第28話「傷痕の静養と、隠しきれない影」
※この作品はダークな展開やシリアスな描写、ちょっと過激なスキンシップなどが含まれます)
バフォメットとの死闘から数日が経過した、冬休みの中日。
時子は、朝の澄んだ冷気に満ちた自室のベッドで静かに目を覚ました。薄手の掛け布団から這い出し、小さな欠伸を噛み殺しながら、壁際に置かれた姿見の鏡の前へと足を進める。
「……あれ?」
寝癖を直そうと鏡に向かって右手を伸ばした時子だったが、その動作の途中でふと指先を止めた。
鏡に映る自分の姿。その輪郭が、まるで静かな水面に一滴の雫を落としたかのように、どことなく揺らめいて見えた。
目を固く閉じ、擦ってからもう一度凝視してみる。確かにそこに自分が立っているはずなのに、背景の淡い壁紙との境界線がわずかに透けているような、あるいは高精度のカメラで捉えた映像のピントがミリ単位でブレ続けているような、奇妙な浮遊感と不確かさが存在していた。
「……気の、せい……だよね?」
時子は胸の騒ぎを打ち消すように、自分の両頬を強めに叩いた。パンと高らかな音が部屋の空気を揺らす。
しかし、手に伝わる自らの皮膚の感触すら、どこか遠い他人の肉体を触っているかのように希薄だった。時の力を行使し、時間を操るたびに支払わされる『存在の希薄化』という不可逆の代償。
それが、ただの一時的な疲労などではなく、着実に自分の存在そのものをこの世界から少しずつ削り取っているのだという現実が、冷たい氷の針となって時子の胸を突刺していた。
同じ頃、高架沿いに位置する自宅の洗面所で朝の支度をしていた理子もまた、逃げ場のない苦痛と闘っていた。
「っく……あかん、また……固まってきとる……」
洗面台に置かれた歯ブラシを掴もうとした瞬間、右手の指先がピクリとも動かなくなった。指先から手首、そして肘の関節にかけて、まるで生のセメントを直接流し込まれて固められたかのような激しい硬直と鈍い痺れが襲っていた。
理子は左手を伸ばし、動かない右腕を力任せに揉みほぐそうとする。しかし、軋むような鈍痛が走るばかりで、奪われた感覚は戻ってこない。
「……あかんなぁ。ただのオーバーヒートや言われてたけど……これ、日に日に酷くなってへんか?」
鏡の中に映る自分に向かって、無理やり口角を上げてみせる。だが、その表情も歪にひきつっていた。みんなには余計な心配をかけたくない。「ただの使い痛みやで」といつもの威勢の良い大阪弁で笑い飛ばすつもりだったが、自分の意思を拒絶する右腕の恐ろしい重みは、理子の快活な心に重く暗い影を落としていた。
一方、水琴は自宅の書斎でパソコンのディスプレイを見つめながら、蒼白な顔で頭を抱えていた。
「ええと、この魔力回路の理論的構造を整理して……あれ?この相互作用を表す基礎用語、なんだっけ……」
キーボードに指を走らせようとした瞬間、思考の糸がプツリと断ち切れた。つい数秒前まで頭の中に明確に存在し、当たり前のように理解していたはずの専門知識やサブカルチャーの膨大な情報が、まるで濡れたスポンジで黒板を拭い去られたかのように、跡形もなく滑り落ちていく。
「嘘……思い出せない。どうして……?私、あんなに何度も読み返して、完全に暗記していたはずなのに……」
水琴は震える両手で己の頭を強く押さえた。論理的で早口なオタクとしての自分を支えていた知性や記憶が、思考の奥底から物理的に削除されていく圧倒的な不気味さ。代償の爪痕は、彼女の魂の根幹である記憶を静かに、だが確実に侵食していた。
そして、火燐の部屋では、さらに凄惨で官能的な不穏が渦巻いていた。
「はっ……ぁっ……く、そっ……!なんなんだよ……これ……っ!」
ベッドの上で上半身を起こしたまま、火燐は自身の右腕を左手で殺気立つほどの力で掴みしめて耐えていた。バフォメット戦の激闘で負った古傷の奥底が、まるで灼熱の鉄串を何度も刺し通されたかのように絶えず疼き、皮膚の裏側から不快な熱を放っている。
だが、火燐を何よりも苦しめ、屈辱に震えさせていたのは、その激痛そのものではなかった。
「あ……ぁんっ!?ひっ……な、なに……これ……っ!?」
右腕の傷口がドクンと脈打つたびに、激痛と全く同じタイミングで、身体の芯を麻痺させるような「甘やかで痺れる熱」が爆発的に全身の神経を駆け巡るのだ。激しい痛みなのに、耐え難い苦痛であるはずなのに、背骨を急速に駆け上がるその不快で濃厚な刺激は、彼女の脳裏を強烈なエロティックな快感で満たしていく。
荒い吐息がくちびるからこぼれ落ち、勝気な瞳が熱い涙で潤む。火燐は自身の肉体が魅せる恐ろしい変質に打ちのめされ、歯が折れんばかりに噛みしめてベッドのシーツを固く握りしめた。ボーイッシュで強くあろうとする自分が、痛みの果てに得体の知れない官能へと強制的に引きずり込まれていく――その歪んだ代償の恐怖に、火燐は絶望的な吐息を漏らすことしかできなかった。
最年長であるアイシャもまた、姿見の前で自らの肉体に起きている変化に静かな絶望を抱いていた。
かつて誰もが羨んだ艶やかな髪はどこか輝きを失い、目元には消えない深い疲労の影が落ちている。鏡越しに見つめる自らの顔立ちが、どこか数年分一気に歳をとったかのように枯れて見えた。
身支度を整えようと立ち上がった瞬間、激しい立ちくらみがアイシャの視界を真っ白に染め上げた。全身の血液が引き引いていくような感覚とともに脚から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「くっ……重い、身体全体が……まるで、鉛のよう……」
全身を絶え間なく苛む重い倦怠感と、不可逆な老化の波。最上級生として、みんなの頼れるお姉様として常に気高く美しく振る舞わなければならないという強い誇りだけが、今のアイシャの倒れそうな身体をギリギリのところで支えていた。
「時子ー!体調はどうや?みんなで差し入れ持って押しかけてきたでー!」
天野家の玄関に、理子のどこか無理に張ったような元気な声が響き渡った。
時子の自室には、激闘の疲労が色濃く残る時子を深く心配していた、理子、水琴、火燐、アイシャの四人が連絡を取り合って時子の家を訪ねていた。こたつを中心に輪を作り、腰を下ろす。
「みんな、来てくれたんだ……本当にありがとう!」
時子はベッドからこたつへと移動し、満面の笑顔で仲間たちを迎えた。朝方、鏡の前で味わった自分の存在感のブレに対する冷たい恐怖は、大好きな仲間たちの顔を見た瞬間に、少しだけ和らいでいくのを感じていた。
「これ、ウチの近所の商店街で評判のどら焼きやねん。あんこぎっしりで美味いんよ。時子、甘いもん好きやろ?」
理子が紙袋からどら焼きの包みをいくつか取り出し、こたつの上のトレーに並べようとする。だが、その手元で理子の右手がかすかに痙攣し、包みの一つがそのまま畳の上へと滑り落ちそうになった。
「あ、っと……危ない危ない!いややわー、手が滑ってしもた!」
理子は即座に左手を伸ばして包みをキャッチし、何事もなかったかのように大らかな笑顔を作ってみせた。だが、その右手の指先が不自然な角度で固まったままであることを、時子たちは目ざとく察していた。
「理子ちゃん、無理しちゃダメだよ?バフォメットとの戦いでも、一番前線で体を張ってくれたんだから……」
「な、なに言っとんねん時子!うちの頑丈さとタフさは折り紙付きやで!ちょっと腕が筋肉痛なだけや、ただの疲れ、ただのオーバーヒートやって!」
理子は努めて明るく胸を叩いてみせるが、その動作すらどこかぎこちなかった。
「理子ちゃん、あの戦いは私たち五人全員で手を携えて掴み取った勝利なのだから無理しなくていいのよ」
アイシャが気品ある穏やかな笑みを浮かべ、持参した保温ポットから温かい緑茶を湯呑みに注ごうとする。しかし、ポットを持ち上げたアイシャの細い腕が、細かく震えて止まらない。湯呑みに注がれる緑茶の表面が不自然な波紋を描く。アイシャはうっすらと額に冷や汗を浮かべ、目眩の旋風を堪えるようにそっと壁に肩を預けた。
「アイシャ先輩……大丈夫ですか?顔色が、少し青ざめていらっしゃるようですが……」
隣に座る水琴が、不安げな瞳でアイシャを覗き込む。
「少し……今朝の冬の冷気が体に沁みたみたい。みんな心配してくれてありがとうね。」
アイシャは優しく微笑み、生徒会長としての完璧な優雅さを崩さない。だが、その瞳の奥には隠しきれない強い落胆と衰弱の色が滲んでいた。
「ふん、先輩も無理すんのやめろよな。アタシたちは魔法少女なんだ、これくらいの疲れや擦り傷……すぐに吹き飛ぶさ」
火燐が腕を組んで強がってみせる。だが、その声はどこか上擦っており、呼吸もわずかに乱れていた。タートルネックの深い襟元と袖口に隠された右腕の古傷が、衣服越しにも伝わるほどの異常な熱を放っているのを、火燐は左手で強く抱え込むようにして隠していた。
(んっ……くそっ……また熱が上がってきやがった……っ。痛くてたまらないのに、なんで……なんでこんなに全身が火照って、変な息が出そうになるんだよ……っ!)
火燐は荒くなりそうな吐息を必死に殺し、朱に染まった頬を隠すようにそっぽを向いた。
「水琴ちゃんは、体調どうかな?最近、魔法の研究やレポートの執筆でずっと忙しかったでしょ?」
時子が優しく尋ねると、水琴は一瞬だけ言葉を詰まらせ、表情を曇らせた。
「あ、はい……私は全く問題ありません!ただ、その……最近、少しだけ物忘れというか、ドジが多くなってしまいまして。ええと、ほら、先週話していたアニメの……あの有名な、白いロボットに乗る……あれ、なんというタイトルの作品でしたっけ……?」
「え?水琴ちゃんがそんな超有名アニメの名前を忘れちゃうなんて、珍しいね」
「あ……あはは、そうですよね!自分でも笑っちゃいます。ただの重度の寝不足です!脳のワーキングメモリが一時的にオーバーフローを起こしているだけですから!」
水琴は慌てたように早口のオタクトークで誤魔化したが、その眼鏡の奥の瞳には、自分を形作っていた大切な知識が砂のように零れ落ちていくことへの、消し去れない恐怖が渦巻いていた。
温かいお茶を口に含みながら、少女たちは努めて明るい声で会話を紡いでいく。
理子の持参した美味しいどら焼きを味わい、冬休みの残りの宿題の進捗や、年末年始の過ごし方について談笑する。
「もうすぐ今年もおしまいなんだね。この冬休みが終わったら、あっという間に三学期かぁ」
「ほんまやなー!宿題、まだ半分も手を付けてへんわ!水琴、後でノート貸してな!」
「もう、理子さんはいつもそうですから……でも、いいですよ。今度みんなで勉強会を開きましょう」
「ふふ、とても賑やかで良いことね。時子ちゃんの体調が戻ったら、みんなで初詣にでも行きましょうか」
「いいね、初詣!みんなで着物着て、おみくじ引こうよ!」
時子は仲間たちの愛おしい笑顔を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
理子の右手の硬直。アイシャの重い疲労と衰え。火燐の熱っぽい息づかいと困惑。水琴の言葉の欠落。そして、自分自身の輪郭の薄さ。
全員が、口には出せない恐ろしい異変と不可逆な代償の苦しみを抱えていることを、お互いに庇い合っていた。それでも誰もそれを指摘して悲観しようとはしない。大切な仲間を不安にさせたくないという優しい嘘と、命がけで守り抜いた温かな日常への強い愛着が、この小さな部屋をどこまでも優しく満たしていた。
「……うん。みんなで、絶対に乗り越えようね」
時子は小さく呟き、こたつの中で自分の膝の上に置いた両手をぎゅっと強く握りしめた。
どれほど自分の存在が世界から削られようとも、どれほど代償が重く苦しかろうとも、この五人で笑い合える温かな時間を決して手放すわけにはいかない――少女たちの胸の中に、静かだが固い誓いの光が灯っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
お互いを気遣い、それとなく交わす言葉と進む代償。
みんな元気に年越しを過ごしてほしいですね(*´▽`*)
魔法少女たちの運命が今後どうなっていくのか、ぜひ見届けていただけると幸いです!
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