神様が取り違えた第三王子(AI執筆)
いただいた設定の魅力は、善良な少年が努力によって愛される王子になる王道の爽快感と、その奇跡が実は令嬢の執念によって用意されたものだったという、ほの暗い真相の落差にあります。少年視点では心温まる成長譚、令嬢視点では静かな狂気を帯びた恋物語になるよう、一つの短編として仕上げました。
by Copilot
殴られる、と思った。
振り上げられた男の腕を見て、少年は反射的に頭を抱えた。
今日手に入れた固いパンを渡せと言われたのだ。半分なら、と答えたのがいけなかったらしい。全部寄越せと怒鳴られ、それでも断った。
裏路地の奥には、腹を空かせた小さな子どもたちがいる。
自分よりも幼いあの子たちに、どうしても食べさせてやりたかった。
だから少年は、歯を食いしばった。
殴られるのには慣れている。痛いのも、寒いのも、空腹も、とうの昔に慣れていた。
けれど、いつまで待っても拳は落ちてこなかった。
代わりに、どこか甘い花の香りがした。
誰かが自分の身体を支える。
遠くで女の声が聞こえた。
「必ず、幸せにするから」
その言葉を最後に、少年の意識は暗闇へ沈んだ。
◇
「殿下!」
頬に柔らかなものが触れていた。
こんな感触を、少年は知らなかった。
春先の苔よりも柔らかく、日に干した藁よりも温かい。身じろぎするたびに身体が沈み込み、白く清潔な布から、ほのかな香草の匂いが漂ってくる。
恐る恐る目を開くと、見知らぬ天井があった。
天井は高く、繊細な彫刻が施されていた。金色の装飾まである。
近くには数人の大人が立っていた。
白い服を着た老人。上等な服を着た壮年の男。目元に涙を浮かべた女。そして、揃いの服を着た使用人らしき者たち。
少年が目を開けた瞬間、女が両手を胸の前で組んだ。
「殿下が目を覚まされたわ!」
「医師を! それから陛下と王妃殿下にお知らせしろ!」
部屋に慌ただしい足音が響く。
少年は何度も瞬きをした。
「でん、か?」
声がおかしい。
自分の声よりも少し高く、滑らかだった。
咳き込んでも、喉にいつもの痛みがない。固い床で眠ったあとの身体の軋みもなければ、古傷の疼きもなかった。
「第三王子殿下、ご気分はいかがですか」
医師らしき老人に尋ねられ、少年はますます混乱した。
「人違い、です」
「殿下?」
「僕は王子様じゃありません」
少年は上体を起こした。
薄い寝間着の袖から伸びているのは、自分の腕ではなかった。
自分の腕は木の枝のように細く、傷痕や痣だらけだったはずだ。ところが、今の腕は白く滑らかで、爪の先まできれいに整えられている。
少年は息を呑んだ。
部屋の隅に、大きな鏡があった。
寝台を飛び降り、ふらつきながら鏡へ駆け寄る。
そこに映っていたのは、知らない少年だった。
艶のある赤褐色の髪。白い肌。釣り気味の緑の瞳。まだ幼いながらも、彫刻のように整った顔立ち。
けれど、まったく見覚えがないわけではない。
時折、通りに捨てられていた新聞。そこに、小さな肖像画が載っていた。
国王の第三子。第三王子。
鏡の中にいるのは、その人物だった。
「違う」
少年は青ざめて首を横に振った。
「僕じゃない。これは僕の顔じゃありません。僕は、名前もなくて……南の貧民街にいて……」
背後にいた者たちが痛ましそうな顔をした。
医師が静かに頷く。
「頭を強く打った影響でしょう。記憶がひどく混濁しておいでです」
「違います! 本当に僕は……!」
「ご安心ください、殿下。ゆっくりお休みになれば、きっと記憶も戻りましょう」
誰も信じてくれなかった。
少年は必死に訴えた。
自分には両親がいないこと。名前さえないこと。物心つく前から殴られて育ったこと。死んだ鼠を奪い合うような場所で暮らしていたこと。
しかし、それらはすべて「事故によって生じた偽りの記憶」だと解釈された。
そして少年は、第三王子として暮らすことになった。
◇
最初の食事で、少年は泣いた。
白く柔らかなパン。
湯気を立てる肉のスープ。
香草を添えた魚。
瑞々しい果実。
どれも腐っていない。砂もついていない。誰かに奪われる心配もない。
「これは、全部食べていいのですか」
給仕をしていた侍女は、一瞬だけ目を見開いた。
「もちろんでございます、殿下」
「誰かの分を盗んだりしていませんか」
「そのようなことは決して」
「明日も、ご飯はありますか」
侍女は答えなかった。
ただ顔を背け、肩を震わせた。
少年は料理を少しずつ口へ運んだ。
すぐに飲み込むのはもったいなかった。一口ごとに噛みしめ、味わい、最後には皿を磨いたようにきれいにした。
「ありがとうございます。とてもおいしかったです」
そう告げると、料理人たちが泣き出した。
少年には、なぜ彼らが泣くのかわからなかった。
それまでの第三王子は、料理が気に入らなければ皿ごと床に投げ捨てていた。一口も食べずに作り直させることも珍しくなかった。
そんなことを少年が知ったのは、もう少し後のことだった。
王子としての生活には、食事以外にも驚くことが多かった。
毎日湯を使える。清潔な服を着られる。雨風をしのげる部屋で眠れる。そして何より、学ぶことが許されていた。
「殿下、今日は文字の復習から始めましょう」
家庭教師が緊張した面持ちで教本を開いた。
以前の第三王子は、授業が気に入らなければ本を投げ、教師を蹴りつけたという。
だが、少年は目を輝かせた。
「文字を教えていただけるのですか」
「は、はい」
「全部覚えてもよろしいのですか」
「もちろんでございます」
「僕が、こんなにたくさんのことを知っても、怒られませんか」
家庭教師は眼鏡の奥で目を瞬かせた。
やがて、教本を持つ手に力を込める。
「怒るものですか。知識とは、殿下の人生を照らす灯火にございます」
灯火。
少年はその言葉を胸に刻んだ。
いつか元の身体へ戻るかもしれない。
再び、あの路地で暮らすことになるかもしれない。
それなら、今のうちに学べる限りのことを学ぼう。
文字を読み、計算を覚えれば、仕事を得られるかもしれない。剣を扱えるようになれば、自分や幼い子どもたちを守れるかもしれない。薬草の知識があれば、病人を助けられるかもしれない。
この身体の本当の持ち主には申し訳ない。
けれど、何もせずに過ごすことだけはしたくなかった。
「先生、お願いします。僕に、できる限りたくさんのことを教えてください」
それから少年は、昼夜を惜しんで学んだ。
歴史。地理。礼儀作法。法律。諸外国の言語。
剣術も馬術も、最初は何度も失敗した。それでも少年は決して癇癪を起こさなかった。剣術指南役に転ばされれば立ち上がり、何が悪かったのか教えを請うた。
「もう一度、お願いします」
「殿下、今日はこれで二十七度目ですぞ」
「次は、もう少しうまくできそうなのです」
指南役は呆れ、やがて豪快に笑った。
「ようございます。ならば日が暮れるまでお付き合いいたしましょう!」
少年は誰に対しても丁寧だった。
朝には侍女たちへ挨拶をし、部屋を整えてもらえば礼を言った。庭師に花の名前を教わり、料理人には食材を無駄にしない方法を尋ねた。
夜警の兵士へ毛布を届けさせたこともある。
「夜は冷えますから」
その一言だけで、屈強な兵士が人目を忍んで泣いた。
第三王子の宮から、怒鳴り声が消えた。
代わりに、笑い声が増えた。
◇
少年が目を覚まして数日後、婚約者が訪ねてきた。
少女は扉の前で、怯えた顔をしていた。
きらきらと輝く金髪。澄み切った青い瞳。上品な水色のドレス。
しかし、少年が目を奪われたのは、その美しさだけではない。
笑おうとしているのに、細い指が震えていた。
自分を見る少女の瞳には、隠しきれない恐怖が宿っている。
少年は慌てて立ち上がった。
「初めまして」
少女が固まった。
正しくは初対面ではないらしい。だが、少年にとっては初対面だった。
「記憶が曖昧で、あなたとのことも覚えていないのです。申し訳ありません」
「……いいえ」
少女は消え入りそうな声で答えた。
少年は何か安心させる言葉を探した。
けれど、上手な言葉など思いつかない。
だから、見たままを口にした。
「とても、きれいですね」
「え?」
「青空と太陽が、地上に降りてきたみたいです」
少女の青い瞳が大きく見開かれた。
少年は、自分が失礼なことを言ってしまったのかと青ざめる。
「す、すみません。おかしなことを……」
「いいえ!」
少女は勢いよく否定した。
その頬は、熟れた林檎のように赤く染まっていた。
「そんなことを言われたのは、生まれて初めてです」
「皆さん、言わないのですか?」
「言いませんわ」
「では、皆さんは目が悪いのですね」
少女はしばらく呆然としたあと、小さく吹き出した。
それは春風に鳴る鈴のような笑い声だった。
少年はほっと胸を撫で下ろす。
茶会が始まると、少年は少女の好みを一つずつ尋ねた。
好きな菓子。好きな花。好きな物語。
少女が桃のタルトを好んでいると知れば、自分の皿から一つ分けた。
「殿下の分がなくなってしまいます」
「僕はほかにもたくさんいただきましたから。それに、あなたが嬉しそうに食べると、僕まで嬉しくなります」
少女は、また頬を赤くした。
その日から、茶会は定期的に開かれるようになった。
◇
第三王子が変わった。
その噂は、瞬く間に王宮中へ広がった。
「まるで、人が変わったようだ」
誰かがそう言った。
少年はそのたびに胸を痛めた。
実際に、人が変わっているのだ。
本当の王子は今、どこにいるのだろう。
自分の身体で目を覚ましたのだろうか。あの路地で、空腹に苦しんでいるのだろうか。
それを考えると申し訳なさで眠れなくなる。
けれど、真実を訴えても、もう誰も取り合ってくれなかった。
「お前はまだ、自分が王子ではないと思っているのか」
ある日、第一王子に尋ねられた。
少年は正直に頷いた。
「はい。ですが、この身体でいる間は、王子として恥ずかしくない人間になりたいと思っています」
「なぜだ?」
「僕に食事をくださる方々や、教えてくださる方々に、ご恩を返したいからです。それから、この身体の持ち主がいつか戻ったとき、困らないようにしておきたいのです」
第一王子は顔を歪めた。
急に抱き締められ、少年は目を白黒させた。
「兄上?」
「もういい」
「ですが」
「お前は何も悪くない。だから、そんな顔をするな」
第二王子も少年の頭を乱暴に撫でた。
「それより、兄上と呼べ。お前は俺たちの弟なのだから」
「……では、兄上」
「もう一度」
「兄上」
「うむ」
第二王子は満足そうに頷いた。
それから少年は、二人の兄を見つけるたびに駆け寄るようになった。
「兄上、昨日教えていただいた剣の構えができるようになりました」
「兄上、この問題がわからないのです。お時間のあるときに教えていただけませんか」
「兄上、今日はお二人のために焼き菓子を用意していただきました。一緒に食べませんか」
二人の兄王子は、そんな弟を喜んで可愛がった。
国王と王妃も同じだった。
少年は二人に対して、最初はひどく怯えていた。
国王は大きな男で、声も低い。王妃は美しく、凛としている。
けれど、少年が熱を出せば、王妃は夜通し手を握った。国王は公務の合間を縫い、何度も見舞いへ訪れた。
「どうして、そこまでしてくださるのですか」
少年が熱に浮かされながら尋ねると、王妃は泣きそうな顔で微笑んだ。
「あなたが私の息子だからよ」
「僕が、良い子でなくても?」
「良い子でなくても」
「役に立たなくても?」
「ええ」
「何もできなくなっても?」
「何もできなくても、あなたは私の大切な子です」
少年は、その言葉をすぐには理解できなかった。
けれど、王妃の手は温かかった。
少年は初めて、母と呼べる人の手を握ったまま眠った。
◇
一方、そのころ。
王都の地下牢には、怒号が響いていた。
「出せと言っているだろう! 俺の言うことが聞けないのか!」
粗末な服を着た痩せた少年が、鉄格子を蹴りつけている。
「俺は王子だぞ! お前らなんか全員、首を刎ねてやる!」
囚人の姿をした第三王子は、口から唾を飛ばして喚いていた。
そこへ、一人の少女が現れた。
金髪と青い瞳を持つ、公爵令嬢だった。
看守たちが一礼し、道を開ける。
牢の中の男は、令嬢を認めるなり鉄格子へ飛びついた。
「お前! 何を見てる! 早くここから出せ!」
その顔は、令嬢がよく知る少年のものだった。
かつて彼女が王宮を抜け出し、治安の悪い地域へ迷い込んだ日。
泣きそうになっていた彼女へ、声をかけてくれた少年。
『大丈夫?』
彼は自分も満足に食べていないはずなのに、穏やかに笑っていた。
『迷い込んじゃったの? ここは危ないから、表の通りまで連れていってあげる』
見え隠れする腕には痣があり、手の甲には火傷の痕があった。それでも彼は、令嬢がぬかるみを踏まないよう道を選び、危険な男たちから姿を隠しながら、安全な場所まで案内してくれた。
令嬢は礼として金貨を渡そうとした。
けれど少年は受け取らなかった。
『そんなの、大丈夫だよ』
『でも、あなたに何かお礼をしたいのです』
『君が無事でよかった。それで十分だよ』
令嬢は、その瞬間に恋をした。
しかし、自分は公爵令嬢。
彼は名すら持たない孤児。
しかも令嬢には、幼いころから定められた婚約者がいた。
第三王子。
横暴で、怠惰で、残酷な少年。
初めて顔を合わせた日、第三王子は令嬢を見て鼻で笑った。
『ありきたりな見た目で、つまらない女だな!』
そして、こう続けた。
『お前みたいなのが俺と結婚できることを、光栄に思え!』
それ以降も、茶会のたびに罵られた。
わざと紅茶をかけられた。足を引っかけられ、転ばされた。贈り物を目の前で踏み潰されたこともある。
王家も公爵家も、すでに第三王子を持て余していた。
だから令嬢は、両親にすべてを打ち明けた。
貧民街で出会った少年のこと。
彼と結婚したいこと。
そして、王宮魔導士から聞いた、禁じられた魔術のことを。
魂を入れ替える魔術。
王家は少年の素行を徹底的に調べた。
調査書には、こう記されていた。
両親はおらず、正式な名前もない。
両親が生きていたころは、「おい」「役立たず」「穀潰し」などと呼ばれていた。
生まれ育った環境からは考えられないほど信心深く、善良。
ようやく得た食料も、より幼い孤児や病人へ与えてしまう。
そのため、年齢に比して生育状態が著しく悪い。
読み書きはできないが理解力が高く、他者への配慮にも優れている。
対する第三王子の素行記録には、長大な罪状が並んでいた。
使用人への暴行。商人への恐喝。動物への虐待。兄弟への害意。そして、改善の兆しは一切なし。
国王は、調査書を長い間見つめたあと、震える声で言った。
『神が取り違えたのかもしれぬ』
王妃は顔を覆って泣いた。
『あの子が、私たちの息子として生まれてくれていたら』
やがて、王家は魔術の使用を許可した。
少年は、王都で雇われたならず者に襲われたと思っただろう。
けれど実際には、王宮魔導士が彼の身体を抱き留めていた。
成功の保証はなかった。
失敗すれば、二人とも命を落とす危険があった。
それでも魔術は成功した。
善良な少年は、第三王子の身体で目を覚ました。
そして第三王子は、名もなき孤児の身体で目を覚ました。
「俺は王子だぞ!」
牢の中から、かつての王子が叫ぶ。
「お前みたいな女、俺が娶らなきゃ誰も娶ってくれねえんだぞ! わかったら早く出せ、この鈍間! 役立たず! ブス!」
公爵令嬢は眉をひそめた。
大好きだった少年の顔で、そのような醜い言葉を吐いてほしくなかった。
姿形が同じでも、中にある魂が違えば、まるで別人だった。
「あなたのお名前は、何でしたかしら」
「あ?」
「調査書によれば、名前はなかったそうですね」
「何をわけのわからないことを言っている! 俺には王家から授かった立派な名前がある!」
令嬢は静かに微笑んだ。
「その名前は、第三王子殿下のものです。あなたのものではありません」
男が鉄格子を揺さぶった。
「返せ! 俺の身体を返せ!」
「今の殿下は、毎日欠かさず勉強をされています。剣術にも励み、使用人を労り、国民の暮らしについて真剣に考えておいでです」
「そんなもの、俺の身体が優れているからだ!」
「国王陛下も王妃殿下も、今のあの方を心から愛していらっしゃいます。二人の王子殿下も、可愛い弟ができたと喜んでおられますわ」
「黙れ!」
「以前のあなたを惜しむ者は、誰一人としておりません」
男の顔が歪んだ。
少年の清廉な面影が、醜悪な怒りに塗り潰される。
公爵令嬢は、静かに目を伏せた。
「王家より、近々処分が下るそうです」
そう看守へ告げると、令嬢は牢に背を向けた。
「ようやく、静かになりますね」
背後で、男が喚き続けていた。
けれど令嬢は、もう振り返らなかった。
◇
午後には、定例の茶会がある。
以前は、日が近づくたびに眠れなくなるほど憂鬱だった。
今では、毎日でも会いたいほど楽しみな時間だ。
庭園へ向かうと、第三王子が令嬢を待っていた。
令嬢に気づいた彼は立ち上がり、花がほころぶように笑った。
「今日も、とびきり可愛いですね」
彼は毎回、本当に初めて恋をしたかのような目で令嬢を見る。
「あなたを見るたび、また恋に落ちてしまいます。あなたが婚約者だなんて、僕はとても幸せです」
「殿下は、いつも同じようなことをおっしゃいますね」
「すみません。嫌でしたか?」
「いいえ。何度でもおっしゃってくださいませ」
令嬢が微笑むと、彼も安心したように笑った。
卓上には、桃のタルトが並んでいた。
第三王子は当然のように、自分の皿から一つを令嬢の皿へ移した。
「僕は一つで満足ですから」
「本当ですの?」
「はい。あなたが嬉しそうに食べてくださるほうが、僕にはご馳走なのです」
今の彼は、以前と同じ顔をしている。
同じ髪。同じ瞳。同じ声。
それなのに、その顔は穏やかに輝いて見えた。
一方、牢にいた男もまた、あの日の少年と同じ顔をしていた。
けれど少しも、愛おしいとは思わなかった。
人を形作るのは血だろうか。
生まれだろうか。
与えられた名前だろうか。
令嬢にとって、その答えはすでに決まっている。
魂だ。
彼女が愛したのは、傷つけられ、飢え、それでも他者を思いやった清らかな魂だった。
「そういえば、殿下」
「はい」
「ご自分は王子ではないと、今でも思っていらっしゃいますか?」
少年は困ったように微笑んだ。
「正直に言えば、今でもわかりません。あの路地で暮らしていた記憶は、あまりにも鮮明ですから」
「そうですか」
「ですが、もし僕が本当に王子でなくても、皆さんからいただいたものに報いたいと思っています」
少年は庭園へ目を向けた。
陽光の下、色とりどりの花が揺れている。
「勉強を教えていただきました。温かい食事も、眠る場所もいただきました。父上と母上、二人の兄上。それに、あなたにも出会えました」
そして、少年は令嬢を真っすぐに見つめた。
「だから、この身体で生きている限り、僕は良い王子になりたいと思います」
令嬢は、胸の奥に満ちる幸福をかみしめた。
「あなたなら、きっとなれますわ」
「そうでしょうか」
「ええ。あなたこそが、私たちの望んだ第三王子殿下ですもの」
それは祝福だった。
同時に、決して真実を明かさないという誓いでもあった。
少年が元の身体へ戻ることはない。
戻すつもりもない。
彼が真相を知れば、優しい彼はきっと自分を責めるだろう。牢にいる男を救おうとさえするかもしれない。
だから、何も知らなくていい。
愛されることを知らなかった少年は、王子として誰よりも愛される。
冷たい床で眠っていた少年は、柔らかな寝台で穏やかな夢を見る。
一切れのパンさえ譲ってしまった少年には、国中の料理人が腕を振るう。
学ぶ機会を与えられなかった少年は、最高の教師たちから知識を授けられる。
それが正しい世界の形なのだと、令嬢は信じている。
「殿下」
「はい」
「私は、今のあなたが大好きです」
少年は目を見開いた。
それから耳まで赤くして、嬉しそうに笑った。
「僕も、あなたが大好きです」
青空から、柔らかな陽光が降り注ぐ。
目の前にいる彼女は、やはり空と太陽が地上へ降りてきたように美しかった。
きっと自分には、この幸福を受け取る資格などない。
少年は今でも、そう思っている。
だからこそ、いつか返さなければならない。
家族へ。
婚約者へ。
自分を受け入れてくれた人々へ。
そして、まだあの路地で震えている子どもたちへ。
「僕は、もっと勉強します」
少年は決意を込めて言った。
「誰も、お腹を空かせなくていい国を作りたいのです」
令嬢は一瞬だけ目を見開き、心から微笑んだ。
「ええ、殿下。私もお手伝いいたします」
かくして第三王子は、後に国史へ名を残すことになる。
貧民救済院を設立し、孤児のための学校を各地に建て、王国から飢え死にする者をなくした賢王として。
彼について記された書物には、必ず同じ逸話が添えられている。
幼いころ、事故で生死の境をさまよった第三王子は、それを境にまるで別人のように変わった。
横暴だった王子は、穏やかで慈悲深い人格者となった。
なぜ彼が変わったのか。
真実を知る者は、決して多くを語らなかった。
ただ、晩年の王妃だけが、ときおり微笑みながらこう語ったという。
「神様がね、間違いに気づいてくださったのよ」
そして王妃は、国中から愛される息子の姿を見つめるのだった。
「本来、私たちのもとへ来るはずだった、あの子を返してくださったの」
執筆上の調整点
孤児の少年が「元に戻ったときのため」に学ぶという動機を強め、善良さだけでなく、現実的な生存本能と向上心が伝わるようにしました。
王族が少年を愛する過程を、食事、勉強、鍛錬、看病、兄弟との交流によって段階的に描いています。
公爵令嬢は単なる悪役ではなく、少年への純粋な恋情と、目的のためなら禁術や処分も受け入れる危うさを併せ持つ人物にしました。
終盤では「姿ではなく魂を愛している」という主題と、少年が将来救済政策へ取り組む展望を結び、読後感に温かさと不穏さの両方が残る構成にしています。
by Copilot




