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上巻

 

 暗い天井を見上げていた。


 幼い頃の自分の記憶はほとんど空を見上げていたことしかない。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も自分は空を見上げていたように思う。首が痛くて元に戻らなくなるまで空を見上げていたこともある。

 空が好きだったわけではない。ただ空のもっと上に、自分の望むものが見えるのではないかという思いがあった。

「どこを見ている」

 威厳と貫禄に満ちた声が部屋に響く。顔を下ろして正面の男を見据えた。

「お前の言い分はわかった。言葉にした以上相応の覚悟はあるのだな」

 男の声が質量を得たかのように重くなる。おそらくこの世に生を受けて以来、一日たりとも休まず研鑽を続けてきたであろうその肉体は、老いてなお岩の如き分厚さと重みを感じさせる。長く伸ばした白髪は纏めて後ろで縛られ、歳の割に若々しい肌はどこか滑らかな樹木の表皮にも思える。

「我らが血筋の歴史を、重みを、特権を。お前は捨てると言うのだな? それらを捨て、お前に一体何が残る?」

「あんたが守りたいものは特権だけだろう。今までがどうだったかは知らない、だけどそれを俺に押し付けられても困る。俺が見知っているのは生まれてからの10年そこそこだ。どうするかなんてこれから自分で考える」

 思ったままを口にすると、部屋の空気が変わるのが感じられた。

 よくわかった――男はそう言って片膝を立てる。板張りの床がギシリと鳴った。同時に纏わりついてくるのは殺意。恐ろしい人物だったんだな、と改めて思った。

「以前よりお前が腹に一物抱えていることは知っていた。それでも知らぬふりを通してやるつもりであったのだ。今の今まではな」

 猛禽を思わせる指が音を立てて曲がる。立ち上がると頭ひとつ背の高い男を見上げながら、自分もいつかこれくらいでかくなるのかなどという考えが頭に浮かんだ。

「だがもういいだろう、保険が実を結んだという報告も来た。今まではお前の希少な才に免じて大目に見ていたが、もはやその必要もなくなった」

 要領を得ない言葉に首を傾げる。男は構わず続けた。

「ものになるかわかるには刻が足りぬが、まだ七海がいる。最悪の場合あれに産ませれば良い」

 ここに来て初めて心に揺らぎが生じた。会話の流れは想定したものであったのに、実際に耳にするとここまで忌まわしく感じるものか。

「本来お前の役割であったが仕方あるまい。私が尻拭いをするしかなくなったようだ。」

「それをするのにあんたは何も感じないのか?」

 無自覚に声が熱を帯びる。

「お前の母がいかなる筋のものか知っていよう。我らはもとよりそうして代を紡いで来た。水よりも濃い血を更に濃くするために」

 母という単語を男が発した瞬間、心の中に湧き上がるものがあった。眼の前に立つ男が教え込んだ漆黒の意志。怒りとも憎しみとも違う混じりけなしの殺意。

「イカれてるよ、アンタは――」

 言い終わる前に男の足が地を蹴る。床板が砕けた音が耳に達するよりも速く距離が詰まり、心臓に向けて右の貫手が水平に放たれた。

 刹那、脳裏をよぎったものが悲しみであったのか怒りであったのか、自分でも思い出すことができない。手刀により真一文字に切り裂かれた胸から血が流れだし、衣服を赤く染める。死の間際には走馬灯の如く思い出が浮かぶというが、そんなものは見えなかった。ただ一秒が果てしなく長く感じた。

 様々な破壊を内包した音が空気を震わせる。同時に止まっていた時間がゆっくりと流れ出すような感覚に襲われた。

 部屋に静寂が満ちるのを待ち、老人のこめかみにめり込ませた右手の指先を引き剥がす。頚椎から背骨にかけて逆方向へ折り曲がった男の体は奇妙なオブジェとなって部屋の中央に転がった。自らの手刀が躱されたことは理解したのだろう。見開かれた眼に驚愕の色が浮かんでいた。

 男の瞼をそっと下ろし、部屋を後にする。胸の内に気づいていたにもかかわらず生かしていてくれたことに感謝した。無意味とは思ったがせめてもの手向けの言葉を贈る事にする。

「今までありがとうな、親父」

 男を父と呼んだのはこれが二度目だった。縁側から庭に下り立ち、空を見上げる。星々が輝く美しい夜空が一杯に広がっていた。





 裸電球の頼りない光に照らし出された空間に二人の男が向かいあっていた。

 片方は浅黒い肌をした巨漢で、短く刈り込んだ頭髪にいくつものラインが走っている。顔には無数の傷が刻まれ、表情からはおよそ感情と呼べるものが見当たらない。百九〇センチはあろうかという長身に分厚い筋肉を纏っており、ただ立っているだけで暴力的なまでの存在感があった。鋭い双眸には剣呑な輝きがあるが、同時に知性をも感じさせる。腕力だけを頼りに生きてきた男ではない。

 それに向かい合っているもう一人の男は、身長こそ百八〇を超えてはいるがか細い。実際には肩幅は十分に広く、絞り込まれた筋肉をしているのだが比較対象が小山のような大男であることと、モデル以上の端整な顔立ちのためにどうしても頼りなく映る。体重差だけで軽く二十キロはあるだろう。

 不意に巨漢の背後に広がる闇から空気が漏れたような音が鳴り、それに呼応するかのようにいくつかの気配が蠢いた。この空間にいるのは二人だけではない。闇の中の気配が漏らしたものは明らかな嘲りだった。だがモデルめいた男の背後にも存在していた同じような気配の塊は一切動かず、まるで黒い一枚岩のごとく泰然としていた。

 巨漢の男は着ていたスーツの上着を脱ぎ、静かに足元に落とすとポケットからオープンフィンガーグローブを取り出して拳にはめた。使い込まれた手袋の具合を確認するように何度か握りなおした後、男は両腕を顔の前にあげて構えをとった。

「名前は――?」

 不意に巨漢が口を開く。その風体に似ず、優しげですらある低く落ち着いた声だった。英語の発音には少し訛りを感じさせる。

獅童海瑠しどう かいる

 まるで友人と話すような気楽な口調で海瑠は答える。こちらは流麗な標準英語だった。

「カイル――か。ボブ・マクダネルだ。まだ若いのに、因果な仕事をしているようだな」

「俺はもうすぐ二十三だぜ? サムライの時代じゃあ十代で一人前とされてた時代もあるさ」

 海瑠の言葉にボブは小さく笑った。

「確かにな――俺も初めて人を殺したのは二十の時だった。言えた義理じゃない」

 海瑠もまた口元に笑みをたたえながら、着ていたジャケットのジッパーをおろした。肩口をすっぽりと襟が覆う独特なデザインのジャケットを脱ぎ、背後の闇へと投げる。蝙蝠のように空中で広がったそれを闇の中から伸びた腕がつかみとる。ジャラリと金属同士が擦れる硬い音が鳴った。

「合図は?」

 ボブが重々しい声を発する。先ほど浮かべていた笑みはすでに消え去っていた。海瑠は両足を肩幅より少し大きく開き、やや前傾みの姿勢でボブを見据えた。

「いつでも」

 海瑠が答えると同時にボブが地面を蹴った。巨体の重みをまるで感じさせない、疾風のごとき踏み込みで海留との間合いを一瞬で詰め、左のジャブを放つ。

 だが完全に顔面を捉えたと見えたその一撃が打ち抜いたのは海瑠の影のみだった。ボブが踏み込んだ刹那、海瑠もまた同じ距離を後ろに跳びすさっていた。

 再び間合いを詰めようとしたボブは左手の異変に気付き、視線を海瑠から外さずに左拳を目線の高さまで持ち上げた。

「――ッ!?」

 ボブの目が見開かれ、背後の闇からどよめきが漏れる。ボブの左手の小指が赤黒く染まりひしゃげている。

「全盛期のあんたのパンチは――」

 ボブが顔を上げた。長い睫に縁取られた海瑠の瞳に寂しげな光が宿る。

「もっと速かったぜ。チャンプ」

 ボブは額に汗の球を浮かべながらふっと笑った。折れた小指を無理矢理拳に収め、再び構えをとる。

「全盛期さ――今こそがな」

 ボブが再び海瑠に向かって突進した。再び左のジャブを繰り出すモーションを取りつつ、踏み込んだ左足を軸にして右の下段蹴りが鞭のように振るわれる。

 拳を意識していた海瑠はその一撃を左膝に受け、上体をよろめかせた。ボブの目が鋭く光り、必殺を期した右の拳を海瑠のこめかみに向けて振り下ろす。

 だが拳が触れたと思われた瞬間ボブは右耳に激痛を感じ、自らの拳の勢いのまま地面に倒れ込んだ。立ち上がろうと地面に手を突くが、天地が逆になったような感覚に襲われ再び床にへばりつく。

 ボブはぐるぐると回る視界の端に海留の姿を認め、そちらに顔を向ける。何をされたのか理解できない様子だ。

 実際にはボブの右拳に打ち抜かれる間際で海留は体を反らしてかわし、その瞬間ガラ空きになったボブの右耳に左手の中指を刺し込んで三半規管を破壊したのだ。下段蹴りを受けて体をよろめかせたのも、絶好のタイミングで右の拳をボブに撃ち込ませるための撒き餌だった

 ボブは歯を食いしばり、片膝立ちで地面を捉えることに集中した。海留は追撃するでもなく、ただ全身を震わせながら立ち上がるボブの姿を無表情に見つめていた。

「俺は――浮沈鑑と呼ばれた男だ――」

 うわごとのように呟きながらボブは海留に向き直り、震える両腕を上げてファイティングポーズを取った。だがその視線は定まらず、すでに制止している海留すら捉えることができていない。

「尊敬するぜ。あんたのそういうとこ」

 海留は右腕を引きながら腰を落とす。鉤状に曲げた中指を突き出す中高一本拳――初手でボブの左手を破壊した凶拳に握り固め、影を残すほどの速さでボブに向かって踏み込んだ。

 海留の拳が両腕の隙間をかいくぐり、眉間へと打ち込まれる。その巨体を大きく後ろに仰け反らせ、ボブは仰向けに倒れこんだ。ボブは一度だけ大きく体を反らせた後、ゆっくりと空気が抜けていくかのように沈んでいった。

 海瑠はしばらく突きを打ち込んだ姿勢のままボブから視線を外さずにいたが、先ほどまで命が通っていたそれがすでに肉塊と化していることを見て取ると、ため息とともに構えを解いた。

「勝負あり――ですかな」

 海留の背後から現れたのは四、五十代と思しき壮年の男だった。人の良さそうな笑顔を張り付かせ、前に進み出る。後に続くようにして三人のスーツ姿の男がその傍らに立つ。

「では、約束のものをいただきましょうか」

 露骨な舌打ちが闇の中から聞こえ、闇の中から数人の男が姿を現した。中央に立つ小柄な肥満体の男が右隣の男に目で合図を送る。それを受け、中肉中背で眼鏡をかけた男が脇に抱えた分厚い書類封筒と、ポケットから取り出したフラッシュメモリを差し出す。壮年の男の傍らに立っていた男がそれらを受け取り、もう一人がノートパソコンを広げてフラッシュメモリを差し込んだ。

「取り込み中悪いけど、ちょっといいです?」

 海瑠が壮年の男に声をかける。相変わらず人の良い笑顔のままで男は振り向いた。

「どうかしたかね?」

「そこの遺体なんですけど、こっちで引き取らせてもらっていいですか? 出来ればちゃんと弔いたいんで」

 海瑠がボブを指さして言った。

「弔う? そういえばさっきも君はこの男と話をしていたな。知り合いだったのかね?」

「ただのファンです。現役時代の試合は全部見た程度の」

 男が首をかしげる。だがすぐに興味が失せたようにおざなりに頷き、向かいに立つ肥満体の男を振り返る。

「――だそうですが、それでよろしいか?」

 男が鼻を鳴らし、幾重にも重なった顎の肉を震わせる。

「ゴミ掃除を頼めるなら是非もない。ベルトを獲った途端に増長し、暴力沙汰を起こして業界から追われた屑だ。腕が立つことだけが取り柄と思って拾ってやったが、とんだ見込み違いだった」

 流暢な日本語だが独特の癖がある。日本人ではない。

「――そうですか。それじゃ失礼して」

 海瑠が右手を上げると、突如周囲の空間が狭まった。そう見えたのは黒いスーツを着た何人もの男たちが一糸乱れぬ動きで闇から現れ、倒れている遺体へと歩み寄ったためだ。

 男たちが遺体を黒い遺体袋に慣れた手つきで収納していくのをじっと見つめていた海瑠の側に、いつの間にか一人の男が立っていた。白髪混じりの髪を整え、口髭をはやした初老の男で、右腕に先ほど海瑠が脱ぎ捨てたジャケットを掛けていた。初老の男は手にしていたジャケットを両手で広げ、海瑠に微笑みを向けた。

「お見事でした。当主」

「ありがとう、海堂さん」

 海堂も笑顔を浮かべてジャケットに袖を通した。

「本当にたいした手並みだ。あの相手を問題にもせず、無傷で倒してしまうとは。いや感服したよ」

「一手違えていれば殺されてたのは俺だった。あんたが思ってるよりずっと際どい勝負だったよ」

 海瑠は振り返りもせずそう言うと、海堂を背後に従え闇の中へと姿を消した。黒づくめの男たちもその後に続く。


「気味の悪い連中ですね」

 三十代ごろと思われる痩せた男がぼそりと呟く。顔が青ざめているのは照明の頼りなさ故ではない。

「ああ、君はこういう場に慣れていなかったな。黒犬どもを見るのも今日が初めてか」

「黒犬?」

「古くからこの国の統制機関に仕えてきた暗部の一つだ。大っぴらには処理できない揉め事や面倒を片付ける掃除屋どもで、代々重用されてきたらしい。聞くところによると大政奉還前の徳川幕府の頃からその原型はあったそうだ」

「そんな馬鹿な――」

「まぁ連中の過去などはどうでもいい。それよりもっと突飛な話もある。なんでも連中の祖先は天狗だかなんだかって噂まである」

「て、天狗ですか?」

 若い男が声を上擦らせるのを見て、壮年の男はくくっと笑った。

「ただの与太話だよ。だが当主である獅童家――さっきの若造の家はその与太話を信じているらしくてな。代々その血を引き継ぐために色々おぞましいことも――」

「部長、データの確認と裏取り終了しました。問題ありません」

 ノートパソコンを操作していた男が顔を上げた。部長と呼ばれた壮年の男は言葉を切り、満足げに頷いた。

「よし、引き上げるぞ。いつまでもこんなカビ臭いところにいられんからな」

 笑いながら煙草を咥える上司を横目に、痩せた男は海瑠が姿を消した暗闇を振り返る。与太話と一笑に付した上司に男は同意しかねていた。先ほど目にした美しさと鬼神のごとき強さ兼ね備えた若者には、むしろそうした現実離れした逸話こそがふさわしいと感じたからだ。

 


 *



 眠っている時に声をかけられるのはいつ以来だろうか。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ぼやけた視界に人影が映り込む。

「こんなとこで寝てたら風邪引くよ」

 目をこすりながらゆっくりと上体を起こす。髪を明るく染めた女が覗き込んでいた。

「ん、あぁ――」

 寝ボケた声が漏れる。女が口元をおさえて小さく吹き出した。

「もうお昼だよ。お仕事の帰り?」

 改めて女を見る。派手な服装と化粧をした、神社の境内には不似合いな女だ。ブルブルと首を横に振る。女はふーんと曖昧に頷き、持っていたハンドバッグの中を探り始めた。

「あげる。お店でもらったの」

 手渡されたのはオレンジジュースの缶だった。寝起きで口の中が乾いていたのでありがたい。受け取って一息に飲み干した。潤う。

「――ありがとう。君はここらへんに勤めてるの?」

 言いながら髪に手をあて、寝癖がついていないか確かめる。

「うん。歌舞伎町にアンジェリカってクラブあるの知ってる?」

「いや。俺ここにはたまたま立ち寄っただけでさ、あんまり詳しくないんだ」

「そうなんだ。旅行?」

「ん? まあそんなとこかな」

 曖昧に頷きながら周りを見渡す。寂れた小さな神社の境内だ。車や電車の音が聞こえてはくるものの、ここだけは都会の中にあって切り取られたように人気が少ない。

「このベンチに座ってさ、空を見てたんだ。そしたらいつの間にか寝てたみたいだ」

 見上げると空は雲ひとつ無く晴れ渡っていた。冬場の空は特に透き通って見える。空の上まで見透せそうだ。

「君って変わってるね。今時いないよそんな人」

 女はそう言って小さく笑った。

 化粧のせいで気づかなかったが若い。顔立ちはまだ少女と言って差し支えないほどにあどけなさを残していた。笑顔に違和感をおぼえるのはどうしてだろう。

「そういう君も変わってるよ。こんな所で寝てる変な奴に声掛けようなんて思わないだろ普通」

 何気なく言ったのだが、女から笑顔が消えた。エクステした睫毛で縁取られた瞳が陰る。

「――そういえばそうだね。どうしてだろ」

「おーいさゆりっち。お待たせぇ」

 声がした方を振り返る。境内の入り口に立つ鳥居の下で小さな女の子が手を振っていた。

「もう行かなきゃ。それじゃあね」

 女が鳥居をくぐって姿を消すと、再び神社に静寂が戻った。大きなあくびをしてベンチから立ち上がる。スポーツバッグを肩に担ぎ、神社を後にした。

「あのオレンジジュースうまかったな――どこで買えるんだろう」

 道すがら自販機をチェックするがどこにもない。缶は神社のゴミ箱に捨ててしまったので商品名も覚えていない。

 冷たい風が吹いたのでブルゾンのジッパーを上げた。晴れた冬の空は好きだが、冷え込むのだけが困りものだ。




 革張りの豪奢なソファに腰掛け、海瑠は分厚い本のページをパラパラとめくっていた。時折ソファの前にある黒檀のテーブルに置かれたグラスの酒で口を湿らせ、目だけを動かしてページにちりばめられた文字を追っていく。

 獅童家にある私室は書斎も兼ねていて、両側の壁に並んだ書棚にはこれまで海瑠が読んだ膨大な数の蔵書が整然と並んでいる。ジャンルはバラバラで、国内、海外の文学作品から医学、薬学書。画集や軍事関連の書籍など多岐にわたっていた。

「ん――」

 海瑠の右膝を枕にしていた少女が、小さく声を上げて体を丸めた。海瑠が本に向けていた視線を少女に移し、ふっと小さく微笑んだ。

 緩やかにウェーブのかかった黒髪を背中まで伸ばした、まるで人形のように顔立ちの整った美しさは儚げですらある。肌は白く透き通っていたが唇は朱を引いたように赤く、それが彼女にどこか蠱惑的な魅力を与えている。

 海瑠は右手を伸ばしてタオルケットを少女の体にかけなおし、再び本に視線を戻す。

「海瑠様。失礼してよろしいですか?」

 正面にあるドアが小さくノックされ、抑え気味な海堂の声が聞こえた。

「どうぞ」

 海瑠が応じるとドアが静かに開かれ、海堂が軽く一礼してから部屋に入ってきた。海瑠はテーブルの向かいに置いてある来客用の椅子を手で勧め、少女の肩を軽く揺すって呼びかける。

「七海、起きろ」

 少女はゆっくりと瞼を開け、まだ眠そうな顔で海瑠を見上げる。

「海堂さんと話があるからお前はもう自分の部屋に戻って寝ろ」

「やだ――海瑠といたいの」

 七海と呼ばれた少女は即答して海瑠の服の裾をつかむ。愛らしい仕草に海瑠は思わず口元を緩めかけたが、海堂の手前ぐっとこらえて表情を引き締める。

「七海。言うこと聞け」

 海瑠が口調を強めると、七海は海瑠の膝に顔を擦りつけてからゆっくりとソファから体を起こした。そのままの姿勢で体を伸ばし、海瑠の耳元でそっと囁く。

「お話終わったら部屋に来てね。約束」

「――わかった。約束だ」

 海瑠は七海に唇が触れ合う程度の軽い口づけをして肩を優しく叩く。七海は満面の笑顔でソファから立ち上がる。

「それじゃ海瑠おやすみ。海堂さんもおやすみなさい」

「はい。おやすみなさいませ、七海様」

 七海は海堂にペコリと頭を下げ、ペタペタと足音を立てながら部屋から出ていった。海瑠は姿勢を正し、海堂にバツの悪そうな顔を向ける。

「すいません。困った奴です――」

「お気になさらず」

 海堂は優しい微笑みを浮かべ、手元のカバンから書類を取り出しはじめた。海瑠はテーブルの端に並んだグラスを一つ取り、氷の塊を落としてから酒を注いで海堂の前に置く。

「頂戴します。先日の賭け試合――いえ、代打ちにより得られた物証により、例の事件の裏が取れたようです。令状が下り次第、黒野議員の身柄は警察組織で確保すると」

「じゃあ俺達がそいつと通じていた地下組織のほうを叩けば晴れて解決ってわけだ。そっちの方は?」

「童龍寺組です。粛清対象は会長である佐々岡龍二」

「佐々岡――関東一円をまとめる大物か。表沙汰にはできないなぁ」

 海瑠が手にしたグラスの氷がカランと音を立てる。空になったグラスに酒を注ぎ直し、海堂が差し出した書類に目を通す。

「どうせ法に照らしたところで部下を身代りにされて終わりだ。蛇を殺すなら頭を潰すのが早いってことか」

 海瑠はしばらくおざなりに書類をめくっていたが、海堂が視線を向けていることに気づいて顔を上げた。

「なんですか?」

「いえ――七海様のことです。やはりお役目についてはこれからも黙っておられるのですか?」

「はい。あいつには普通に、幸せに生きてほしい。獅童家の――いや、俺の血生臭い部分なんて出来ることなら知ってほしくはない」

 海堂は何か言おうとしたようだが、思い直したように頭を下げた。

「申し訳ありません。差し出がましいことを――」

「とんでもない。海堂さんのそういうとこ、本当に感謝してますよ」

 なんとなく沈みかけた空気を感じ、海瑠はグラスを一息に空けて立ち上がった。

「とにかく標的も確定したわけだし、パパッと終わらせよう。状況が整い次第俺が出向きます。黒犬の実動部隊も常に一定数動けるようにしといてください」

「かしこまりました。しかし海瑠様がわざわざ動かれずとも、我らだけで充分に事足りますが――」

「いや、俺がやります。俺は常に俺自身を磨き抜いておきたい。稽古は到底実戦には及びませんから」

 海瑠の目が刃のような光を放つのを見て、海堂は頷く。グラスを同じく一息で飲み干して立ち上がった。

「それでは失礼いたします。情報が入り次第、即座にご連絡を」

「お願いします。おやすみ、海堂さん」

「おやすみなさいませ」

 うやうやしく頭を下げ、海堂は部屋を後にした。海瑠は大きく伸びをして先ほどまで読んでいた本に栞を挟み、書棚に戻した。

「なにしろ俺は失いたくないからな。――お前と違って」

 瞳に剣呑な輝きを宿したまま、静かに海瑠はひとりごちた。





 新宿歌舞伎町と書かれたゲートはこの街の顔の一つと言えるだろう。テレビや雑誌でよく見る場所だが、実際にくぐるのは初めての事だった。

 日が落ち、夜の帳が下りてからこの街は光に満ちる。雑多な通りを行きながらふと顔を上げるが、ギラつくネオンのためにここでは星すら見えない。空を見るには向かない所だ。

 声をかけてくる呼び込みを手で追い払いながら通りに並ぶ看板を順々に見回していく。目的の店は通りの真ん中辺りにあった。英字でアンジェリカと書かれた鮮やかなネオンボードが輝いている。暗い階段を降り、地下にある木製の分厚い扉を押し開く。

「ようおいでくださいました。ほら皆お客様がおいでやで」

 入ってすぐのところに立っていた着物姿のふっくらした女性が優しい笑顔を向けてくる。体型にも笑顔にも丸みがある。続いて店の奥から現れた五人の女が自分を取り囲むようにして一斉にお辞儀をした。

「いらっしゃいませーアンジェリカにようこそ」

 綺麗に声がハモる。全員体のラインがくっきりわかるドレスを身に着けている。この店の制服なのだろう。ざっと顔を見るがこの間会った女はいなかった。

 着物のオバさん――ママさんと呼ぶべきか。ママさんが前に進み出て改めて深々と頭を下げた。

「それでお兄さん、どの子をおつけしたらよろしいです?それとも別にご指名とかありますか?」

 このママさんは関西圏の出なのだろうか。ゆるい関西弁がよく似合う。

「えっと、さゆりさんって今日いるかな?」

「さゆりちゃん? ああ、麗奈ちゃんやね。ええ、ええ、おりますよ」

「れいな?」

 首を傾げたが、源氏名という奴だろう。こういう店のスタッフはその名で呼ぶのがルールだと聞いたことがある。小百合というのは本名かもしれない。

「ねえママ、麗菜ちゃん今接客中だよ」

 長い髪をロールアップにした女がママさんの袖を引いて言った。

「まあそやったねえ。どないしますお兄さん? 麗奈ちゃんご指名やとあと15分くらい待ってもらう形になってしまいますけど」

「それで構わないです」

「ほなお席にご案内させて頂きますぅ。悠里ちゃんと愛佳ちゃん、しばらくお客様のお相手お願いね」

「はーい」

「えー、ズルーい二人共。私もこの人とお話したいよ」

 名を呼ばれた以外の女が騒ぎ出す。少し冷めた目で様子を見ているとママさんが手を打ち鳴らした。

「これこれお客様の前ではしたない。ほら新しいお客様来られたよ」

 ママさんの言うとおり、扉が開いてサラリーマン風の男が二人現れる。それを合図に他の女は一斉にそちらへと回った。

「それじゃお席ご案内しますね。私のことは悠里って呼んでください」

 悠里が笑顔で小さくお辞儀した。明るく染めた髪をロールアップにした目鼻立ちのはっきりした女だ。

「アタシ愛佳です。こちらにどうぞー」

 愛佳と名乗った女は背が低く、幼い感じの顔立ちをしている。少しだけ茶色に染めた髪を二つ結びにしている。

 愛佳に案内された三人掛けのソファーに腰を下ろすと、両側に悠里と愛佳がそれぞれ座ってきた。

「じゃあ最初のドリンクどうしますか? うちカクテルもたくさん種類あるんですよ」

「オレンジジュースある?」

 そう言うと、悠里が少し困惑した顔を浮かべる。

「え? ありますけどぉ、お酒飲まないんですか?」

「ああ、苦手なんだ」

「わかりました。少しお待ちください」

 そう言って眼の前に置かれたテーブル上のベルを手に取り、ガラガラと鳴らした。給仕の格好をした若い男が現れ、悠里から注文を受ける。

「ねえねえ、お兄さんてひょっとしてこの間神社で麗奈ちゃんと話してた?」

 左肩にもたれていた愛佳が上目遣いに見上げてくる。麗奈というのが彼女の店での名で、小百合というのが本名なのか。

「ん、ひょっとしてあの時彼女を呼んだのって――」

「うん、わたしだよー」

 へぇ、と気の抜けた声を返す。

「あの時チラッとしか見えなかったけど、かっこいいなーって思ったの。また会えて嬉しいな」

 愛佳が左腕に強く抱きついてくる。初対面に近いというのにえらく気安い娘だ。

「ねえ、お酒飲めないのにうちにきたってことはさ、やっぱり麗菜ちゃんがお目当てだったの?」

 注文を終え、右隣に腰掛けた悠里が尋ねてくる。落ち着いた口調で、顔立ちも聡明さを感じさせる。こちらの方が話しやすそうだと感じた。

「まあ――そうかな」

「ふぅん。ちなみに彼女の事どこで知ったの?」

 悠里の瞳にかすかだが猜疑の色が混じっている気がした。別に隠すことはないので正直に話す。

「この間神社の境内でたまたま会っただけだよ。その時に少し話をして別れたんだ」

「いいなぁ麗菜ちゃん。私もあの時お店に携帯取りに行ってなかったらお話できたのに」

「愛佳が麗菜のこと待たせなかったら神社なんて寄らないでしょ。どのみち会えなかったじゃない」

 悠里が呆れたように笑った。

 その時、先程のボーイがトレーを片手に戻ってきた。一礼し、注文のグラスをテーブルに置いていく。

「じゃあ乾杯しよー! お兄さんもグラス持ってね」

 愛佳が音頭をとり、3人でグラスを合わせる。二人のグラスにはそれぞれ鮮やかな色のカクテルが注がれている。運ばれてきたオレンジジュースを口に含むが、どこにでもある普通のオレンジジュースと変わらない。どうやら当ては外れたようだ。

 そうして少しの間二人と他愛ない会話を続けた。内容に関してはまったく記憶に残らなかったが二人共楽しそうにしているし、そこそこ会話は弾んだのだろう。

「あれ? 君確かこの間の――」

 顔を上げると、テーブルの前に小百合が立っていた。いや、ここでは麗奈と呼ぶべきなのか。

「麗奈ちゃんお疲れ様。もうさっきのお客さんはいいの?」

「うん、二人共ありがとう。変わらせてもらうね」

「はーい、それじゃまたね。ほら愛佳も」

「えー、私まだこの人とお話したい」

「わがまま言わないの。ほら行くよ」

 悠里に窘められ、渋々といった様子で愛佳が腕を離す。腕を引かれながら愛佳が何度も振り返り、手を振ってくる。曖昧に手を振り、麗奈へと向き直った。

「愛佳に気に入られたみたいね。あの子可愛いからリピーター凄いんだよ。悠里ちゃんも綺麗でしょ」

 麗菜はそう言って笑った。さっきの二人の顔は既に自分の記憶から消えつつある。顔を覚えるのは苦手だった。

「こないだはありがとな」

「お礼言われることなんてしてないよ。でもまさか来てくれるなんて思わなかった」

 そう言って麗奈は隣に腰を下ろした。近過ぎず遠過ぎずの心地いい距離感が落ち着く。足を組んでソファに深く身を沈めた。

「ここでは麗奈って名前なんだな」

「え? あぁ、そういえばあの時愛佳に名前呼ばれたっけ。そうだよ、小百合が本名で麗奈は源氏名」

 麗奈が柔らかな笑顔を浮かべる。初めて会ったときに既視感を覚えた気がしたが、その笑顔を見て確信した。似ている。

「もしよかったら君の名前も教えてもらっていい?」

 麗奈が窺うような視線を向けてくる。どう答えるべきか――名前を聞かれたときは大体適当に済ませることがほとんどだが、彼女に同じ対応をするべきでない気がした。

「えっと、その――」

 返答に窮していると、麗奈が何かを察したように首を振った。

「あ、いいよ無理に教えてくれなくて。じゃあ――ソラ君って呼んでいい?」

「そら?」

「初めて会ったとき空を見てたでしょ? なんとなくそんな雰囲気だし。どうかな?」

 誰かに拾われ、名前を付けられた野良犬の気分はこんな感じだろうか。なぜか奇妙な喜びが胸にこみ上げた。

「いい名前だな。それで呼んでくれたらいいよ」

「ありがとう。じゃあソラ君、これからよろしくね」

 麗奈が差し出してきた名刺を受取り、ポケットに捻じ込んだ。

「グラス空だよ。なにか頼もうか?」

「あぁ――そういえば、この間くれたオレンジジュースってこの店で使ってるものじゃないんだな。ここならまた飲めるかと思ったんだけど」

 麗奈が目を丸くした。

「まさか、そのためにわざわざ?」

「え? いや、別にそういうわけじゃないけど――」

 返事に困っていると、麗菜が小さく吹き出した。

「やっぱりソラ君って変わってるね。あれはママさんの地元から送られてきた地域限定品なんだって。だからここらへんで探しても見つからないと思うよ」

「あ、そうなのか」

「オレンジジュース好きなの?」

「果物系のジュースはなんでも好きだよ。苦いとか辛いとかが苦手なんだ」

「ふーん。じゃあさ、私のおすすめカクテル飲んでみる?」

「でも酒って苦いだろ? なんかアルコールの匂いも嫌いだし」

「大丈夫大丈夫。お願いしまーす」

 麗奈はベルを勢い良く鳴らし、先ほどと同じボーイに何やら注文している。しばらくしてボーイが赤いカクテルで満たされたトールグラスをテーブルに二つ置いた。

「これ何?」

「レッドアイっていうカクテル。見た目際どいけど美味しいよ」

 少し戸惑う。赤い液体はどうも抵抗があった。だが麗奈が飲んでいるのを見ると少しだけ興味が湧いてくる。恐る恐る口に含むと、以外に爽やかな味が広がった。ほのかな酸味が舌に心地いい。

「これってトマトジュースか?」

「そう。トマトジュースとビールを割ったカクテル。お酒苦手って言ってたしトマトジュースの割合多くしてもらったから。苦いのとか全然ないでしょ?」

「うん。結構好きかも」

「ほんとに? よかった」

 麗奈がうれしそうに笑った。グラスに入っていた酒を一息に飲み干す。

「もう一杯もらっていいか?」

「大丈夫? お酒弱いのに急に飲んだら悪酔いするよ」

 平気だよ、と言ってグラスを置いた。

「わかった。ちょっと待っててね」

 麗奈がボーイに注文を告げる。その後は二人で色々と話をした。無難な内容ばかりだったが楽しいと感じた。

 彼女はほとんど俺の過去についてを聴こうとはせず、また自分のことについてもあまり深くは話そうとしなかった。

「このお店にいる女の子ってみんな綺麗でしょ? 私はいなかったけど、前に雑誌でも取り上げられたことがあるんだって。それでね――」

 麗奈が話すのを聞きながら、三杯目のレッドアイを飲み干した。慣れぬアルコールのせいだろうか。麗奈に対して抱いていた小さな違和感がひどく気になった。

「上手いんだな。笑顔」

「え――?」

「顔は笑ってるけど、目はいつも暗い。初めて会った時も思った。何かを抱え込むことに慣れてしまった人間特有の、闇を閉じ込めた目をしてる」

 麗奈の顔から笑顔が消えた。

 ああ、言わなきゃよかったと後悔した。

「――ごめん、なにか気に障ったかな?」

「いや、責めてるんじゃなくて――違う。こんなこと言うつもりじゃなかったのに」

 頭を掻きむしり、ソファから立ち上がる。

「悪い、今日は帰るよ。言われた通り悪酔いしたみたいだ」

「あ――待って、ソラ君!」

 麗奈が呼び止める声が聞こえたが、振り返らずに店の入り口へと足早に進む。レジの前に立っていたママさんに声をかけ、会計を済ませる。

「あの――なにかお気に障る事でもあらはりましたか?」

 ママさんが心配げに見上げてくる。

「そんなんじゃないです。ちょっと用事思い出して――また来ます」

 軽く手を振り、店を後にした。頬に冷たい風が当たるが、火照った肌にはかえって心地いい。ジーンズのポケットに手を突っ込む。先ほど受け取った麗奈の名刺が指先に触れた。

 街灯の下でそれを取り出すと、彼女の源氏名が漢字とアルファベットで綴られ、その上に携帯の番号と思われる数字がペンで書かれていた。





 海瑠は大きなあくびをしながら背をいっぱいに伸ばす。冬の空気は好きだがやはり寒い。昨夜は七海に付き合わず早くに眠っておくべきだった――そんなことを考えながら、先程から歩いている通りに沿って続く高い土塀をちらりと見やった。

「ヤクザの親分の家ってのは和風じゃないと駄目な決まりでもあるのか?」

 海瑠は呟きながら少し足を速める。特に急ぐ必要もないのだが仕事は早く終わらせるに限る。

 屋敷の正門の前で足を止める。時代劇のセットでありそうな、木造りの立派な門だ。

 さすがに正門は開けられそうにないが、すぐ横にある通用門なら鍵がかかっていなければ入れそうだ。だが期待とは裏腹にしっかりと施錠されている。

「おうコラ。何してんだそこで」

 振り返ると、スーツをだらしなく着崩した強面の男が立っていた。ワイシャツの胸元から覗く派手な彫り物が男の素性を物語っている。

「いや、開かないかなって思って。鍵かかってるけど」

「なんだお前。うちになんか用か?」

「うん。佐々岡会長ってここに住んでるだろ? 用事があって来たんだ」

「は? オヤジに客なんぞ聞いてねえぞ。テメェ一体――」

 海瑠の右拳が男の下顎に打ち込まれる。顎の接合を外された男は膝から崩れ落ち、そのまま昏倒した。

「鍵、鍵と――」

 男を門の傍らに座らせ、スーツの内ポケットを探った。キーケースに入った鍵の束を抜き取り、男の腕と足を綺麗に揃えて座らせる。これなら門の前でうつむいて座り込んでいる変な奴にしか見えない――はずだ。

 海瑠は通用門に鍵の束を順に差し込んでいく。3つ目の鍵であっさりと錠は外れた。

「ありがと」

 聞こえてはいないと知りつつ、海瑠は昏倒している男に礼をいい、腰をかがめて小さな入口から屋敷内へと入る。綺麗に手入れされた日本庭園だ。

 敷石にそって玄関まで進み、引き戸に手をかける。施錠はされておらず、海瑠はお邪魔しますと呟いて中に入った。

 邸内はシンとしており、玄関からは二階へ上がる階段と左右に伸びた通路が見えた。真正面の壁には鹿の首の剥製が掛けられており、無機質な瞳で海瑠を見下ろしている。

 事前に邸内の間取りは頭に入れておいたので、左の通路を進む。掃除の行き届いた廊下を土足で歩くのは気が進まないが、この際しかたない。

 しばらく歩くと庭が見渡せる縁側に出た。獅童家の屋敷に負けず劣らず見事な眺めだ。海瑠が庭を眺めながら歩いていると、曲がり角から人影が現れた。白いスーツをきちっと着込んだ体格のいい男で、人相がえらく悪い。

「どーも」

 海瑠が軽く頭を下げて横を通り過ぎる。

「おう。――ん? おいちょっと待て」

 堂々としていればやり過ごせるかと思ったがそうはいかなかったようだ。右肩を掴んできた男の腕を振り返ると同時に捻りあげ、背中を向けさせる。

「うがっ!? てめぇ――」

 男はそれきり声を上げずに体を痙攣させる。海瑠は男の体から力が抜けきったのを確認してから後頭部のつけ根に刺していた鉄串を抜いた。静かに男の死体を廊下に寝かせて先へと進む。

 やがて長い廊下にも果てが訪れ、ひときわ大きな障子戸が現れる。開けると、広々とした和室が広がっていた。部屋の中央には囲炉裏が設けてあり、湯の沸き立つ茶釜から白い蒸気が立っている。

「ほう、こらえらい色男が来よったのう」

 囲炉裏の向こう側に腰をかけていた恰幅のいい老人が、火箸で炭をくべながら海瑠に剣呑な視線を向けた。その後ろ側には一人の男が手を前で組み合わせて立っている。長い髪を後ろで三つ編みに垂らした痩せた男だ。

「どうも、佐々岡会長。ひょっとして俺のことご存知ですか?」

「知っとるわい――国防の暗部じゃろ」

「まぁ、会長くらいの人間なら政府の要職とも繋がってますよね。じゃあ俺がここに来るのわざわざ待っててくれたんですか? 恐縮です」

「白々しい事抜かすな。ワシがこの屋敷に居てる日なんぞそう多くないわい。お前らそれくらいのこと調べてきとるんやろ」

 実際その通りである。監視の報告から、この屋敷に目標がいることがわかっていたから海瑠は今日ここへ来たのだ。

「ところで、幾つか聞いてええか?」

「答えられることなら」

「あんたがワシの所に来ることになった決め手じゃ。お天道様に顔向けできんことはやってきたつもりやが、特におとがめなしでここまでのし上がった。なにがお偉方の逆鱗に触れたか、後学のために知っておきたくてのう」

「会長が関わってる犯罪行為は枚挙に暇がないです。ただ人身売買、これがマズかった。最近関東圏で未成年女性の失踪が立て続けに起こっていますが、表向きには家出で片を付けられている。これはあなたが懇意にしていた黒野議員が警察上層部にかけあったためでしょ? 実際には失踪した彼女等はあなたの下部組織と海外マフィアとの間に作られたルートで売りさばかれた。ご丁寧に薬漬けにして」

「証拠はあがっとるんか」

「なければわざわざ俺が寄越されたりしない。それとあなたが関東一円の暴力団組織の長であったこと――これが会長の不幸でした。」

「見せしめっちゅうことかい」

 忌々しげに吐き捨て、佐々岡はチラリと背後に目をやった。背後に立つ男の顔に濃い陰が差す。

「最後に確認しときたいんやが、あんたは一切の法務機関とは繋がりのない人間や。それは間違うとらんか?」

「ええ。仮にここで俺が死んだとして、警察の介入はありません。まぁ俺以外の始末屋が日を改めてお邪魔することにはなるでしょうけど」

 もちろんそうなることはない――海瑠は心の中で呟き、右手の指を人差し指から順に親指で鳴らした。

「なるほど。屋敷内の警戒が薄いと思ったけど、後ろの人がいるからか。知る人間が少なければ少ないほど、後始末は楽ですからね」

「そういうこっちゃ。その点、お前らはどれだけ殺そうと簡単にもみ消しよる。ホンマに性質が悪いのはそっちの方やで」

 海瑠は一度小さく鼻で笑い、全ての表情を消し去った目を佐々岡へと向けた。

「佐々岡竜二会長。獅童の名において、今ここであんたを粛正する」

 人差し指を佐々岡へと向け、静かに冷たく海瑠が宣告した。

「――聞いたとおりじゃパイフー、殺れ! 細切れにして海に沈めたれ」

 佐々岡が腰を上げ、部屋の隅へと下がった。それとほぼ同時にパイフーと呼ばれた男の右腕が跳ね上がる。

 首を傾けて顔を右に逸らす。左耳すれすれを通り過ぎた分銅が背後の土壁に深々とめり込んだ。

「白虎――か。たしか中国のマフィアに重用されてる殺し屋だっけ?」

「俺を知っていたか。なおさら生かしておけんな」

 白虎が口元を歪めた。右の袖口から伸びた細いワイヤーを引いて壁にめり込んだ分銅を手元に戻す。同時に囲炉裏でくすぶっていた炭を灰とともに蹴り上げる。

 海瑠が巻き上げられた灰を右手で払いのける。立ちこめた白いヴェールの向こう側で白虎が再び右手にもった分銅を振りかぶった。

「ぐおっ――!?」

 苦悶の呻きをあげ、白虎は手にしていた分銅を取り落とす。右手の甲に深々と針が突き立っている。

「き、貴様いつの間に!?」

「貫――かんぬき――っていう飛針だ。俺はホチって呼んでる」

 海瑠はジャケットの襟をめくり、裏に仕込んだホチをちら見せする。先ほど炭を払いのけるのと同時に左手で抜いていた事に白虎は気づいていなかった。

「目くらましのつもりだったんだろうけど、くらんだのは自分の目だったみたいだな。お気の毒」

「おのれ――!」

 雄叫びをあげながら畳を蹴り、右の足刀蹴りを海瑠の喉元に向けて繰り出した。海瑠は身を捻ってかわしつつ大きく踏み込む。右手を伸びきった蹴り足にあてて持ち上げると、反射的に白虎が軸足を蹴りあげて飛び上がろうとした。一瞬だが白虎の体が完全に地面から離れる。右手が勢いで振りほどかれるよりも早く左手で白虎の顔を掴み、畳に後頭部を叩きつけた。

「うご――」

 白虎が呻きをあげるのと同時に海瑠は左足を首へと振り下ろす。脛骨を踏み砕かれた白虎は一度だけ大きく体を痙攣させ、そのまま動かなくなった。

 海瑠は死体から左足を引きはがし、体についた灰をはたき落としながら部屋の隅へと顔を向けた。

「お待たせしました。なんか言い残すことはありますか?」

 佐々岡の唇は血の気を失い青ざめていた。這うようにして部屋の端へと逃げ、大声をあげる。

「だ、誰か! こいつを殺せ、殺せぇ!」

 佐々岡の叫びに応じるようにして、入り口から黒いスーツを着込んだ数人の男達が姿を現した。一瞬佐々岡の目に浮かんだ安堵の色が、すぐに困惑へと塗りつぶされる。入ってきた男達がすべて部下ではないことを悟ったためだろう。

「無駄です。もう、敷地内にあなたの味方はいない」

 佐々岡に向けて歩みを進める。佐々岡は蒼白になった顔で唾をまき散らしながらわめいた。

「ま、待ってくれ! 金なら払う、いくらでも――」

 右足を軽く上げ、喉へと突き立てる。ぐちゃりという嫌な音と引き換えに、佐々岡の耳障りな声がそれ以上発せられることはなくなった。

「首尾は?」

 革靴のつま先を畳に擦りつけながら海瑠が呟く。入口に控えていた黒スーツの一人が前に進み出た。

「屋敷内にいた構成員は全員無力化しています。あらかじめ人払いは済ませていたようで、一般人はおりませんでした」

 口調に最大の敬意を含ませながら男が報告を済ませる。海瑠は満足げに頷いて男たちを振り返る。

「よし――それじゃあ帰るか。黒犬のみんなもお疲れ様」

「は!」

 男達は同時に深々と頭を下げる。海瑠は肩を軽く回し、大きく伸びをして爽やかな笑顔を浮かべた。

「任務――完了だ」





新宿駅前のターミナルのベンチに腰掛け、道行く人の流れをボーっと眺めていた。駅構内のキオスクで買った紙パックのマンゴージュースをズコズコと音を立てて飲んでいると不意に肩を叩かれる。

「ソラ君! こんなとこで会えるなんて偶然だねー」

 振り返ると、女の子が笑顔を向けていた。コートの下にフリル付きのワンピースを着て、フワフワした髪を後ろで二つに分けて縛っている。背が低く、座っている自分より少し高い程度の背丈しかない。

 首を傾げていると、反応が薄いことを訝しんだのか少女が唇を尖らせた。

「もー、忘れたの? 愛佳だよ。この間アンジェリカで少しだったけどお話したじゃない」

「あ、そういえば。ごめん、雰囲気全然違ったからわからなかった」

 大嘘である。本当は顔も名前も忘れていた。

「えへ、今日はお仕事お休みだからほとんどすっぴんなんだ。変かな?」

「そっちのほうが合ってるよ――小動物っぽくて」

「もー、一言多いよ」

 愛佳はほっぺたを膨らませる。コロコロ表情が変わる娘だ。

「ところでソラって名前、麗奈から聞いたのか?」

「聞いたっていうか聞こえたっていうか。さゆりっちがそう呼んでたの見てたから」

 そう言って愛佳が隣に腰を下ろした。改めて見るが、やはり高校生くらいにしか見えない。

「私お店でも本名使ってるからそのまま呼んで。漢字が少し違って、佳が香るの香なんだ」

「へぇ。でもああいう店で働いてるってことは愛香って二十歳超えてるのか?」

「うん、今年の春にね。今大学生なんだ」

 まったく見えないが本人が言うのだからそうなのだろう。

「ねえ、私今日学校お休みなんだけどソラ君も?」

 自分に休日という概念は無いが詮索されるのも面倒なのでうん、と答える。

「じゃあ一緒にお茶しようよ。友達誰も捕まらなくて暇してたんだ」

 少し悩んだが確かに今はすることもない。いいよ、と言って頷いた。 

「やったあ。じゃあ早く行こ! ここ寒いよー」

 愛香に腕を引かれて重い腰を上げる。側にあったゴミ箱に空の紙パックを投げ入れてから人の流れに沿って通りを進んだ。愛香は左腕にまるでぶら下がるようにして抱きついている。

 駅のすぐ側にあるカフェチェーンの店に入り、窓際の二人がけの席に腰掛けた。

「ねえソラ君ってさ、なんか特別なお仕事やってるの?」

 椅子に腰を下ろして一番に愛香が尋ねてくる。

「いいや。――そもそも特別ってどんな?」

「だってソラって名前本名じゃないでしょ? 凄くかっこいいし、ひょっとして俳優とかモデルさんとかやってるのかなって」

「俺が? ないない、人目に付くのも注目されるのも嫌いだし」

「へー、でもソラ君って不思議な雰囲気あるんだけどな」

 怪訝な顔を向けると、愛佳が慌てて首を横に振った。

「あ、変な意味じゃなくてさ。なんていうかソラ君って品があるんだよね。お城抜けだした王子様みたいな、そんな感じ」

 どんな感じだ。

「王子様は歌舞伎町のバーに行ったりしないと思うけど」

「アハハ、確かにねー」

 しばらく他愛ない会話が続いた。相槌を打ちながら半分ほど減ったホットココアがカップの縁から溢れないよう、なるべくギリギリの高さになるまで揺らす。意味はなく、癖のようなものだ。

「ねえ、この間お店に来た時ってやっぱりさゆりっちに会いに来たの?」

 カップの縁からココアが溢れ、取っ手を持つ指先を少しだけ濡らす。

「最初に会ったときにオレンジジュースもらってさ、どこで売ってるか知りたかったんだ。結局わからなかったけど」

 嘘をつく必要もないので、麗奈と出会ってから店を訪ねるまでの経緯を簡単に説明した。今考えれば馬鹿馬鹿しい理由だ。きっと笑うだろう――そう思った。

「じゃあ――もしもさ、その時声をかけたのがアタシだったら、同じように会いに来てくれた?」

 テーブルの上で両手の指を絡めながら、愛香が上目遣いに見上げてくる。初めて見る真剣な眼差しだった。そうだよとでも答えればよかったのだろう。それでこの話題は終わるはずだった。

「――いや、そうじゃない。俺はただ、本当に彼女に会いたかっただけだ」

 愛香に言ったわけではない。思いが口をついて出たといったほうが正しい。

「あのさ、こんな事言いたくないんだけど。さゆりっちはやめたほうがいいと思う」

 視線を上げると、愛香は目をそらすようにうつむいた。

「さゆりっちね、十七の時にお父さんが事業で失敗して蒸発しちゃったの。それが原因で家族がバラバラになって、さゆりっちも借金取りに付きまとわれてた時期があったの」

 しどろもどろになりながら愛香が言葉を紡いでいく。話の内容はさして興味を惹かれない。むしろこの娘はなぜこんなことを話すのだろう。友達ではないのか?

「それでね、さゆりっちのこと今でも探してる奴がいて、その人時々お店の近くでも見かけるの。それに――」

 ショーウィンドウ越しに通りへと視線を向ける。その後も愛香は何か言っていたが、それらは耳には入って来なかった。

 麗奈、いや小百合の顔を思い浮かべる。他人の顔を覚えるのは苦手だが、何故か彼女の顔はすぐに浮かんだ。自分が今まで生きてきた中で、名前とともにすぐ思い出せる顔などいくつもない。

「俺も、十七だったな」

「え?」

愛佳が目を丸くした。話の途中だったようだが構わず続けた。

「俺の人生で一番大きな出来事も十七の時だった。とは言ってもそれは俺が自分で決めてやった事だから小百合とは状況が違うんだけど。もうあれから五年も経つのか」

 カップの底に残っていたココアを飲み干し、立ち上がる。

「あいつも違う意味で難しくて、急な人生だったんだな。それでもあいつは笑顔を作れるのか」

「え? 何、どういう事?」

 愛香が困惑した表情で見上げてくる。

「なんでもない。俺用事思い出したから行くよ。じゃあな」

 唇の端を持ち上げて笑顔を繕い、愛香に背を向けた。返却口にカップを置いて振り返らずにそのまま店を後にする。

 小百合が何故自分に声をかけたか今ならなんとなくわかる気がする。彼女を放置すればきっと自分にとって大きな後悔の種になるという予感があった。他人の事情に踏み入る行為は嫌いだが、後悔するのはもっと嫌いだ。

 交差点の信号待ちをしている間、顔を上げて空を見上げる。灰色の雲で覆われていて、なんだか今にも泣き出しそうな空模様だ。


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