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中巻


 柔らかい手が額に触れ、前髪をかき分けて額から頬にかけて優しく撫でる。

 少しだけ冷たかったが、自分は何よりこの手が好きだった。どれだけ心身共に疲れ果てていようと、この手に触れるだけで全てが消え去った。

「今日のお稽古はどうだった? ケガはしていない?」

「大丈夫」

 答えながら瞼をそっと開ける。柔らかな笑顔をたたえる姉の顔があった。血の気の薄い顔は青白く、絹糸のような黒髪は腰のあたりまである。一日の修練を終えた後、姉の部屋を訪れてこうして撫でてもらうことが、自分にとってただ一つの癒しだった。

 姉は生まれつき体が弱いらしく、自分が産まれてからずっと床に付している。

「お稽古は辛くない?」

 少し考えた。口に出すと困らせるだけなのはわかっていたが、本音を言うともっと姉と一緒にいる時間が欲しかった。

「大丈夫だよ、もう慣れた」

 本当は辛かったがそう答えた。その方が姉は喜ぶと思ったのだ。姉は何故か悲しそうに目を伏せた。

「あなたにはとても大事なお役目があるわ。だけど誰かを傷つけたりすることに慣れてはダメ。傷つけたり、命を奪ったりすることは本当はとても罪深いことなのよ」

「でも、あいつは慣れろって言うよ」

 そう言うと姉は益々悲しそうな顔になった。

「お父様でしょ。あいつなんて呼び方してはダメ」

「――ごめんなさい」

 思わず肩をすくめてしまう。姉に嫌われるのだけはなにより嫌だった。

「ううん、私も難しいこと言ってごめんね。あなたはまだ五つになったばかりなのにね。――まだこんなに小さいのにね」

 姉はそう言って再び頭を撫でてくれた。

「ねえ――お母さんがいなくて寂しくない?」

 少しの間をおいて姉がいった。

「お姉ちゃんがいるから」

 姉の手に頬を摺り寄せながらそう答えた。歳の離れた姉は自分にとって母と変わらない。

「お母さんに会いたくはない?」

 お姉ちゃんがいるから――同じ返事をした。

「もしも私がいなくなっても、あなたは私のこと覚えててくれる?」

 姉が何をいっているのか理解できなかった。

 姉の掌から顔を離して見上げると、姉の目から一筋涙が零れた。

「お姉ちゃん、どうして泣くの?」

 体を起こして姉に向き直る。姉の白い腕が伸び、自分を抱き寄せた。

 姉は力の限り――それはとても弱々しいものだったが――自分を抱きしめた。姉に抱きしめられるのは大好きなのに、何故かその時は無性に悲しくなった。泣きそうになりながら抱き締め返す。

「ごめんね、お姉ちゃんあなたのこと好きよ。大好き」

「僕もお姉ちゃんのこと大好きだよ。だからいなくなるなんて言わないで。ずっといっしょにいて」

「ずっと一緒にいるわ。私のこと忘れないでいてくれたら、私はいなくなったりしないから。だから――」

「忘れないよ。お姉ちゃんの事忘れたりするもんか。だからどこにも行かないで。僕もっと頑張るから。お姉ちゃんのこと守れるくらい強くなるから」

 言葉になっていたか疑わしい。とにかく必死だった。

「ごめんね。何もしてあげられなくて、本当にごめんね――」

 姉に対して何も言えなかった。手を離せば消えてしまいそうで、ただ泣きじゃくりながら懸命に姉の薄い体を抱き締めた。

 姉の体への気遣いや、恥ずかしさもあったのだろう。姉に力の限り抱きついたのはこの時が初めてだった。


 次に姉の部屋を訪れた時、部屋には誰もいなかった。

 まるで最初からそうであったかのように姉の部屋は綺麗に片づけられ、冷たい空気が部屋に満ちていた。

 姉が横たわっていたあたりに寝転がり、目を閉じる。いつまでそうしていても何も起こらない。ただ固い畳の感触があるだけだった。

「お姉ちゃんいつ帰ってくるのかなぁ」

 喉を震わせながら声をあげる。そうせずにはいられなかった。 


 ――帰ってきたらまた頭を撫でてもらおう。

 ――今日はあいつのことちゃんとお父さんって呼んだよ。

 ――まじめに勉強して英語だって話せるようになったんだ。

 ――褒めてくれなくたっていい、ただ、聴いてくれるだけでいい。


 瞼を開けると涙が溢れ、わななく唇が声を震わせる。

 姉は二度と帰ってはこない。頭の悪い子供だった自分でも、その程度の事は理解できた。寝返りを打ち、姉の温もりを求めるように冷たい畳に横顔を押し付け、強く瞼を閉じる。


 まどろみの淵で姉が微笑みかけてくる。手を伸ばしても届かないのがとてももどかしくて、涙が再び糸を引いた。




 *



 コロンの臭いでむせ返りそうな休憩室の椅子に腰掛け、頬杖をついて正面に張られた鏡を小百合はボーっと眺めていた。時間は既に深夜の一時を過ぎている。

「小百合、お疲れ」

 隣の椅子に座った悠里――梓が声をかけてくる。仕事が終わったばかりだというのに、相変わらずメイクも髪型も乱していない。さすがだな――小百合はいつも思う。

「どうしたの? なんか今日元気なかったよ」

「そうかな? いつも通りだよ」

「嘘ついてもダメだよ、小百合は顔に出るんだから。昨日のお客さん――ソラ君だっけ? 彼の事でしょ」

 タバコに火をつけながら梓が言った。的を射た梓の言葉に小百合は小さく頷く。

 ソラの言葉がいまだに尾を引いていた。客から何を言われようと真に受けるなと梓にいつも言われているし、そうするようにしてきたつもりだ。そもそも自分はだれにも寄らずに生きていこうと決めたはずなのに――小百合は自分で自分が情けなくなった。

「客相手はマジにさせちゃだめだし、マジになってもダメ。それはわかってるよね?」

「うん。そういうのじゃない――と思う」

「そ、ならいいけど。まぁ滅多にないいい男だったけどね」

 梓はカラカラと笑ったが、小百合は深いため息をついた。 

「――ねえ、この後良かったら何か食べに行かない? 美味しいパスタ出してくれるダイニングバー見つけたんだ」

 梓は小百合が気落ちしている時いつもこうして声をかけてくれる。気持ちは本当に嬉しいが、どうしても小百合は気が進まなかった。

「ごめん、今日はちょっとダメなの。また今度連れてって」

「そう? わかった、じゃまた明日ね。――なんかあったら相談しなよ」

 梓はそう言うと、タバコを灰皿で念入りに消してから席を立つ。その後姿を見送ってから、小百合も立ち上がった。

 ロッカーの前で着替えを済ませ、従業員用出口から外に出る。小百合が出入り口のドアを閉めると、見計らったように路地の陰から人影が現れた。

「おう、久しぶりだな小百合。ずいぶん待ったぜ」

 小百合の背筋を冷たいものが走る。この世でもっとも聞きたくない声だった。

「金田――さん」

「おいおい。んなつれない呼び方すんなって。俺とお前の仲だろうがよ」

 下卑た笑いを浮かべながら伸びてきた金田の腕を払いのけ、小百合は後ずさる。

「何の用ですか。もう私はあなたに言われた金額は払い終わったはずです。その為に私は――なんでもしたはず!」

「あぁ、お前は本当によく稼いでくれたよ。ただお前の家族、お袋と姉貴がどーにも困った奴らでな。さっぱり居所が知れねぇんだわ」

「だからなんなの? 私にはもう関係――」

 金田の平手打ちを左頬に受け、小百合は膝をついた。金田は小百合の顔を掴み、自分の方へと引き寄せた。

「家族の借金は家族が返すのが筋だろうが。なんなら借用書見るか? 未払い分がまだ百二十万あるんだよてめぇには!」

 金田は小百合を荒々しく放り出し、懐から折りたたんだ借用書をちらつかせた。突然振るわれた暴力に対し、小百合は体の震えを抑えることができなかった。

「悪いがこっちも切羽詰ってんだ。うちのケツ持ちだった童龍寺組のほうでなんかあったみたいでな。連絡も何もつきやしねぇ。どうあってもこの金一括で返してもらうぜ」

「だけど――そんなお金すぐには――」 

「心配すんな、お前向けの仕事が用意してあるからよ。もともとケツ持ちの方で管理してたラインにちょっとコネがあってな。お前なら即金で百二十程度ポンと出してもらえるぜ」

 金田はそういうと小百合の腕を強く引いた。小百合は抵抗しようとしたが、恐怖で体がいうことを聞かない。

「嫌、離して――離してよ!」

「騒ぐんじゃねぇよ! まだ殴られてぇの――」

 腕を振り上げた金田の動きが止まった。小百合は恐る恐る顔を上げ、金田が向けている視線の方へと振り向いた。

 切れかけた水銀灯の明かりを背にしてソラが立っていた。右手にスポーツバッグをさげ、左手をブルゾンのポケットに入れたまま金田をじっと見据えている。逆光のせいで表情はわからない。

 いつからそこにいたのだろう、今の話を聞かれただろうか――小百合の胸にそんな思いがこみ上げた。

「んだぁ? 誰だよてめぇ」

 金田が訝しげに眉をひそめて凄む。

「――いくらだ?」

 抑揚のない口調でソラがいった。

「あ?」

「金があればいいんだろ? いくら払えばいい。あんたが持ってる借用書、俺が買うよ」

「なに言ってるのよ! 君には――」

 金田の手に下顎を鷲掴みにされた。指先に込められた力が黙っていろと脅しつける。

「――お前あれか、こいつにいれ込んでる客かなんかか? はっは、こりゃいいカモ捕まえたなあ小百合」

 金田が鼻を鳴らして海瑠を睨み付ける。

「なぁお坊っちゃん、こいつの借用書の値段知ってんのかよ? 電車の切符とは違うんだぜ。こいつと纏めてってことなら二百万だ。現ナマで払えるなら考えてやるよ」

 そう言ってから金田は声をあげて笑った。馬鹿げた金額だが、金田自身も本気で言っていないだろう。そんな大金を持ち歩いている者などいるはずがない。

 ドサリという音が路地に響いた。ソラが手にしていたスポーツバッグを足下に落としたのだ。訪れた静寂の中、ソラが口を開いた。

「二百だな」

 事も無げに言うとバッグのジッパーをおろした。右手を鞄の中へと差し込み、長方形の固まりを掴んで金田の足下へと無造作に投げる。空中で二つに分かれたそれは、テレビや映画でしか見たことがない紙幣の束だった。

「マジか――」

 金田は呆然と呟き、小百合の顔を掴んでいた右手を離した。足下に散らばった札束の一つを拾い上げ、蛍光灯の明かりに照らして顔を近づける。紙幣の端々が擦り切れてはいるが、それは紛れもなく本物の一万円紙幣だった。

「これで小百合は自由だろ? もう二度と彼女に近づくな。あんたが彼女を縛れる鎖はもうなにもない」

 ソラが冷ややかに言い放つ。金田は呆けたように手元の札束とソラの顔、そしてスポーツバッグへと視線を移し、ニヤリと口元を歪めた。手早く落ちていた札束を拾い集め、ポケットに無理矢理ねじ込む。

「あぁ――あぁ、いいぜ。約束は守るよ」

 金田は手をひらひらと振り、大股で歩きだした。ソラがその背に向けて声をかける。

「おい。借用書を忘れてないか」

「こりゃコピーだ。原本持ち歩くわけねえだろ? 心配すんな、後で小百合に直接渡してやるよ」

 そう言って金田は路地の奥へと姿を消した。立て続けに起こった事態にいまだ現実感がわかずに立ち尽くしていると、ソラがいつの間にか傍に立っていた。

「大丈夫か? ケガとかは――」

 反射的にソラの頬を小百合が平手で打つ。手のひらにジンと痛みを感じながら、小百合はソラを睨めあげた。

「何を考えてるのよ! 一体何のつもり!?」

 声の限りに小百合が叫ぶ。ソラは何も言わない。動じた素振りさえ見せない。ただ、少しだけ悲しそうに俯いた。

「ごめん、小百合がこういうのを嫌がるのはわかってたんだ。本当は出ていくべきかどうかも迷った」

「わかってるならどうして。私は君に同情なんてされたくない! 知り合ったばかりの私なんかになんで――おかしいよ」

「おかしいよな。自分でも思うよ」

「今更――遅いよ。あいつに言われるままあんな大金渡すなんて」

 小百合はしゃくりあげながら声を絞り出す。だがソラはゆっくりと首を横に振った。

「違うよ、そうじゃあない。金はどうでもいいんだ。何ならあの鞄ごとくれてやってもよかった」

 ソラが置きっぱなしにしてある鞄を振り返りながら言った。そちらに目を向けると、開きっぱなしになった鞄の口から無造作に詰め込まれた札束がのぞいている。

「俺がおかしいって言ったのは、客観的に見て知り合ったばかりの奴が頼まれてもないお節介焼いたことに対してだよ。おかしいもんなどう考えても」

 まるで他人事のようにソラは苦笑した。

「俺は十七の時に家を出た。その金はそれまでにこなした仕事の報酬全部引き落としたんだ。一千万くらいだったかな」

「一千万って、君って一体――」

「それと、さっきのは俺が勝手にしたことだから小百合は気にしなくていいよ。たとえあの場で小百合が拒否しようとも俺は奴に金を渡していた。俺が自己満足を満たすのと、小百合の状況が重なっただけだから」

「ふざけないで! そんなこと言われて納得できるわけないじゃない」

 小百合が叫ぶと、海瑠はバツが悪そうな顔で鼻の頭を指でかいた。

「俺にはさ、昔すごく大事な人がいた。いつか守ると誓ったけど、その人は俺がまだガキのうちに死んじゃったんだ。それから俺はずっと宙ぶらりんだった」

 ソラは鞄を拾い上げ、ジッパーを閉じて肩に担いだ。

「その心を満たすために俺は色々なことをしてきた。だけど満たされたことは一度もなかった。今まではね」

「今までは?」

「ああ、俺は今凄く満たされてる。初めて何かを守れた。そんな感じだ」

「なんでよ――私なんてつい最近知り合ったばかりじゃない。ソラ君の言ってること何も理解できないよ。なんでそんな刹那的な満足感なんかのために生きていられるの?」

 海瑠はしばらく小百合を見つめていたが、やがて寂しげに目を伏せた。

「俺はあの時の約束を果たしたい。たとえそれが自己満足に過ぎないものでも。その為なら俺は残りの人生すべてを捧げても惜しくはない。――俺はそのために生きてきた」

 あまりにも突飛な出来事が続き、小百合はどういった反応をするべきかわからずいた。後ろめたさと無力感が心の奥でくすぶり、何を言えばいいのかわからない。

「それと、もし良かったらさ。またお店に会いに行ってもいいかな? 名前も小百合って呼んでもいい?」

 小百合が顔を上げると、海瑠は今しがた見せていた表情を消し去り、弛緩しきった笑顔を向けていた。まるで子供のようなその笑顔に、小百合は思わず口元を綻ばせる。

「君って――本当に変わってるね」

 小百合が頷いて見せると、海瑠はさらに表情を輝かせた。

「よかった。じゃあ小百合、また明日」

 軽く手を振り、ソラは軽い足取りで路地の奥へと走り去った。

 再び静寂が訪れた路地で立ち尽くしていた小百合の肩が不意に掴まれる。振り向くまでもなく誰の手かはわかった。数年の間自分をなぶり尽くした男の手の感触を忘れることなど出来るはずがない。

「本当にいい客捕まえてくれたもんだ。なぁ小百合」

 陰惨な笑顔を浮かべた金田が小百合の耳元で囁いた。





 漫画喫茶の深夜パックをまるまる睡眠に費やし、シャワーを軽く浴びて店を出る。メインストリート沿いにあるファーストフード店で昼食を済ませると、時刻は一時を過ぎていた。

 店内に置かれていた雑誌をなんとなしに目を通したり、店内に設置されたテレビモニターを眺めたりして時間を潰す。ニュースでクローン技術によって生み出された羊が成長過程で死亡したニュースが流れていた。


 命の価値ほど上下幅が大きいものはそうはない。

 かけがえのないもの、傷つけることすら許されぬものとして扱われるかと思えば時に一把いくらで勘定されたりもする。考えるだけで頭が痛くなりそうなテーマにもかかわらず、あえてその領域に踏み込み自ら命を作ろうとする。自分はどうにもその行為に価値を見出すことができなかった。


 頭を軽く降って湧きかけた後ろ向きな考えを消した。どうも悲観的な性格になったように思う。いや、かえって脳天期な自分にはその方がいいのかもしれないが。

 トレイを返却し、店を後にする。小百合の顔が頭に浮かんだ。彼女の声が聞きたい。そうすればこんな気分は一瞬で晴れるだろう。そんな思いを胸に、駅へと向かって歩く。

新宿駅構内に設置されている公衆電話の前でポケットを探り、十円と百円の硬貨をあるだけ電話器の上に並べた。公衆電話のプッシュボタンを間違えないように慎重に押し、受話器を耳に当てる。電話をかけるのはこれが初めてなので少し緊張する。五回目のコール音がなった直後に通話が繋がった。

「もしもし、小百合――」

『おう、早ぇな。どうやって連絡するか考えてたところだ』

 受話器から聞こえてきたのは男の声。昨夜聞いたばかりなので覚えている。

「なんであんたが小百合の電話に出る?」

 積んでおいた硬貨をすべて電話機に投入し、男に問いかける。

『昨日の晩に言い忘れてたことがあったんだけどよ、小百合の面倒は俺の他にあと二人掛け持ちで見てんだわ。だからそいつらにも話付けてもらわねぇと俺の一存じゃ決められねぇんだよなぁ』

 男が諧謔を含んだ声で言った。

「あんたは昨日二度と小百合には近づかないと言ったな。あれは嘘だったのか?」

『おぅコラ、誰に言ってんだよ。筋者ナメてんじゃねぇぞ。殺されてぇのか』

 男は口調を変え、声にドスを利かせて言った。胸の奥底で何かが蠢くのを感じる。熱も光もない黒い炎がかすかに灯る。

「小百合は?」

『今は代わってやれねぇよ。例の二人とよろしくやってる所だからな。なんだったら喘ぎだけでも聞いてくか?』

 男はそう言って笑った。小さな火種にすぎなかった黒い炎が膨れ上がる。それに伴い頭の奥は冴え渡り、研ぎ澄まされる。

「俺はどうすればいい?」

『物わかりがいいじゃねぇか。今晩零時に有り金もって昨日と同じ場所に来い。わかってると思うがサツに垂れ込みでもしたらこの女ブチ殺すぞ』

 安い脅し文句とともに電話が切られる。受話器を置いてかぶりを振った。

「そんな事はしないよ」

 呟いてから駅の出口に向かって歩き出す。

 この五年の間一度として現れることのなかった黒い炎が体内で激しく、それでいて静かに燃え盛っていた。先ほどまで周囲を歩いていた人間が、等しくただの肉塊に映る。

「ソラ君――」

 すぐ後ろで聞き覚えのある声がした。振り向くと小さな女が自分を見上げている。その目には微かに恐怖の色が見て取れた。

「なにか用か?」

「えっと――どうかしたの? なんだか、怖いよ――?」

「質問に質問で返すなよ。俺は今忙しい」

 構う気すら起きない。立ち去ろうとした所に再び女が声をかけてくる。

「あの人たちに呼ばれたの――? 小百合を助けに行くつもり?」

 再び女を振り向く。記憶を掘り起こし、女の顔と名前を探す。たしか名前は愛香といったか。

「そうか――お前が教えたんだな。なぜそんなことをした?」

「わ、私こんなことになるなんて思わなくて――ソラ君に想われてる小百合が羨ましくて――」

 愛香の震えが目に見えて大きくなる。今自分はこの女にどんな目を向けているのだろう。

「愛情ってのは厄介だな。制御できない分憎悪より性質が悪い。――お前は愛情を抱く相手を誤った」

 愛香がその場にへたりと座り込んだ。周囲の視線が自分たちに向けられている。愛香に背を向け、駅の出口へ歩を進める。冷えきった思考の底で自身の考えの甘さを悔いる。所詮自分に誰かを救うことなど出来るはずがなかった。

 駅を出て広場へと出る。餌を求めて群れていた鳩が一斉に飛び立ち、通行人が驚きの声を上げた。目の前を横切る鳩を追って視線を空に向け、吐息に等しい声で呟く。


「お姉ちゃんごめん。やっぱり、俺には無理みたいだ」





 「よぉ、マジでそんな奴がいんのかよ。やっぱ信じられねぇな」

煙草の煙を吐き出しながらスキンヘッドの男が言った。金田はワンカップの酒の蓋を開けながら笑う。

「まぁそうだろうな。俺だって話に聞くだけじゃ絶対に信じねぇよ」

 言いながら上着のポケットから札束を取り出して軽く振った。

「だけど実際本当の話だからよ。チラッとしか見なかったが、あのガキまだまだ持ってやがるぜ」

「しかしなんだってそいつそんな金持ってやがんだ? なんかヤバイ金じゃねえだろうな」

「金の出所なんかどうだっていいじゃあねえか。こんなカモそうそう見つけられねぇんだ」

「しかしよっぽどあの女に惚れたんだな。確かに上玉だけどよ、いくらなんでも使い古されすぎだぜ」

 男は下卑た笑い声を上げ、タバコを足元に投えげ捨てる。

「おいいつまでやってんだよ。もうすぐ零時だぜ」

 振り向いた金田が呆れたような声をあげる。小百合の前で腰を前後させていた男が満足げな吐息とともに両脇に抱えていた小百合の脚を離し、立ち上がってズボンをずり上げた。

「よぉ、やっぱこの女くれてやるのはやめにしようや」

 男が金田の方へと振り返っていった。

「なに言ってんだ。こんなおいしい話棒に振る気かよ」

「だから素人相手にスジ通す必要なんぞねぇだろうが。金だけもらって脅しつけりゃいいんだよ。ガタガタ抜かすなら多少痛めつけてやりゃいい」

「荒っぽい野郎だな。まぁ任せるわ、好きにやってくれ」

 金田が手にしていた空き缶を投げ捨てながら言った。目の前に立つ男が小百合の顔をつかんで引き寄せる。

「って事だからよ。ここに例のガキが来ても余計なこと言うんじゃねぇぞ。ひでぇ目に遭わせたくねぇだろ?」

 小百合は声が出なかった。心が折れるというのはこういう事なんだろうか――ぼんやりと考える。体に力が入らない。気力が萎え、怒りも悲しみも湧いてはこない。

 カランと空き缶を蹴る音が路地の奥から聞こえた。三人の男が一斉に振り返る。小百合は顔を掴まれたまま、視線だけをそこに向けた。

 切れかけて明滅を繰り返す蛍光灯の光を背にしたソラが静かに立っていた。逆光と、ややうつむき気味に顎を引いているせいで表情が全くわからない。まるで闇が形を成して突然そこに現れたかのようだった。

「お――おお、来たか。早いじゃねぇか」

 ソラの醸し出す一種異様な空気に呑まれたのか、金田が声をやや上擦らせながら言った。小百合は体の奥底に残しておいた一握りの気力を振り絞り、顔を掴んでいた男の手を振り払った。

「ソラ君逃げて、こいつら約束を守る気なんてない! 最初からお金だけが目的なの!」

 喉をふるわせ、声を張り上げる。ソラがこちらを振り向くのがわかった。

 自分を救おうとしてくれた人間を危険な目に遭わせたくはない。ましてこんな奴らの好きにさせたりはしない――小百合は萎えきった心を無理やり奮起させた。

「私は大丈夫だから、早く――」

 男が裏拳で小百合の右頬を思い切り殴りつける。小百合は奥歯が折れた感触を口内に感じながらアスファルトに倒れ込む。

「余計なこと言うなってのがわかんねぇのかな、このバカ女は」

 男はうんざりしたような口調でそう言うと、懐から鈍く黒光りする塊を取り出してソラへと向けた。

「もうわかっただろ兄ちゃん? その金だけ置いてさっさと消えろや。こんな女にイカレちまったのがついてなかったと思ってくれよ」

 ソラは鉄の塊――リボルバー式の拳銃をチラリと一瞥して空を仰いだ。

「俺は別にこの金も、あんた達もどうでもよかった。ただ金だけ寄越せと言ってくれたら、俺は言うとおりにしていたんだ」

 そう言ってソラは目の前にバッグを放り捨てた。開け放たれたジッパーの割れ目から札束が覗く。

 金田とスキンヘッドの男が音を立てて唾を飲み込む。拳銃を持った男がスキンヘッドの男に目配せをして、拾うように指示した。男は頷いて鞄に歩み寄った。


「本当は誰も死なずに済んだんだ――」


 ソラの右足が天に向かって跳ね上がる。鞄を拾い上げようと屈みかけていた男の背が直立した。

 その場にいた誰もが事態を把握することが出来ずに硬直した。ソラが垂直に上げた右足をゆっくりと下ろす。直後、ベチャリという音と共に、金田の足下に何かが落ちた。蛍光灯の光に照らし出されたそれは、ほとんど原形をとどめたままちぎれた人間の下顎だった。

 息を呑んでスキンヘッドの男に視線を戻すと、顔の下半分を失った首が頸椎の支えすらも失ってダラリと垂れ下がり、男は膝からどさりと地面に崩れ落ちた。

 まるで時間が止まったように誰もが制止している中、ソラが動いた。拳銃を持った男に向かって悠然と歩を進める。

「このガキ――!」

 我を取り戻した男が怒りとも恐れともわからぬおめきをあげながら引き金に指をあてる。だが金属が噛み合う音が響いただけで、銃口が火を噴くことはなかった。

「んな!?」

 男が頓狂な声を上げる。まばたきの一瞬で男に肉薄したソラが左手の人差し指と中指で銃身の弾装部分を刺し貫いていた。先ほどの金属音は弾装を弾かれて空洞となった銃身を撃鉄がむなしく打った音だ。

 ソラの右拳がまっすぐに男の顔面に打ち込まれた。骨が砕け、肉が弾ける異様な音がして、男の体が崩れ落ちた。仰向けに倒れた男の鼻と口の間が、杭で打たれたように陥没している。ソラはそのまま歩くついでのような所作で男の頸椎を踏み砕く。

「え、は――?」

 十秒に満たぬ瞬殺劇を目にした金田が、声を震わせながら一歩後ずさる。

「なんだお前。今何した?」

 ソラは答えず、一歩一歩踏みしめるようにして金田に向かって歩いていく。

「お、俺が誰だかわかってんのかてめぇ!? ち、地竜寺組の支部長にも俺は――」

 獲物に食らいつく蛇を思わせる速度で伸びたソラの右拳が、金田の首にピタリとあてられる。恫喝の台詞を唱えようとしていた金田は体をビクリと震わせ、それ以上一声もあげなかった。

「少し黙れ」

 冷たくいい放ち、ソラの右手がゆっくり引き抜かれる。握った拳の小指だけが立てられ、血に塗れている。金田の喉には黒い小さな穴が穿たれ、何かいおうとする度に空気の漏れる音と一緒に血の泡がゴボゴボと噴き出した。

 ソラは喉を押さえてうずくまろうとした金田の胸ぐらを掴んで立ち上がらせ、右膝に脚をかけて枯れ枝でも折るかのようにたやすく踏み折る。仰向けに倒れ込んだ金田の残った手足も同様に次々と踏み砕いていく。それら一連の行為を、ソラは小百合に背を向けたままで淡々とこなしていった。

「ソラ君――」

 小百合は現実離れした光景を目にして痺れたようになっていた脳を奮い起こすように頭を振り、芯の抜けきっていた下半身に力を込める。口を出来る限り大きく開け、縮みきっていた肺に空気を送り込んで喉を震わせた。

「ソラ君、駄目!」

 さして大きな声は出せなかったが、静かな路地ではそれで充分だった。小百合に背を向けて金田のそばにしゃがみ込んでいたソラが肩越しに振り向く。薄暗い証明に照らし出されたその横顔は、小百合が知るソラのものだった。

 小百合は駆け寄ろうとしたが、ソラの肩越しに金田と目が合い、反射的に足が止まった。正確に言えば、かつて金田であった死体が虚空に向ける視線と目が合ったのだ。

 暗がりに倒れているせいでよくは見えないが、金田が倒れているあたりから血と思われる黒い液体が広がりだしているのがわかった。

「ごめんな小百合。またお節介焼いたみたいだ」

 ソラがうなだれて言った。力のない、投げやりな口調だ。たった今、三人の人間を呼吸すら乱すことなく殺した男とは思えない。

 小百合は再び失いかけた現実感を取り戻すように後ろを振り向く。最初に死んだ男の無惨な死体がそこに倒れている。明かりに照らされ、爆ぜ割れた顔面の傷跡が小百合に現実であるという実感とともに、悪寒を取り戻させる。

 男の死体を視界に映さぬよう顔を背けながら、死体の足下に落ちていたバッグを拾い上げる。ジッパーを閉じて再びソラの元へと戻った。

「ソラ君立って! ここから逃げないと」

 何をいってるの――小百合の理性が警鐘を鳴らす。今ここで行われたのは紛れもない殺人なのだ。

「でも、俺は」

「いいから、今はとにかく――!」

 掴んだソラの右手を思わず離してしまう。ソラの右手はベッタリと赤黒い血にまみれていた。

 一瞬ためらったが、小百合は血塗れの右手を強く掴んで引いた。

「駄目だ小百合。俺と一緒にいたらお前まで――」

「いいから来て、話は後にして!」

 半ばヤケクソに叫んで走る。出来るだけ人の少ない通りを避け、自宅のアパートに向かって走る。焦りや不安、恐怖が胸の内に渦巻いていたが、左手から伝わるソラの体温がかろうじて小百合に正気を保たせた。





 洗濯機が回る音が響く洗面所で、小百合は大きく息を吐いた。シャワーを浴びて多少落ち着いたせいか夢から醒めたような感覚に襲われ、どっと疲れが湧いてくる。

 下着の入った衣類棚を開けようと衣類棚に手を伸ばした時、ふと左手に残った指の跡が目に付いた。この手を離せばソラは泡のように消えていなくなる――脅迫観念にも似た想いに駆られ、アパートに着くまでの間ソラの手を力の限り握りしめていたせいだ。

 小百合は気付かなかったが、ソラもまた小百合の手を強く握り返していた。

 指の跡をさすっていた小百合がハッと顔を上げた。下着を着ける間も惜しく、シャツをひっ被って洗面所の扉を開く。

 テーブルに両肘をついたソラがキョトンとした目を小百合に向ける。いなくなっているのではという思いに駆られたのだが、杞憂だったようだ。

「どうかしたのか?」

「う、ううん。なんでもない」

 胸をなで下ろしながら首を横に振る。急いでスウェットを穿いて浴室を出る。キッチンでホットミルクを二つ作り、ソラの前にカップを置いた。

「落ち着いた?」

 顎に手を当て、何かを考え込んでいたソラに声をかける。小百合はソラの正面に腰を下ろした。

「あぁ、俺はずっと落ち着いてるよ」

 ソラはそう言ってカップに口を付ける。思い詰めているような雰囲気はない。ただ何かを決めかねているような、そんな風に見えた。

「今までにも、あるの? さっきみたいな、その――」

「あるよ。今までに何人も殺した」

 あっさりとソラが答える。その視線はカップの白い水面に注がれていた。

「だけど、壁の外で人を殺したのは初めてだ。だからこれからどうするか考えてた」

「壁の外?」

 小百合はソラが口にした単語に違和感を覚え、反芻した。

「あぁ、家を出て以来ってこと。十四歳の頃から、慣れるために何人も俺は人を殺させられた。色々な所から集められた死刑囚とか傭兵とかを」

 一瞬ソラが何を言っているのか、小百合には理解出来なかった。慣れるために人を殺す? 映画か何かの話ではないのか?

 現実逃避しかけた小百合の脳裏に先ほどの路地裏での光景が蘇る。小百合が絶句していると、ソラがふっと小さく笑ってカップを置いた。

「――わけわかんないよな。昔の話してもいいか?」

「聞いてもいいの?」

「小百合には話しておきたい」

 小百合が小さく頷いたのを見て、ソラは椅子に深く座り直した。

「俺の家はずっと昔から国家の裏事に関わっていた。起源を遡れば江戸時代から続いていたらしい。大政奉還がされた後も新政府にそのまま役職ごと移され、今の時代にまで受け継がれてきた」

「裏事って?」

「早い話が表沙汰に出来ない事案。国勢にそぐわない処置を極秘に行う殺し屋。掃除人とか、黒犬って呼ばれてる。俺の家はその職務を全うするためだけに存在していたようなものだった」

 大きな溜息をもらし、ソラは続けた。

「立って歩けるようになった時期から俺は跡目を継ぐための修行を課された。成長を妨げないよう、肉体に負荷がかかる筋力トレーニングとかはほとんどしなかったけど、その分起きてる間はずっと頭とメンタルを鍛えさせられたよ」

「それが嫌で、家を出たの?」

 ソラはゆっくり首を横に振った。

「そうじゃあない。そもそも辛いとは思わなかった。俺は一度も外に出されなかったし、比べる対象もなかったからな。これが普通だと思っていたよ。十六になるまでは」

「十六歳の時に、何かあったの?」

「家系図を親父から渡された。元服の証だとか言ってな。それを見て、俺は全ての支えを失った」

 ソラの顔に深く影が差す。口調も重苦しいものへと変わっていた。

「俺はそれまである人の為に生を全うすると誓っていた。その人への思いがあったからこそ俺は自分に誇りを持てた。馬鹿げた話だけど、子供が夢見る正義のヒーローみたいな存在になれると思っていたんだ」

「その人が、前に話してくれた――?」

「俺の母親だよ。いや、姉さんなのかな? 姉さんが十四の時に産んだ子供が俺なんだ。親父と姉さんの間に産まれた子供が――俺さ。姉さんは俺を産んだ負担から、二十にもならずに亡くなったんだ」

「どういうこと? 義理の親子――だったの?」

「親父と姉さんは正真正銘の親子だよ。俺の家系は異端の産まれる確率が飛び抜けて高いらしい。その血を濃くするために、ずっと昔からそうしてきた――親父は俺にそう言った」

 小百合は何もいえなかった。あまりの内容に圧倒され、言うべき言葉が見つからない。

「家系図に姉さんの名前はなかった。というより、記されていた名に母親の表記はほとんどなかった。家系図は俺に、家名を継ぐものにこの忌まわしい血の連鎖を理解させるための物だったんだ。それを知って俺は初めて家を、父をおぞましく感じた。母を殺した自分の存在をなにより穢らわしく感じた。産まれて初めて、抑えきれないものが胸の内にこみ上げた」

 ソラの眉間に深い皺が刻まれる。唇の端から一筋の血が流れ落ちた。

「だから俺は家を出た。いや、逃げたんだ。自分を取り巻く全てから。――妹からも」

「妹――?」

「妹は俺にすごく懐いてくれてたし、俺も大切に想っていた。だが自分の出生を知ってから、妹が俺に向けてくれる好意を素直に受け止めることが出来なくなった。恐ろしくすら感じた。――今思えば、なんてひどい兄貴だったんだろうな」

 その場に沈黙が流れる。小百合は最後までソラに対して何を言うべきかわからなかった。だが伝えるべき言葉はすでに決まっていた。

「私はね、お父さんが蒸発した次の朝、目を覚ましたらお母さんとお姉ちゃんがいなかった。置いて行かれたこともそうだけど、お母さんがお姉ちゃんだけを連れて行ったことがすごく妬ましかった。いつか見つけ出して一発殴ってやろうって考えたこともあるんだから」

 顔を上げたソラと目が合う。小百合はウインクをして笑顔を取り繕う。

「――不幸自慢だったら私も負けないよ。ソラ君は優しいお母さんがいて、なついてくれる妹がいて――それで、お父さんがあんまり好きになれない人だったんでしょ? それでいいじゃない。自分の境遇から逃げ出したくなることなんて誰だってあるよ」

 小百合は立ち上がり、ソラへと歩み寄る。ソラも同じように立ち上がった。

「ソラ君は間違ったこともしたかもしれない。でもそのおかげで私は君に助けてもらえた。人間が生きていくのなんてそれでいいと思う。間違いながら、それでも正しい道を探していればきっと見つけられるよ。いつか自分が本当に探してたものに――」

 小百合はソラの背に腕を回し、ソラの胸に顔を埋めた。ソラも同じように小百合を強く抱きしめる。

「それで――いいのかな? これじゃなんだか、傷の舐めあいだ」

「痛みを分かち合うって思えばいいの。意味は同じだけど、これだとなんだか力が湧いてくるでしょ?」

 小百合が顔を上げて微笑む。ソラは少し目を泳がせたが、すぐに微笑みを返して頷いた。

「そうだな――間違っていたとしても、そこから正しい道をまた探せばいいんだよな」

 小百合も頷き、そっと瞼を閉じた。ソラは慣れぬ手つきで小百合の顔を手で優しく持ち上げ、強く唇を重ね合った。





 「ソラ君、もっと深めに帽子かぶって」

小百合は言いながら手を伸ばし、ソラが頭に乗せるようにしていた帽子のバイザーを目元が隠れるまで傾けた。

「大丈夫だよ、別に誰も見てやしない」

 ソラは事もなげに笑うが、小百合にしてみれば気が気でなかった。金田たちの死体は翌朝には発見されニュースにもなっていたし、それでなくてもソラは目立つのだ。

 先を歩いていたソラが日用品と衣類の詰まった袋を軽く持ち上げ、振り返りながら言った。

「それより買い物全部小百合に出してもらうの悪いよ。金なら俺の――」

「ダメ、あんな大金持ってたら感覚が麻痺しちゃうでしょ。あれはよっぽどの事がないと手をつけちゃダメだからね」

「よっぽどの事って?」

 ソラの問いかけに小百合は言葉を詰まらせる。言わずもがな警察に突き止められた際の逃走資金に当ててほしいのだが、口に出したくなかった。どのような形であれ、ソラを殺人者だと思いたくはなかったからだ。

「とにかく今はダメ。お金なら気にしなくていいからしばらく私の言うこと聞いて」

 話を切るようにソラから目を背け、小百合は歩みを速めた。ソラは小さく肩をすくめ、歩幅をあわせるようにして隣を歩く。

 小百合が腕時計に目をやると短針が午後一時を指していた。どこかで昼食でもとろうかと思い、隣を振り返るとソラの姿が見えない。

 あわてて周囲を見回すと、ソラはすぐ後ろにいた。大型電気店に展示されている大型液晶テレビがショーウィンドウ越しに通りに向けられており、その画面を食い入るように見つめている。

「どうしたの?」

 ソラの袖を引き、小百合もモニターを覗きこむ。大画面に映しだされたニュースに緊急生放送のテロップが流れている。周囲の雑踏とガラスに隔てられているせいで音は聞こえないが、殺人事件を報じていることは見て取れる。

「渋谷で――身元不明男性の惨殺死体が発見される――」

 小百合はテロップを小声で読み上げた。リポーターの声が聞こえないので詳しくはわからないが、二日前に新宿で発見された遺体――金田達のことだ――と同一犯によるものである可能性が高い事が字幕で表示されていた。

 小百合は隣に立つソラを見上げた。この三日間、ソラはずっと小百合と一緒にいた。小百合はアンゼリカに少しの間休みをもらったので、少なくとも一時間以上目を離した事はない。つまり彼が犯人である可能性はないのだ。

「小百合――悪いけどこれ持って先に帰ってもらってていいかな。ちょっと用事ができた」

 口元を堅く結び、画面を見つめていたソラが小百合を振り向いて言った。差し出された紙袋を犯射的に受け取り、小百合は困惑した。

「え、でも用事って――」

「たいしたことじゃあない。すぐに帰るよ」

 そう言ってソラは歩きだした。

「ま、待って!」

 小百合があわてて呼び止めると、ソラは振り返って首を傾げる。

「どこかに行っちゃったりしないよね? ちゃんと帰ってきてくれるよね?」

 ソラは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに得心したように苦笑した。

「大丈夫だよ。すぐに戻る、約束する」

 そう言って手を軽く振り、ソラは人混みに姿を消した。小百合はしばらく呆としたように立ち尽くした後、先ほどのテレビを振り返った。既に番組は天気予報へと切り替わっている。

 自分の考え過ぎだろうか――小百合は溜め息をつく。だがソラは雲のように流れて消えてしまいそうな雰囲気があり、どうしてもそれが気がかりだった。

 小百合は不安を振り払うように顔を振り、ソラの温もりがわずかに残る紙袋を強く握りしめて歩きだした。

 


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