛しさ、懐かしさと言った感情がこみ上げる。だがそれよりはるかに大きな罪悪感が無意識に言葉を紡いだ。

「どうしてここで――」

 出会ってしまったんだ――喉元まで出かかった言葉をかろうじて呑み込んだ。七海は軽くつま先立ちになり、間近で顔を見つめてくる。

「やっぱり海瑠だよね。帽子被ってるせいかな、なんかいつもと雰囲気違うよ?」

「いつも?」

 不可解な七海の言葉を反芻した。七海は一体誰のことを言っている?

「うん、いつも一緒にいるじゃない。海瑠のことは何でも気づくよ」

 七海の笑顔はまぶしかった。その笑顔を向けられる資格は自分にない。耐えられずに瞼を閉じる。

 償う時が来た――そういう事なのか。


 



 まだ七海が八つだった頃。とある初夏の昼下がり。

 いつものように給仕の女性が部屋に運んでくれた昼食を一人で食べ、七海は一人で退屈を持て余していた。その日に限って無性に海瑠に会いたくなった。

 海瑠は父から課せられた修行のため、一日中道場にいることがほとんどだった。一緒にいられるのは一週間のうちで日曜日くらいだ。修練の妨げになるという理由で、七海は道場への立ち入りを禁じられていた。

 中庭に建てられた道場へと続く渡り廊下を誰にも見られないように走りぬけ、道場の木戸をそっと開けて中に入り込む。人の気配がまったくせず、七海は不安になりながらも足音を殺しながら奥へと進んだ。

 広々とした稽古場をのぞくと、海瑠が場内奥側の壁を背にしてじっと座っていた。七海はホッとして海瑠の側へと駆け寄り、呼びかける。

 だが海瑠は何の反応も示さなかった。

 海瑠は右足を左太腿の上に乗せ、左足を右太腿の下に敷く形で足を組み、両の掌を軽く開いて天井に向け膝の上に乗せている。瞼は開かれていたが、瞳には何の光も映していない。壁の上部に取り付けられた格子窓から差し込む陽光に照らされたその姿はどこか神秘的だった。

 七海はなんとか海瑠の気を引こうと色々なことを試した。背中におぶさったり耳に息を吹きかけたり、ほっぺたを引っぱったり。それでも海瑠は微動だにしない。まだ幼い七海に坐禅の意味などわからなかった。

 背筋に冷たいものが走り、七海は後ろを振り返る。いつの間にか父が背後に立ち、静かな怒りの火を灯した目で七海を見下ろしていた。無言の父が放つ威圧感を受け、七海の体は凍りついたように硬直する。父が静かに歩み寄り、右手を振り上げた。

 七海は反射的に目を閉じて肩をすくめる。右手が振り下ろされた気配は確かに感じたが、痛みも衝撃もやってこない。恐る恐る目を開けると海瑠の背中がすぐ目の前にあった。

 海瑠の広い背中に視界を塞がれた形になったため、七海には父と海瑠がどのような状況にあるのかがすぐに把握できなかった。どうやら父の平手打ちを海瑠が掴み止めてくれたようだ。

 しばらく父と海瑠は向かい合う形で静止していたが、やがて父が背を向けて稽古場を後にした。二人の間にどんなやり取りがなされたのかはわからない。ただ海瑠の頭越しに見えた父の目に、一瞬だが驚愕の色が浮かんでいたような、そんな気がした。

 海瑠が振り返り、優しく微笑みながら頭を撫でてくれた。とても嬉しかったのに、七海はその場に座り込んで声を上げて泣いてしまった。緊張の糸が切れたせいだろう。

 言いつけを破ってしまったことや父を怒らせてしまったこと、謝らなければならないことはわかっているのに言葉にならなかった。泣くことしか出来ない自分がもどかしくてたまらなかった。海瑠は黙って隣に腰を下ろし、泣きつかれて眠るまでの間ずっと肩を抱いてくれていた。

 幼い頃の記憶をなぜ今になって思い出したかわからない。ただ夢か現かもわからぬ意識の中で、七海は眼から涙がこぼれ落ちるのを確かに感じた。





 「七海、おい起きろって!」

 海瑠の声が七海をまどろみの淵から呼び戻す。七海が目を開けるとすぐそこに海瑠の顔があった。ソファの前で膝を突き、七海の肩を軽く揺する。

「海瑠――」

 七海はゆっくりと上体を起こす。いつの間にか眠っていたようだ。

「暖房もつけずに寝てたら風邪引くぞ。寝るなら――」

 海瑠が言葉を切り、七海の目元を指で拭った。起きあがった七海の目から涙がこぼれ落ちたのだ。

「――なんか嫌な夢でも見てたのか?」

 海瑠が七海の頬に手を当てながら尋ねる。七海は首を横に振った。

「ううん、昔の事思い出しただけ。なんだか懐かしくなっちゃった」

「昔、か――」

 海瑠が目を伏せたのを見て、七海はしまったと思った。海瑠はあまり昔のことは話したがらない。だから普段は七海も子供の頃のことはなるべく話さないようにしていた。

「それより帰ってたんだね。もっと遅くなるのかと思った」

 七海は話題を変えることにした。海瑠はあぁ、と気のない返事を返して立ち上がる。大きな襟が肩口まで覆うデザインの、いつも着ているジャケットだ。

「海瑠、外で服着替えたの?」

「服? いや、別に」

「街で会ったときは茶色いブルゾン着てたじゃない。珍しく帽子も被ってたし」

 海瑠が目を見開き、瞳孔が大きく広がる。予想外の反応に七海は言葉を失った。

「――そうだったか? いや、そうだ、そうだった。街で会ったんだったな。俺とお前が」

 自問自答するように呟き、海瑠は七海に背を向けた。小さく何事かを呟きながら頷いたりしている。なんとなく声がかけづらくて、七海はただじっと海瑠の背中を見つめていた。

「七海、その時に俺なにか預けたりしなかったか? 今日色々あってこんがらがってるみたいだ」

 海瑠が振り向いて七海に視線を戻す。

「別に何も。お財布くらいかなぁ」

 七海はソファに座ったまま腕を伸ばしてバッグを引き寄せ、中から長財布を取り出して海瑠に手渡す。

「街で会って、カフェに入った時に返したけど、別れ際にまた預かったからこれのことだと思うよ」

 海瑠はふんふんと頷きながら財布を受け取り、中を確かめる。何かを探すように動いていた海瑠の指が白い物を札入れの中から取りだした。カフェのテーブルに置かれていた紙ナプキンのようだ。

「それって紙ナプキン? トイレに行くときに持ってった奴みたいだけど使わなかったんだ」

「あぁ、他の使い道があったからな――」

 海瑠の声が重く響く。そのまま紙ナプキンを財布の中に戻した海瑠は、少しの間顎に手を当てて何事かを思案していたようだが、やがて意を決したように大きく頷いた。

「七海、もう晩飯すませたか?」

「え? ううん、帰ってからすぐ寝ちゃったから――」

「じゃあ今から一緒に行くか。この間駅の近くに小さいけど洒落たイタリア料理の店見つけたんだ。ラストオーダーが九時半だからまだ全然間に合う」

 海瑠が壁に掛けられた時計に目を向けていった。時刻は八時半に差し掛かったばかりだ。

「わぁ、行きたい!」

 ずっと抱きしめていたせいでへにゃっとしてしまったウサギのぬいぐるみをソファに置き、七海も立ち上がった。

「よし。店に電話して入れるか確認するからちょっと待ってろ」

 海瑠はそういうと、携帯電話を片手に何故か外に出ていった。七海が準備をすませても帰ってこないので、様子を見に行こうとドアに手を伸ばしたとき、海瑠がドアを開けて顔を出した。

「悪い、なんか電話つながらなくて少し手間取った。席空いてるからいつでも来てくれってさ」

 そういって海瑠が七海に右手を差し伸べる。

 今も昔も変わらずに包み込んでくれるその手を、七海は強く握り返した。




 

 ――喉がやけに乾いていた。

 瞼が重く、口の中が粘ついていて気持ちが悪い。海瑠は自分が硬い床の上でうずくまっているらしいことだけ理解した。

「気分はどうですか?」

 唐突に声をかけられたが顔を上げることができない。考えることはできるのだが体がそれに応えてくれない。ひどくもどかしい気分だった。

「身体能力に問題はないはずです――なにしろ――」

「おそらく――一度としてない――時間の問題だろう」

 なにやら複数の人間に囲まれているらしい。意識がはっきりしないので会話を聴き取りづらい。自分のことを話しているのだろうか? それすらよくわからない。

 海瑠の四肢にようやく感覚が行き渡った頃、少し離れた場所から誰かが声をあげた。

「いつまでそうさせている気だ! 馬鹿者が!!」

 その場の空気に緊張が走るのがわかった。足音は海瑠の側で止まり、体に大きな毛布が掛けられる。そこで初めて海瑠は自分が一糸まとわぬ姿であることに気づく。全身も濡れていた。

「ご気分はいかがですか? 私の言葉がわかりますか?」

 声が聞こえた方向へゆっくり顔を向けると、一人の男が海瑠の顔を覗きこんでいた。恭しく右手を胸に当て、片膝をつけた姿は主に傅く執事といったところだろうか。

「お、おれは――?」

 舌と喉の筋肉を震わせ、声を絞り出す。果たして声になっているのかすら海瑠にはわからない。

「無理をなさらず! ゆっくりと慣らしてくださって結構です。すぐに部屋へとお連れいたしますので」

 男がそう言うと、ガタガタと音を鳴らしながら車輪の取り付けられたパイプベッドが現れた。その上に乗せられ、最初にいた部屋を出て長い廊下を運ばれる。

海瑠が流れ行く天井をぼーっと眺めていると、ベッドに合わせて歩いていた執事風の男が話しかけてきた。

「ご自身のことはどこまでご存知――いや、覚えておいでですか?」

 言葉を選ぶように男はゆっくりとした口調で言った。覚えている、というより言われて思い出したといったほうが正しい。海瑠の頭の中に幾つもの風景が連続写真のように次々と浮かんでくる。この男の名も知っていた。

「ある――程度は。あんたは、確か海堂さん、だっけ?」

「はい! 今はともかくゆっくりとお休み下さい、いずれ体も自由に動かせましょう」

 柔らかい笑顔で男が言った。もう一度記憶を探る。黒い壁に写真が一枚一枚貼り付けられているような、鮮明ではあるがひどく無機質な思い出が蘇る。

 ――虚ろだ。

 海瑠の胸に去来したのは虚無感。ようやく掴みかけた自分自身という存在が突然薄っぺらなものに感じられ、無性にやるせなくなった。


 それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。海瑠が天井をじっと眺めていると不意に廊下が騒がしくなった。上体をベッドから起こして部屋の入口に顔を向けると、突然ドアが激しく開かれた。

「海瑠――海瑠!」

 黒い髪を振り乱した女の子が走り寄ってくる。唐突な出来事に思考が追い付かない。女の子はそのまま飛びかかるようにして抱き着いてきた。

「海瑠、一年もどこ行ってたの! どうして――どうしてアタシを置いてったのよぉ!?」

 女の子は泣きじゃくりながら胸に顔を押し付けてくる。ベッドの傍に立っていた海堂があやすように女の子の肩に手を置いた。

「七海様。海瑠様は意識を取り戻されたばかりで、まだ調子が戻られておりません。あまり無理をされては――」

「ななみ――七海――?」

 ツギハギだらけの記憶の中、一際輝きを放つもの。それが今目の前にいる少女だと気が付いた。なんとか諌めようとする海堂を手で制し、七海が落ち着くのを待った。

 七海の肩にそっと触れる。闇の中で求め続けていたものが胸の奥に満ちる。まるで乾いた大地に雨が染み込んでいくように。

「会いたかった。本当に会いたかったんだよ――海瑠」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした七海が見上げてくる。震える指先でその涙を拭い、わななく唇を動かして声を紡いだ。

「俺も――会いたかった。君に、七海に」





 勤めを終え帰路に就く人間でごった返す新宿駅の改札を抜け、海瑠は南口に向かった。約束の時刻より少し早いが、おそらく相手はもう来ているだろう。

 南口から外に出て辺りを見渡すと、それらしき男が外灯の柱を背にして立っていた。背が高くてよく目立つ。真正面から歩いて近づくと、男も海瑠に気づいたのか顔を上げた。目深に被った帽子の下から覗く目が大きく見開かれる。

「やぁ、待たせたか?」

 海瑠が気軽に声をかけたが、男の表情は硬い。かなりの間を置いてから、男がゆっくりと首を振った。

「いいや――早いくらいだ」

「メッセージ読んだぜ。近いうちに会うことになるとは思ってたが、まさかこんな形になるとはさすがにブッたまげたよ」

 ポケットから折り畳んだ紙ナプキンを取り出し、男の目の前でひらひらと動かす。

 ボールペンで簡潔に、明日の夜七時に新宿駅西口――と書かれている。

「ここでってのもあれだろ。よかったら場所変えて話さないか?」

 海瑠が紙ナプキンをポケットに戻しながら尋ねると、男は何も言わずに外灯から背中を離す。

 海瑠が車道に向かって歩き出すと、男もその後に続いた。路肩に停まっていたタクシーの窓を叩くと、運転手は海瑠を一瞥して後部座席のドアを開く。海瑠が後部座席に乗り込んでから、男もそれに続いた。男がタクシーのドアを閉めると、運転手は行き先も聞かずに車をゆっくりと走らせる。

「意外にすんなり乗ってくれたな。罠とか思わなかったのか?」

「あぁ。なんとなく」

 男は気のない返事を返しながら、車中に素早く視線を巡らせていた。

「そうか。いや、俺もさっき駅に着くまでの間、約束の時間には早いけどあんたならもう来てるだろうなって思ったんだ。俺ならそうするって理由だけどな」

 海瑠が横目に男を見ながら笑った。男は表情を崩さず、ただじっと正面を見据えていた。

 やがてタクシーが大きな工場の前で停まった。それと同時に工場のゲートが開かれる。タクシーが門から工場の敷地内に入り、そのまま倉庫の建ち並ぶ一角まで進む。

「着いたな。佐伯さんありがとう」

 海瑠が礼を言うと、運転手の男が振り向いて帽子を脱ぎ、人のいい笑顔を向けて頭を下げた。タクシーが仕込みであったことなど気づいているだろうから隠す必要もない。

 海瑠達は左右それぞれのドアを開けて車を降りた。タクシーが走り去ってから男を振り返る。男は物珍しげに稼働時間を終えた工場を見回していた。

「こっちだ」

 海瑠が指し示した方向に、扉の開け放たれた倉庫があった。室内灯の灯された倉庫内には壁に沿っていくつものコンテナが積まれている。奥行きがあり天井も高い。

 中の空気は外よりも冷たい。風が吹かないのがマシという程度だ。海瑠は倉庫の中央辺りに置かれた木製の小さなテーブルに向かって歩く。シャンパンボトルが一本と、グラスが二つ伏せて置かれていた。

「こっち来なよ。まずは乾杯でもしよう」

 海瑠が男を振り向いていった。入ってすぐの場所で立っていた男は何も言わずにテーブルへと歩き出す。

「酒は苦手なんだ」

「心配するな。クリスマスとかに子供が飲むやつだ。アルコールは入ってないただの炭酸ジュースだよ。雰囲気出したかっただけさ」

 それを聞いた男は小さくため息をつき、テーブルを挟んで海瑠と向かい合う場所で足を止めた。

「――そろそろ聞いてもいいか?」

「そろそろ聞かれる頃だと思ってたよ」

 海瑠がおどけたように答えると、男は小さく息をついた。

「お前、一体誰だ?」

「獅童海瑠。十五代続いてきた獅童家の十五代目当主だよ」

 男はゆっくりとかぶりを振った。

「そんなはずはない。お前がそうであるはずが――」

「実際どんな気分なんだろうって俺も何度となく思ったさ。なにせ――」

 海瑠は手を伸ばし、男が被っていた帽子を取り去った。

「自分と同じ人間が目の前に立ってるなんて、誰も経験したことがないだろうしな」

 海瑠と同じ顔がそこにあった。髪型や服装の違いがなければ、まるでそこに鏡でも置かれているのではないかと見紛うほどだ。

「――どういうことだ? お前は一体なんなんだよ」

 海瑠は帽子を投げ捨て、右手を差し出した。

「俺はお前のDNAから産まれたクローンだ。初めましてだな――オリジナル」

 海瑠が唇の端を吊り上げて笑いかける。

 目の前の男、獅童海瑠は目を見開き、驚愕に満ちた表情を浮かべた。





 目の前に差し出された右手と、相手の顔を交互に見比べる。それが自分と同じものであることは一目で理解できる。言葉では形容しきれない不快さが胸の内からこみ上げ、脳に霞がかかったような感覚が現実感を失わせる。

 空白になっていた自分の場所を何者かが補完しているであろうとは予想していたが、空白を埋めたのが自分自身であるなどとは考えもしなかった。いや、できるはずがない。

「クローンだと? 冗談はよせ。あんなのはまだ実用段階にはほど遠いってくらい俺でも知ってる。羊すら作り出すことに手こずってるって最近のニュースでも見たぞ」

 そういうと、目の前の獅童海瑠を名乗った男はククッと小さく笑った。

「あぁ、悪い。お前はそういう事情とか知らされる前に家を出たんだったな。それじゃメディアを鵜呑みにするのも当然か」

 海瑠は握手を求めて差し出した右手を戻し、シャンパンボトルを手に取った。

「クローニング技術は実際のところ既に確立している。人間の複製程度なら問題ない程度にはな。もちろん映画みたいに短期間で何十人、何百人と増やすなんてのは無理だし、そもそも意味がない。ただでさえ人口増加が深刻な問題となっている昨今、わざわざバカ高い費用をかけて同じ人間を造り出す意味がどこにある」

 ボトルを指でなぞりながら海瑠が笑う。

「クローン技術にかかわらず、実際の研究成果や新たな発見が一般に公開されるなんてのは数年以上のラグがあるのが普通だ。それこそテレビのニュースなんてものはごった煮された溶液の上澄みみたいなものなんだよ。ただの一部だ」

 ボトルから蓋が勢いよく射出され、炭酸の泡が出口を求めてあふれ出す。海瑠はテーブルに置かれたグラスに琥珀色の液体を注いでからボトルを置いた。

「だったらどうして俺のクローンなんかが作られた? 同一人物を増やしても意味がないんだろう?」

「獅童の血筋は――いや、お前は特別だった」

 海瑠が先ほどの紙ナプキンで右手を拭きながら顔を上げた。その表情から、先ほどまでの笑顔が消えている。

「お前も知っての通り、獅童家は世継ぎが作りづらい。だがこの家系が産み出す超常的な人材は絶やすわけにはいけない貴重なものだった。この国に限らず、表沙汰に出来ぬ問題の解決に始末屋という役職はうってつけだったからな」

「ただの――人殺しの血だ」

 吐き捨てるように言ったつもりだったが、自分でも言葉尻が震えているのがわかった。

「そうだな。だがその人殺しの血をほしがる人間も少なくなかった。中でもお前は特別に優れた才に恵まれていたらしい。だからこそ父は俺を造らせたんだ」

 その言葉を聞いて、五年前に父と対峙した最後の時を思い出す。あの時に父が漏らした保険という単語の意味をようやく理解した。

「そして今から五年前、父親を殺害したお前はそのまま雲隠れした。その一年後に、お前と同じ肉体年齢まで育った俺は調整漕から出された。父親の遺言通りにな」

「親父の遺言だと?」

「あぁ。もしも海瑠が姿をくらますようなことになれば何よりまず俺を獅童海瑠として跡を継がすようにってな。つまり――存在するはずのない人間は俺ではなくお前の方だ」

 あまりにも現実離れした話に頭がくらっとした。馬鹿げているとさえいっていい。

「理解したか? この五年の間、お前に一切の追っ手はかからなかったはずだ。それも父の遺言の一つだった。オリジナルの追跡を行う必要はない。ただ、確実に所在を捉えたときは速やかに処分の要あり――と」

 自分に成り代わった男はそういうとグラスの一つを自分の方へと寄せた。

「形だけでも交わしとこうぜ。俺にとってもお前との出会いは大切な事なんでな」

 言われるがままグラスを持つ。自分自身の意志でそうしているのかすら定かではなかった。

 グラスが軽く突き合わされ、海瑠がグラスを飲み干すのを見てからそっと口を付ける。最初にいわれた通り、それはただの炭酸ジュースだった。

「最後に聞いていいか?」

「何も隠したりしないさ。後腐れを残したくないしな」

 空になったグラスをテーブルに置き、海瑠と真正面から向かい合う。

「ここ最近の連続殺人の犯人はお前だろ? というよりあの事件自体が俺の出方を窺うためのフェイクだろうが」

 海瑠は両腕を組み、大きく息をついた。

「俺の仕事は奴らの親玉の掃除だった。汚職で挙げられた政治家がいたのはニュースでみたか? あれと繋がり、度を超して肥え太っていた豚だ。使ったのはそれらの粛清の際に一緒に片付けた下っ端どもさ」

 海瑠が刃のように鋭い視線を向けてくる。ここに来て初めて、明確な敵意を込めた視線だった。

「俺は調整漕にいる間、お前と同じ知識レベル、精神レベルに至るよう教育されてきた。お前が修めたものはすべて俺にフィードバックされ、戦闘技術も遜色なくコピーした。実際俺は雲隠れした時点でのお前なら確実に上回る」

 海瑠はそこで一拍おいて、右手を目の高さまで持ち上げた。

「俺はいつかオリジナルのお前と対峙することになると確信していた。それに対して何一つ恐怖も不安も抱かなかった。新宿での、お前の殺しの現場を見るまでは」

 右手の拳を強く握りしめ、忌々しげに海瑠は続けた。

「産まれて初めて戦慄した。ここまで容赦がなく、余韻も残さずに人間を殺せる人間がいるのかと。心の底からブルったよ」

「それならどうして、そんな手を使ってまで俺を捜した? 俺はもう獅童の名に未練は何もない。お前にとっても俺と戦うことはリスクしか産まないはずだ」

「勘違いするなよ。俺が恐れたのはお前の強さにじゃあない。大切なものを失う可能性がリアルに突きつけられたからだ。それがなければあるいは高揚してたかもしれない」

「大切なもの?」

「七海だよ。俺にとって自身の命より大切な、最愛の女性だ」

 胸の奥に得体の知れぬ不快感がこみ上げる。かつて一度だけ味わったことのある感情。五年前に父に対して抱いたものと似た嫌悪感。

 七海は自分と母こそ違えど、まぎれもなく父の娘だった。

「七海は――妹だぞ?」

「お前にとってはな。だが俺にとっては違う。あいつは俺を俺として愛してくれるただ一人の人間だ。そもそも七海のことを見捨てて逃げ出したお前が、今更あいつの兄を語るのか?」

 言い返す言葉がなかった。確かに自分はすべてを捨てて逃げ出した人間だ。そしてそのことに今までただ目を背けていた。

「俺はお前が逃げ出したことを責めるつもりはない。お前が俺に席を譲り渡してくれたおかげで俺はこうして生きていられる。七海も、家族もすべてを得ることが出来た。だが――」

 海瑠の視線が鋭さを増した。

「あいつを悲しませた事はけして許さない。お前が逃げ出し、俺が跡を引き継ぐまでの一年間、七海がどれだけの絶望を抱える事になったか想像できるか。七海の右手首の傷に気づいたか? あいつは一度自殺までしようとしたんだ」

「なんだと――?」

「だがもうそんなことはさせない。これからは俺があいつの傍にいる。二度と哀しませるようなことはしない。だから俺はここでお前を――」

 海瑠はそこで言葉を切り、握り固めていた右手の拳を開いてテーブルに置いた。

「やめとこう、これ以上は不純物になりそうだ。いずれにしろこれですべてに決着がつく。言葉でかき回す必要はまるでない」

 出会ったときと同じ、穏やかな表情に戻った海瑠が小さく笑った。

 自分が名を捨てれば七海もまた獅童の呪縛から放たれると考えた。だが結局は七海を傷つけただけだったということか――俺はどこまで愚かな男だったんだ。

「お前もそのつもりで俺を呼び出したんだろ? すべてに片を付けるつもりで。未練も何もかも片づけて」

 答えられなかった。ここにきた理由は決着をつけるためだというのは間違いない。だが、いまだ結論には至っていない。

「始めるか――頃合いだ」

 海瑠がそう言うと、倉庫の扉が音を立てて閉じた。広々とした倉庫に、二人の人間の息づかいだけが満ちる。

「テーブルのグラスが落ちて割れた音が合図。それでいいか?」

「あぁ」

 どちらにしろもう逃げるつもりはない。ただ全霊をぶつけるだけだ。そうしなければ、自分はけして答えにはたどり着くことが出来ないだろう。

「最後に一ついいか?」

「あぁ」

「俺はオリジナルでも――獅童海瑠でもない。俺の名前はソラだ」

 海瑠は目を一瞬丸くした。だがすぐに口元に笑みを浮かべ、ゆっくり頷く。

「オーケー、俺としてもそっちの方がやりやすい。それじゃいくぜ――ソラ」

 海瑠の右手がほんの少しだけテーブルから浮き上がり、そっと掌を打ちつけた。それと同時にテーブルの台座が波打つように跳ね、置かれていたボトルとグラスが自分達の目線の高さまで跳ね上げられる。

 一瞬にも満たないはずの時間がとても長く感じた。

 目の前を通過していくボトルとグラス越しに、対峙する男の顔を間近で見つめる。

 自分と同じ顔だが、その目には及びもつかぬ光をたたえている。

 勝てない――本能が訴えるがそれを受け入れるつもりはない。でなければここにきた意味がない。自らの意志が定かでないならば、ただ生きるためにあがくのみだ。

 落ちていくボトルが視界を塞いだ一瞬、ブルゾンのポケットに右手を差し込み、手にしたものを目の前に突き出した。

 海瑠の目が見開かれる。グラスが地面に落ちて割れた音は、火薬の炸裂音に紛れてかき消えた。





 打ち上げられたボトルとグラスが中空で静止し、やがて重力に引かれて落下を始めた。数秒にも満たない時が果てしなく感じられる中、海瑠が驚愕に目を見開く。落ちゆくグラスに遮られた視界が開けた瞬間、目前に黒い銃口が突きつけられていたためだ。

 反射的に両腕を上げる。顔面に向けて立て続けに放たれた三発の銃弾の衝撃を両腕に感じながら大きく体を反らし、テーブルを蹴り上げる。それに怯んだか、銃撃が一瞬やんだ。体を反らした勢いのまま両足を振り上げて体を回転させ、着地と同時に横へと飛んだ。ジャケットの襟の裏に手を差し入れ、指先に触れた飛針を二本引き抜く。四発目の銃弾が肩をかすめるのと同時にそれらを飛ばした。

「く――!」

 ソラが体を捻ってそれらをかわすのを視界に捉えながら、海瑠は鉄製の大型コンテナの陰へと体を滑り込ませる。直後に五発目の銃弾がコンテナに弾かれる甲高い音が鳴り響いた。

 ソラが舌打ちとともに手にしていた銃を投げ捨てる。海瑠から見える位置にある木製コンテナの側にリボルバー式の拳銃が転がった。

「やってくれるな。俺が思ってたよりずっと殺る気満々で助かったよ」

 頬を伝う汗の滴を拭い、声を張り上げる。

 ジャケットに防弾加工を施していたおかげで先程の銃撃はさしたるダメージにならなかったが、両腕は強く痺れていた。そのせいで飛針が狙いを外れ、二本とも回避を許してしまった。

 銃の所持を予想してはいたが、あのタイミングで使ってくるとは思っていなかった。

 両腕の痺れが収まるのを待ってコンテナから顔をのぞかせると、ソラは最初の立ち位置からほとんど動かず身構えていた。海瑠がコンテナから身を離して前方に立つと、ソラがおもむろに右足を上げて足下に転がっていたボトルを踏み砕き、そのまま割れたグラスの破片をも巻き込んで海瑠に向かって蹴り飛ばす。顔めがけて飛んできた最も大きな破片のみを最小限の動きでかわし、海瑠は襟から再び針を飛ばす。

「うぐっ!」

 左足に向けて飛ばした飛針はソラの左手を貫いた。かわせないと判断したソラが咄嗟に左手をかざした為だ。

「軸足をかばったのはさすがだ。だがその前の目くらましは悪手だった。俺がホチを持ってることを知ってたなら迂闊に両足を地面から離すべきじゃなかったな」

 海瑠が不敵な笑みを向ける。ソラは額に汗の珠を浮かべながら左手に刺さった飛針を抜き取り、それを背後に放り投げた。

「そろそろ本番といこう。お前もこっちが得意だろ?」

 海瑠は右拳を軽く突き出し、歩を進める。ソラが地面を蹴り、人差し指を鉤状に曲げた右の一本拳を繰り出した。防御すれば腕ごと貫かれそうな錯覚をおぼえ、海瑠は半歩身を引いてその一撃をかわした。先に得た精神的優位が一瞬で霧散するほどの重圧が海瑠を襲う。

 突き、手刀、肘、蹴り――数瞬の間に行われたそれらの攻防の末、海瑠が放った突きがソラの鳩尾に深々と刺さる。中指を用いた中高一本拳が肋骨を砕き、皮膚越しに内臓の感触が伝わった。

 ソラの体が大きく後ろに吹き飛んだのは突きの威力のためだけではなく、打撃の瞬間に後ろへ飛んでいたからだ。そうでなければ確実に致命傷となっていただろう。

 だが、深刻なダメージには変わりない。

 海瑠は突きを放った姿勢のまま、ソラがコンテナを支えに立ち上がるのを待った。ソラが咳き込みつつ体勢を整えようとした瞬間に海瑠は間合いを詰め、横薙ぎに放った回し蹴りで脇腹の同じ箇所を蹴り抜く。

「げぼっ――!!」

 体を捻って直撃をまぬがれたソラの体が九の時に曲がり、口からドロリとした血を吐きだした。たまらず地面に膝を突き、転がるようにして海瑠から距離をとる。

 海瑠はその場から動かずにソラが立ち上がるのを待った。余裕のためではなく、ソラにまだ余力があることを見て取ったからだ。手負いの獣に仕掛けることは得策ではない。

「仕掛けてこい。俺からお前には近づかないぜ」

 海瑠がそう告げると、ソラの呼吸が僅かに乱れた。

 最初の時点ならいざ知らず、今この状況で膠着状態となれば出血の激しいソラに勝機はない。あとはほんの僅かでも焦りを抱いてくれればそれでいい――海瑠はこの状況にあっても冷徹だった。

 ソラが乱れていた呼吸を整える。海瑠にはその筋肉の動き、骨の軋みさえも聞こえる気がした。

 予測していたのと寸分違わぬタイミングでソラが駆ける。全体重を乗せた右の直突き。体を外側に滑り込ませるようにしてその一撃をかわし、右のこめかみに拳をめり込ませた。ソラの目が焦点を失い、そのまま前のめりに地面へと倒れこむ。

 海瑠は大きく息をつき、側に歩み寄った。つま先でソラを仰向けに転がし、じっと見下ろす。ソラの目は半ば閉じかけ、虚ろな眼差しを天井へと向けていた。

「この五年の間獅童家当主――黒犬の長としての立場に身を置いていた俺と、浮き草のように流浪していただけのお前。こうなることは当然だ。お前も予測していたはずだ、この結末を」

 ソラはなにも答えない。ただ胸のあたりがゆっくりと呼吸で上下しているだけだ。

「――と、言いたいところだが違うな。お前の動きは明らかに精彩を欠いていた。それはおそらく肉体的な要因によるものではなく精神的なものだろう? お前は最初から俺に殺されることを望んでいた。――というよりおまえ自身、自覚していないところで負けることを受け入れていたといった方が正しいか」

 ソラの瞳が海瑠を見上げる。海瑠は言葉を続けた。

「お前が家を捨てた理由を俺には計り知れない。だがお前なりに苦悩した末の行動だろう。――今更それを責める気はないよ。この五年、お前なりに迷い、罪の意識にさいなまれ、悔いることもあっただろうしな。だからこそ七海と偶然再会したお前は俺と会おうと決めた。自らの過去を清算するために」

 ソラの口が少しだけ動き、唇の端から一筋血が流れる。既に呼吸すらおぼつかない様子だ。

「今ここで俺が幕を引いてやる。何か最後に言い残すことがあれば聞いといてやるぜ?」

 無駄だとは思ったが念のために聞くことにした。すると意外なことに、ソラは唇を震わせて絞り出すような声で言った。

「姉さん、のこと――覚えてるか?」

「姉さん? なんのことだ」

 死を前にして錯乱したか、それとももはや意識すら定かではないのか――海瑠は溜め息をついた。

「お前に、いや俺に姉などいない。それは家系図にも記された確かな事実だ。父から連なるのは俺と七海の二人のみ。これで満足か?」

 海瑠の言葉を聞いていたソラは再び大きく息をはき、そっと目を閉じた。海瑠もまた強く目を閉じ、七海の顔を思い浮かべる。

 七海は自分という存在を確かなものとし、いつも力を与えてくれた。これまでは目の前の男から引き継いだものであるというコンプレックスが心の片隅にくすぶっていた。

「お別れだ。お前から引き継いだものはこれから俺が守る。せめて安らかに逝け」

 最後にソラ――いや、獅童海瑠の顔を真上から見下ろした。七海が愛した、否。今も愛し続けている男の顔を。


 もう二度と、お前の影を追わせはしない。海瑠は決意を固め、右足を振り上げた。





 暗闇に立つ自分の名を誰かが呼んだ。振り返ると目の前に光が満ちる。その光を背にして姉が立っていた。

「海瑠。久しぶりね」

 思い出と何一つ変わらぬ笑顔で姉が微笑みかけてくる。懐かしさと愛おしさが胸にこみ上げ、溢れそうになった。姉を失った頃の自分ならば間違いなく泣き崩れていただろう。

「あなたの事ずっと見ていたわ。強く、まっすぐに生きたわね」

 言葉がつかえ、声が出せなかったのでただ首をブンブンと横に振った。まっすぐに生きていれば自分は今ここにいない。姉が死んでから、自分はただ逃げ続けていただけだった。

「何も言わなくていいの。海瑠は自分に出来ることを一生懸命に探してた。間違ったことをしたかもしれない。それでもあなたは立ち止まることなく歩き続けたわ」

 言葉にならなかった。ただ首を横に振っていた。泣いていたのかもしれない。

「あなたと過ごした時間は短かったけど、私はとても幸せだった。今までずっと、私のことを忘れずにいてくれたのね」

「忘れるわけない――母さんのことを」

 絞り出すように声をあげた。姉、いや母は少しだけ悲しそうな顔を見せた。

「ごめんなさい。あなたに本当のことを話すべきかと何度も迷ったわ。だけど言えなかった、私にはその勇気がなかった」

 母はそこで顔を上げ、自分の目をまっすぐに見つめた。

「だけど約束するわ。ここではもう海瑠に何も我慢をさせたりしない。ずっと一緒にいてあげられる」

 母はそう言うと、左手を自分に差し出した。

「あなたが自分の意志でそれを望むなら私の手を取りなさい。そうすればもう私たちは離れたりしない。ずっと一緒にいてあげられる」

 母の顔と、差し出された手を交互に見る。迷うことなど何もない。母に駆け寄り、差しのべられた手を掴もうと腕を伸ばした。

「海瑠。あなたは今まで私との約束を守るためにいくつもの決断を超えてきた。自分の意志で」

 顔を上げると、母の右手が背後を指さしていた。振り向くと、遠くで誰かがうずくまって泣いていた。

 母に背を向け、そっと近づく。一人の女が膝を抱えて泣いていた。どこか母に似た面影を持っているその女を自分は知っている。

「小百合――」

 女の名を呟く。背後で母の声が聞こえた。

「迷いや過ちの末にあなたは辿り着いた。あなたが求めていたものに。そしてあなたは約束したはず――かつて私にしてくれたものと同じ約束を」

 小百合はまるで子供のように泣いていた。母を失ったあの日の自分のように。

「さあ海瑠――いいえ、ソラ」

 体が感覚を取り戻す。失いかけていた自我が総身を満たしていくのを感じた。

「あなたが決めるのよ」

 母の言葉が力強く背後で響く。ただ泣くことしかできなかった子供の姿ではなく、成長した姿で自分は立っていた。


 拳を握りしめた瞬間光が溢れ、意識が覚醒した。





 「ここにきて心変わりか? 冷めさせてくれるな」

 海瑠は床に視線を向けたまま呟く。

 頸骨を踏み砕かれる寸前、ソラは身を捻って振り下ろされた踵をかわし、海瑠から数メートルほど離れた位置で立ち上がった。

 海瑠が顔を上げると、ソラはやや背中を丸めてブルゾンのポケットに両手を突っ込み、うなだれるように顔を下に向けていた。両足はまっすぐに伸ばし、地面を踏みしめるようにして立っている。

「大体――お前が言ったとおりだ。俺は、ケリをつけるためにきた。おそらく、俺自身も気づかないうちに、死を受け入れてたんだろうな」

 ソラが顔を上げずにいった。喉に血が絡み、詰まりがちな口調には確かなダメージを感じさせるが、声には先程までにない力強さがある。

「だったら何故今の一撃をかわした?」

「死ぬことで贖えるならそれでよかった。だけど、そうすると俺はまた逃げることになる。姉さんがたった今教えてくれた。それに、俺が死ねば姉さんのことを覚えている人間がいなくなる」

 ソラの口調は先程より落ち着きを取り戻していた。とはいえ海瑠にはソラの言葉が理解できない。会話と言うより独白を聞いているような気がした。

「またその話か。仮にお前が言う姉とやらが過去に実在したとして、死者の声が聞こえたとでも言うつもりか? よく聞く類の話だが、魂も死後の世界もただのオカルト話だ。そんなものは自分が都合よく作り出したイメージにすぎん」

「――そうかもな。だとしても俺の中にあった答えであることに変わりはない。俺は、それに従う」

「そのザマでか? 今更俺と戦える状態にないことくらい、自分でもわかっているはずだ」

 ソラが海瑠に刻まれた楔は深い。どんな幻を見たにせよ、肉体を癒す奇跡などは起こり得ない。このまま治療をせずにいるだけでも死に至るほどのダメージを負っていることは明らかだ。

 静寂を切り裂き、室内に破裂音が響く。その音の正体に気づくよりも早く海瑠の左足を衝撃が突き抜け、脳に熱を伴った痛みが伝達された。

 ソラのブルゾンのポケットに小さな穴が穿たれ、そこから一筋の煙が立ち上っていた。

「俺は一度七海から逃げ出した。もう二度と――逃げるわけにはいかない」

 ソラがポケットから両手を抜く。右手には先程捨てたはずの拳銃が握られていた。全弾撃ち尽くし、捨てたはずの拳銃を。

「馬鹿な。どうして、弾が――」

 呆然と海瑠が呟く。ソラは拳銃のシリンダーを外し、銃身を上に向けた。空になった薬きょうが六発、音を立てて床に落ちる。

 海瑠がハッとして銃身に目を移す。

「そういうことか――なんて間抜けだ俺は」

 思い違いに気づき、海瑠は奥歯を軋らせる。同組織の人間が持つ銃だから当然同じ形式のものだと思いこんでいた。密造銃にデザインの画一性などあるはずがない。

「現場にあったのは五連装式。その銃は――六連装式か」

 ソラは何も答えず、今度こそ役目を終えた拳銃を脇に捨てた。そしてゆっくりとした足取りで海瑠に向かって歩を進める。まるで幽鬼のごとくに。

「俺はお前の攻撃をあと一撃食らえば死ぬ。だがお前は今、軸足を失った――」

 ソラが海瑠の目の前で足を止めた。

「これで五分だな」

 手を伸ばせば届く距離で、ソラはゆっくりと顔を上げた。

 目が合った瞬間、海瑠は総身の毛穴が逆立つのを感じた。静かに黒い炎を宿した漆黒の瞳。怒りや殺意によるものではない、ただ目の前の命を冷徹に刈り取ることに徹する獣の瞳。数多くの死を目の当たりにしてきた海瑠が震え上がるほどに静かで、冷たい目だった。

 これが人間の目か――戦慄しながらも海瑠は口内に溜まった唾液とともに恐怖心を飲み下す。海瑠もまたこの程度で揺らぎはしない。

 呼吸を戻して全身の力を抜いた。左足の痛みなどは気にならない。この瞬間に対する覚悟はしていた。奪う覚悟も、失う覚悟も。

 それでも負けることは出来ない。自分が負ければ七海を再び孤独にさせる。

「それだけはさせない――」

 吐息同然のつぶやきが漏れる。

 お互い両手を下ろした自然体のまま、永遠とも思える数秒間が経過した。

 一切の動きも気配もなく、ソラが右の一本拳を海瑠の人中に向けて繰り出した。

 先のものとは比較にならない鋭さを持った一閃が、海瑠の脳にはっきりと死のイメージをもたらす。

 かわすことができたのは反応出来たからではない。新宿での殺害方法、そして先ほど交わした攻防の間に見いだした結論だった。一本拳による人中の破壊こそ、ソラが必殺の際に用いる攻撃であると。

 ソラの拳に掠られた頬を深く抉られながら海瑠も左足で大きく踏み込む。ソラの腕と交差する形で突き出した右手で顔面を掴み、そのまま一気に背後へと押し曲げた。左足の痛みを奥歯でかみ殺し、渾身の力を右腕に込める。

 ソラの脊髄が軋みをあげた。指の隙間から覗く瞳は変化を見せず、ただ暗い。だがもはやその目は死体のそれと変わらず海瑠には映った。

 海瑠が自らの勝利を確信した刹那、ソラの両手が蛇のように右腕に絡みつき、海瑠の腕を軸にして体を竜巻のように回転させた。

 直後、海瑠の後頭部に鈍い痛みが走った。ソラが海瑠の右腕を支点にして、腕を捻ると同時に振り上げた膝を後頭部に落としたのだ。

 頭部への痛打により意識が混濁した直後、海瑠の右肘と右肩が破壊された。後頭部にソラの体重を感じながら、海瑠の眼前に猛烈な速度で床が迫りくる。


 海瑠の意識はそこで途絶えた。





 コンテナに背を預け、血溜まりに倒れた海瑠をしばらく眺めていた。別人とはいえ、同じ姿形をした人間をかつての自分の名で呼ぶのはやはり違和感がある。

 目を覚ました気配を感じ取り、片膝を立てる。脇腹に走った激痛を噛み殺しながら立ち上がり、ゆっくりと側へと歩み寄る。

「気付いたか。お互い頑丈でよかったな」

 見下ろす形で海瑠の顔をのぞき込む。割れた額から流れた血が顔を赤く染めていた。仰向けにしていなければ血が流れ尽くしていたかもしれない。

「ふ――。さっきと、立場が逆になった――か」

 海瑠が虚ろな瞳をこちらに向け、口元を歪めた。

「せっかく、機会をくれたんだ。幾つか――聴いていいか?」

 海瑠の声が所々聞き取りづらい。声を絞り出すのでやっとという感じだ。自分も同じようなものだったので辛さはわかる。声を出さずに頷いて見せた。

「さっき、銃を弾が残った状態で捨てたのは――なぜ、不確定なことを? あの銃はお前の、切り札だったはず」

「隠し持ってる程度じゃ当てる事が出来なかったからだ。最後に残った一発をあんたの意識から完全に消し去るにはああするしかなかった」

「なぜ、俺が弾切れを確信すると思った? リボルバーなら、六発入るのだって多いぞ」

「お前なら新宿での件を知り尽くしてると思った。あの場に残った銃の装弾数は五発。あの時拳銃を奴らから奪ったのは、追っ手がかかるのを危惧しての事だった。あの時地面に落ちた弾丸を拾えなかった事が、俺にとってプラスに働いた」

 海瑠は何か言おうとしたようだったが、思い直したようにため息をつき、自嘲気味に笑った。

「そうか。してやられた――ってことだな」

「もしもさっきの踏み込みが万全の状態なら、間違いなく技を返す前に俺の脊髄は破壊されていた。実力では完全にあんたが勝ってたよ」

「どうであれ、這いつくばってるのは俺だ。結果が全て――それ以外に、意味はない」

 海瑠は瞼を完全に閉じ、ゆっくりと胸を上下させて深呼吸した。

「時間を取らせたな。そろそろ――終わらせてくれ」

「あんたさっき言ったな。ここで終わることになっても悔いはないと。それは今でも同じか?」

「あぁ。覚悟なら――してきた」


「嘘つけ。だったら、なんで泣いてるんだよ」


 海瑠の閉じた瞼から涙が溢れ、乾きかけた血を滲ませていた。死の間際だからこそ呼び起こされるものがあるというのを自分も先ほど経験した。

「情けない話だ。七海の、顔が浮かんじまった。この期に及んで、死ぬのが怖いと――思うなんて、な」

 詰まりがちな口調で海瑠がいった。ここにきて初めて海瑠の生の感情に触れた気がした。

「だったら早く救護班呼ぶんだな。俺はお前にとどめを刺すつもりなんかないぞ」

「なに――?」

 海瑠の瞼が開き、隙間から覗く瞳が困惑の色を浮かべた。

「ここに来てお前と会って、俺は俺なりのけじめの付け方を見つけることが出来た。お前を殺したらそれが無意味になる」

「どういう事だ?」

「あんたがいる限り七海が一人になることはないんだろ? だったらあいつの側にいてやってくれ。これからも獅童海瑠の名前はあんたが継げばいい。俺はもう五年も前に自分から居場所を捨てたんだ」

「それで済むと――思ってるのか? 俺をここで殺さない限り、お前に安息はなくなるぞ」

 瞼を開いた海瑠が苛烈な眼差しで見上げてくる。視線を外さぬよう意識して言葉を続けた。

「それが俺の咎なら受け入れるさ、好きにすればいい。――だけど俺ももう少しだけ生きていたい。出来る限りがんばって立ち向かってみる」

「ふざけたことを。俺は――」

 海瑠の言葉を遮るように重い引き戸が開かれた。鉄同士が擦れる耳障りな音とともに開け放たれた扉の方へ目をやると、懐かしい顔をした男が一人立っていた。少し白髪が増えたような気がする。

「急ぎ当主を医療車へ」

 男がそう言うと、扉から現れた幾人もの男たちが海瑠の側へと駆け寄りその場で応急処置を始めた。

 慎重に担架に乗せられた海瑠を運びだそうとした男達を呼び止める。街で七海と出会った際、クリスマスにとあるテーマパークに行きたがっていた旨を海瑠に伝える

「俺が頼める義理じゃないのはわかってる。だけど七海の事、よろしく頼む」

「――いいのかよ」

「さっきあんたが自分で言っただろ。俺たちはよく似てるだけの他人だ。俺にとって七海は妹でも、あんたにとっては違うんだろ。だったら――いいさ」

 海瑠が小さく舌打ちした後、吐息同然の声でああ、といったのが聞こえた。

 海瑠が運び出されるのを見届けた途端、全身から力が抜けた。片膝を立ててその場に座り込むと、倉庫内に一人残っていた初老の男が近づいてくるのを感じて顔を上げる。

 海堂巽――獅童家に自分が産まれる前から仕えてくれている男で、自分にとっては父よりも父親らしい存在だった。

 海堂は倉庫内に残った人間がいないか視線を巡らせ、恭しく頭を下げた。

「お久しぶりです。若様――」

 胸の奥をくすぐられるような感覚。懐かしい呼び名だった。

「爺、その呼び方やめてくれよ。いくらなんでももう子供じゃない」

「爺と呼ばれるのも随分と久しぶりでございます。懐かしいですな」

 海堂と顔を見合わせ、お互いに笑った。

「他の皆は元気か? 黒犬の連中も?」

「はい。七海様も、とても健やかにあられます」

「そうか。じゃあもうなんの心配もいらないわけだ。痛てて――」

 脇腹を押さえながら立ち上がり、海堂の傍らを抜けて倉庫の扉に向かう。

「若様。おそらくこれ以後お話する機会はないと存じます。次にまみえることがあれば我らはあなたの敵となるでしょう」

 背後から海堂の声が響く。静かな重みを感じさせるその口調は昔と何一つ変わらない。父の側近として彼が長年務めることが出来たのは、頭が回るというだけの理由ではない。

「どうかな。意外と買い物先でひょっこり会ったりして」

 軽口のつもりで言ったが、七海とも偶然に出会ったのだ。ありえないことではない。

「――どうかお元気で」

「ありがとう。爺も、元気でな」

 そのまま振り向くことなく倉庫を後にした。振り返れば情けない顔を見せることになる。それはさすがに格好悪い。

 なんとか車の通う通りまで出てから、運良くタクシーを拾って新宿まで戻る。小百合のアパートに戻ったときは既に深夜一時を回っていた。

 もう戻れないかもしれない、もし俺が帰らなかったらお金は好きに使ってくれ――最悪の事態を考えてそう書き置きを残して行ったぶん気が重い。意を決してそっと部屋の扉を開けた。

 玄関は真っ暗だが、リビングには照明が点いていた。一歩踏み入ると、足にガサリとした物が当たる。中身の詰まったスーパーのビニール袋が散乱しているようだ。

 足音を忍ばせてそっとリビングをのぞくと、小百合がテーブルに突っ伏して眠っていた。暖房もつけておらず、部屋はひどく冷えきっている。

「――小百合。おい、風邪引くぞ」

 肩をそっと揺すると、小百合がゆっくりと目を開く。直後、飛び上がるような勢いで上体を起こした。

 泣きはらした瞼を見開き、顔を間近に近づけてくる。夢でないことを確かめるように自分の頬を軽くつねり、小百合は呆然と口を開いた。

「ソラ君――」

「あ、えーっと。その、ちょっと個人的に大事な用あって。それで――」

 言い終わる前に左の頬をビンタされ、そのままカーペットの上に倒れ込む。意識が朦朧とする中、小百合の声が耳に響いた。

「バカ! こんな――こんな書き置き残していきなり、いきなりいなくなるから私、あちこち探して、だけど見つからなくて――」

 小百合はそう言って泣き崩れた。まるで子供のように。

「ソラ君、どうしたの? ――血!? まさか怪我してるの? ちょっと、返事して!」

 言葉に出来ているかは怪しいが、大丈夫大丈夫とうわごとのようにいった。眠気もあったので、このまま眠ることにする。

 最後にそっと瞼の隙間から小百合の顔を見上げる。大好きだった人とよく似た、けれどまったく別の女性の慌てふためく顔がそこにはあった。





 友達、親子連れ、カップル――それらが混在とした人混みから少しだけ距離を置ける海沿いの柵に肘を突き、ぼおっと水平線を眺めていた。

 クリスマスイブということもあり、世界有数のテーマパークには人入りが凄まじい。人が多いところが嫌いというわけではないがさすがにこれは辟易とする。他の客はよくこんなところに来ようと思うものだ。クリスマスムードもなにもないだろうに。

 クリスマスイベントの目玉となっている水上ツリーとやらはまだお目にかかっていないが、取り立てて興味はない。

 再び視線を水平線へと戻した。正確には水平線の少し上の空へと。

 今日は冬らしいどんよりとした空模様で、灰色の薄い雲が一面を覆っていたが、そのあたりの空には晴れ間が差していた。中でもひときわ大きな雲の裂け目から差す陽光に目を奪われる。まるで天国の扉が開け放たれているようだ。

「ソラ君、おまたせ」

 振り向くと、小百合が両手に紙コップを持って立っていた。差し出されたコップを受け取ると、冷えた指先にじんわりと熱が伝わってくる。

「ホットカフェオレだけど、それでいい?」

「うん。ありがとう」

 ホットで苦くないやつ、としか注文していないので文句などあるはずもない。小百合と並んで柵にもたれ掛かり、熱いコーヒーを啜る。

「ねぇソラ君、怪我は大丈夫?」

 小百合が上目遣いに見上げてくる。

 服の上から脇腹をそっとさする。さすがに三週間程度では完治したとはいえないが、それでも日常生活に支障はない。だが、どことなく聞きづらそうな小百合の口調にイタズラ心が湧き、口元を歪めながら横目でチラリと小百合を見やる。

「あの日小百合にもらった平手打ちに比べたら屁でもない。いやあれは死んだと思ったよ」

「だってあの時は私も動転してて――まさかあんな大怪我してるなんて思わなかったし――」

「あいたた! なんか思い出したら痛みぶり返してきた」

「もう、何度も謝ったじゃない! それになにも言わずに出ていかないっていう約束破ったのはそっちでしょ!」

 小百合が口を尖らせながら海の方へ体を向けた。

「――わぁ。ソラ君見て、すごい綺麗」

 小百合が空を指さしていった。

「あぁ。俺もさっきまで見てたんだ。綺麗だよな」

「あれってエンジェルラダーって言うんだよ。雲間から射し込む光が梯子みたいに見えるから」

 小百合が得意げに胸を張った。正式名称はレンブラント光だが、水を差すと怒られそうだ。

「天使の梯子か。じゃあ、あの光の先が天国なのか」

 先ほど頭をよぎったイメージは過去の人間がすでに抱いていた物だったらしい。柵から少し身を乗り出して雲の裂け目から覗く光に目を凝らす。あの日、母の背から差していた光とよく似ていた。

「そう言えばね、さっきコーヒー買いに行った時変わったカップルがいたの。女の子の方は凄い可愛くて綺麗な黒髪で、思わず目が行っちゃった」

「それのどこが変なんだ?」

「彼氏の人が凄い怪我してたの。右手はギブスで吊してて、顔も半分くらい包帯巻いてた。包帯から覗いてた顔は凄い整ってるんだけど、なんだかそれがかえって痛々しく見えたんだ」

「そうか――」

 たった今小百合が戻ってきた方をチラリと見やる。

「凄い人だかりだな。たとえ探しても会えないんだろうな。もう二度と――」

 最後に見た七海の笑顔が脳裏をよぎる。

「ソラ君?」

「なぁ小百合、その二人どんな感じだった? 幸せそうだったか?」

「うん、二人とも幸せそうに笑いあってた。すぐに人混みに紛れて見えなくなっちゃったけどね」

 少しだけ胸につかえていたものが降りた気がした。もはや兄を名乗る資格すら自分にはないが、せめてあの笑顔がこれからも絶やされぬ事だけを願う。

「――よし、んじゃそろそろ別のところ行くか」

 柵から離れ、カップに残っていたカフェオレを飲み干してからゴミ箱に投げ入れた。

「えぇ!? ここに来たいって言ったのソラ君じゃない。せっかく三十分も並んで入ったのに、まだほとんど見て回ってないよ?」

「だって人多すぎるんだよ。もっと落ち着いたところでのんびりしよう。せっかくのクリスマスだし」

「もう、気まぐれなんだから。それにこれからどうするかまだ決めてないでしょ」

「あぁ。考えたんだけど、密航でもして他の国に行ってみようかな。どうせ俺はもういない人間だし、それなら日本だろうが外国だろうが関係ないしな」

「ちょ、ちょっと冗談でしょ? 冗談だよね?」

「本気だよ。心配しなくても俺六ヶ国語くらいなら話せるし。小百合も一緒に来るだろ?」

 小百合に向かって右手を差し伸べる。小百合は少しの間呆れたように口をぽかんと開けていたが、小さなため息とともに口元を綻ばせた。

「そうね――それもいいかもね」

「だろ? それじゃ早速世界地図買いに行こう。あと船か飛行機かどっちに忍び込むとかも決めないと」

「ちょっと待ってよ! 何するにしても今日明日は無理だからね。アンゼリカのママさんや皆にも挨拶しないと駄目なんだから」

 まるで自分を引き留めるように小百合が差しのべた手を力強く掴む。その瞳は光を受けキラキラと輝いていた。右手に小百合の温もりを感じながら再び海に目を向ける。

 

 空の彼方に広がる雲の裂け目から降り注ぐ光の柱――天国への扉を思わせるその光の中で、かすかに母が笑ったような気がした



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