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『時間を止める大鎚と、消えていく私』クロノ・クロスフィア 〜Invisible pains〜  作者: 猫娘


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第26話「偽りの便りと、薄氷の平穏」

※この作品はダークな展開やシリアスな描写、ちょっと過激なスキンシップなどが含まれます)

 寒風が容赦なく吹き抜ける鳳凰学園の旧校舎裏。


 モノクロームに反転した静寂の世界において、異形のキメラ・コア――バフォメット・コアから解き放たれたドス黒い魔力の波紋が、大気を激しく震わせていた。


 それは空間を伝う物理的な振動にとどまらない。少女たちの肉体を擦り抜け、その精神の奥底へと直接侵入して、もっとも柔らかく脆い心を容赦なく切り裂く悪意の精神攻撃であった。


「くっ……あ、足が……動かへん……っ! なんで……なんでやねん……ッ!」


 理子が両膝を固い地面につき、自分の脚を激しく叩きつけた。


 磁力を操り、誰よりも素早く戦場を駆けるはずの脚が、まるで鉛の塊に変ぜられたかのようにピクリとも動かない。脳裏を支配したのは、魔法少女として契約したことで訪れる「代償」の幻影。自らの身体が自由を完全に失い、全身が不随となって崩れ落ちていく絶望的な錯覚であった。


 動かない足。伸ばしても届かない手。そして、理子の目の前で繰り広げられたのは、最悪の残酷さを誇る惨劇の幻像であった。


「あ……あかん……やめろ……やめてくれぇっ……!」


 理子の視界の中で、動けない自分を庇おうと前に躍り出た時子の華奢な身体を、バフォメットの禍々しい爪が容赦なく貫いていた。鮮血が夜の闇に飛び散り、時子は理子を見つめたまま体が人形のように力なく崩れ落ちる。


「時子ぉぉぉッ……! ウチのせいや……ウチが副作用で動けなくなったせいで……時子が殺されたんや……っ! やめて……頼むから動いてくれよ、ウチの足ぃっ……!」


 自分の無力さが大切な仲間を殺したという罪悪感と絶望の泥沼に、理子は爪が割れるほど地面を掻きむしりながら引きずり込まれていった。


「ぐっ……あぁぁぁっ……! 痛ぇ……熱い……っ! なんだよ、この感情は……っ!」


 火燐が両腕のトンファーをクロスさせて地面に突き立て、背を深く丸めて荒い息を吐き出す。


 火燐の脳髄を襲ったのは、全身の肉を内側から灼き尽くすような激痛と、それと裏表になって全身の痺れを引き起こす、ねっとりとした甘美な快楽の濁流であった。


 激痛に苛まれるほどに、背筋を駆け上がる痺れるような背徳の熱が全身の皮膚を鮮やかに上気させ、呼吸を浅く乱していく。痛みに叫び声をあげたいはずなのに、咽び泣くような甘い吐息が唇から溢れ出し、頭の奥が痺れて戦う意志そのものが蕩けるように麻痺させられていく。


「はっ……ぁ……っ!くそっ……触るな……頭の中に……変な感覚を流し込むな……っ!あっ……んっ……や……やめ……ろ……っ!」


 拒絶しようとすればするほど、見えない粘着質な触手が脳髄と神経を直接撫で回すような錯覚が全身を駆け巡った。不本意にも背中が小さく反り帰り、太腿の奥がキュッと引き攣れるような激しい疼きが襲いかかる。痛みに耐えて強く結んだはずの唇からは、拒みの言葉ではなく、熱く湿った甘い吐息が洩れ出してしまう。意識とは裏腹に、肉体が快楽の痺れに反応して屈服させられていく屈辱と恐怖に、火燐は強い羞恥を覚えた。八重歯を激しく噛み締め、唇から鮮血が伝い落ちるほどの激痛で正気を保とうとするが、精神を蝕む毒は無情に彼女の肉体を淫らに強張らせていく。


「やめて……頭の中に入ってこないで……っ!私の記憶を……毟り取らないで……ッ!」


 佐藤水琴のシャチのアクセントが入った眼鏡が斜めにズレ落ち、紫紺の瞳が焦燥と恐怖に大きく見開かれていた。


 正確無比な状況判断と論理的な戦術眼を誇る彼女の頭脳の中に、ぬめりけのある無慈悲な爪がズブズブと容赦なく強引に割り込んでいた。


 幼い頃に家族と交わしたぬくもりのある記憶、仲間たちと放課後に笑い合った何気ない会話、血の滲むような努力で積み上げてきた知識や経験。自分という人間の輪郭を形作っているかけがえのない記憶の頁が、音を立ててバリバリと強引に引き剥がされ、容赦なく惨らしく毟り取られていく。


(嫌……やめて……! 忘れたくない……! みんなの笑顔を……私が私であるための大切な思い出を……奪わないで……ッ!)


 毟り取られた記憶の跡から冷たい虚無が広がり、思考の糸がぶちぶちとちぎれていく。大切な人々の名前すら靄の向こうへ消え去り、己の存在そのものが根本から崩壊していく筆舌に尽くしがたい絶望感と恐怖に、水琴は両腕で深く頭を抱え込み、石畳の上で声を限りに悲鳴をあげた。


「私が……私でなくなってしまう……っ! 時子さん……理子さん……火燐さん……アイシャさん……! 嫌です……みんなの顔を……私から奪わないで……っ!」


 そして、アイシャは光の弓を握りしめたまま、完全に氷付けとなったかのように動けなくなっていた。


 直前に聞いた、あの声。怪物の裂けた喉元から漏れ出した「旧校舎横のベンチで待ってます」という、あまりにも生々しい鈴木修の肉声。それが黒い鎖となってアイシャの全身に巻きつき、脳髄を強烈に侵食していた。


(鈴木くん……鈴木くん……! なんで……なんであなたがそこにいるの……!?)


 脳裏に溢れ出すのは、修と過ごした生徒会での日々であった。遅くまで書類を整理していた時に差し出してくれた温かいお茶、不器用ながらもまっすぐな瞳でアイシャを支えてくれた優しさ。それら愛おしいはずの記憶の一つ一つが、バフォメットの悪意の波動によって「お前が僕を見捨てた」「お前が僕を化け物に変えた」というドス黒い罪悪感の刃へと反転し、アイシャの心臓を容赦なく突き刺す。


(嫌……嘘よ……! 私が……私たちが、あなたを殺そうとしているなんて……!? 私の手で、鈴木くんを……ッ!)


 「約束したのに」「置いていかないで」という修の声が脳内で無数の怨嗟となって渦を巻き、アイシャの手から弓を落とさせようと歪んだ重圧を加える。大切な存在を自らの手で滅ぼしてしまうという狂おしいほどの恐怖と罪悪感の呪縛に捕らわれ、アイシャは紫水晶の瞳から涙を零しながら、その場に縛り付けられていた。


 さらに、その悪意の波紋は、仲間を守ろうと必死に足を進めようとする時子の心にも深く突き刺さっていた。


(あ……あはは……。どうして……みんな、私のこと……見てくれないの……?)


 時子の脳裏に広がったのは、代償によって世界から完全に自らの存在が消え去った、凍てつくような幻影であった。


 黄金色の光に包まれた賑やかな生徒会室。みんなで笑い合っている輪の中に、時子の居場所はない。どれほど声をかけても誰も振り向かず、視線すら合わない。手を開いても誰のぬくもりも感じられず、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、存在を擦り減らした自分だけが透明な孤独の底に置き去りにされる恐怖。


 時子の足元から透けていく影とともに、絶望の冷気が胸を締め上げる。


(私……消えちゃうんだ……。みんなの記憶からも……この世界からも……誰も私の名前を呼んでくれなくなっちゃうんだ……っ)


 恐怖に膝が折れそうになり、指先から血の気が引いていく。だが、時子は薄れゆく視界の中で、地獄の苦しみに喘ぐ理子や火燐、水琴、そして絶望の呪縛に繋がれ立ち尽くすアイシャの姿を捉えた。


(ダメ……! 私が消えるのが怖くても……今みんなを救わなきゃ……! 私が命を削ってでも守りたかった、この大切な時間が……みんなの笑顔が……消えちゃうっ……!)


 時子は自らの存在消失という底なしの恐怖を、歯を食いしばって押さえつけた。胸の奥で燃え上がる「みんなを守りたい」という一心の祈りを込めて、手にしたアンティークな懐中時計の蓋を壊れんばかりに強く握りしめる。


「それだけは……嫌っ! みんなを……みんなの心を、傷つけさせないっ……!」


 時子の全身から解き放たれた純粋な黄金の光が、モノクロームの中庭を波紋となって駆け抜けた。


「お願いっ! 時間よ……止まってっ!」


 次の瞬間、世界からすべての動きが途絶した。


 バフォメットが放射していたドス黒い魔力波の振動そのものが、時空の絶対的な凍結によってカチリと本体と共に完全停止する。


 脳を直接打ちのめしていた不快な波動の伝播が遮断されたことで、絶望の泥沼に沈んでいた四人の心に、断絶していた世界からの静寂が戻ってきた。


「はっ……ぁ……っ! 時子……生きとる……! ウチの足も……動く……! 動くんや……っ!」


 理子が激しく溜息を吐き出し、時子が殺されたという幻影と、動かないという虚妄の呪縛を自らの強い意志で力任せに振り払った。濁っていた瞳に再び鋭い闘志の光を宿し、強く大地を蹴りつける。


「ウチは……副作用なんかに負けへん! 今度こそ、絶対にみんなを守るって決めたんやからっ!」


「ふぅ……ふぅ……っ! アタシの心を……こんな淫らな毒で誤魔化そうなんて……百年早ぇぇんだよっ!」


 火燐が鋭い牙を剥き出し、上気した肌と不快な熱量を激しい闘志で吹き飛ばした。両腕のトンファーを素早く旋回させて握り直し、全身の筋肉を躍動させて力強く立ち上がる。


「記憶は……渡しません……! 私が私であるための大切なすべてを、あなたのような怪物に毟り取らせはしません……ッ!」


 水琴が指先で素早く眼鏡のフチを持ち上げ、ズレていた位置を力強く正した。崩れかけた理性を自らの意思で完璧に再構築し、冷徹沈着な戦術眼を鋭く光らせる。


 アイシャもまた、肩を激しく上下させながら、震える指先でしっかりと光の弓を引き絞った。


(そうよ……いま私が迷えば、みんなが傷ついてしまう……! 鈴木くんのことは……彼を助けるための戦いなのですから……っ!)


 アイシャは心臓を締め上げる恐怖と罪悪感の呪縛を「仲間を守る」という強い決意で無理やり覆い隠し、紫水晶の瞳に誓いの光を滾らせた。


「理子さん、火燐さん、前衛をお願いします! アイシャさんは私とタイミングを合わせて核心を射抜いてください!」


「任せとき!」


 水琴の的確な指示と同時に、理子が磁力反発によって脚力を爆発させ、弾丸のごとき速度で完全に停止したバフォメットの懐へ肉薄する。両腕を覆うガントレットに超高密度の磁気エネルギーを渦巻かせ、急所である胸元へ渾身の打撃を叩き込んだ。続けて躍動した火燐が両腕のトンファーを限界まで加速させ、超高速の連撃を一瞬のうちに同じ部位へ叩き込む。


ズドォォォォンッ!!


 衝撃でバフォメットの異形の外殻がひび割れて砕け、胸元の奥に潜む漆黒の核心が完全に露出する。


「アイシャさんっ! 今です!」


「ええっ……ッ!」


 アイシャの放つ光の矢が、時空の止まった世界で一本の眩い光条となって重なり合い、露出したバフォメットの核心を寸分違わず穿ちぬいた。


 直後、時子の能力による時間停止が解除される。


ガアァァァァァンッ!!


 止まっていた時間が一気に動き出し、溜め込まれていたすべての衝撃と光のエネルギーがバフォメットの内部から爆発的に弾けた。


 異形の怪物は激しい悲鳴をあげる暇もなく、その肉体を構成していた粘液と骨格が粉々に砕け散り、漆黒の煙となって夜空へ雲散霧消していく。


 反転していた世界がゆっくりと元に戻り、寒風の吹く静かな中庭には、ただ夜の闇だけが残された。


「……勝った、んだよね……?」


 時子が安堵の息を漏らし、手にしていた大鎚を消滅させる。水琴もまた、額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、人差し指で眼鏡のブリッジをそっと押し上げ、静かに息を整えた。


 だが、直前まで直視させられていた強烈な精神攻撃の後遺症は、少女たちの心身を深く蝕んでいた。絶望とトラウマの波紋に脳を激しく揺さぶられた不快な悪寒と、強烈な目眩が今なお五人の頭腔を苛み、誰一人としてまともに足元を観察する余裕など残されていなかった。


「アイシャさん……大丈夫ですか? 顔色がとても悪いです……」


「ええ……少し疲れてしまいました……。帰りましょう……早く……ッ」


 精神の底を揺さぶられた激しい憔悴と動揺に耐えかね、アイシャは青ざめた顔で小さく首を振り、縋るように生徒会室の方角へと歩き出した。時子たちもまた、立っているのがやっとという過酷な疲労感に呑まれ、足元を一瞥することもできぬまま、一刻も早くこの場を立ち去りたい一心でアイシャの後に続いた。


 少女たちが憔悴しきって去り、静まり返った闇の中庭。


 誰にも気づかれることなく放置された冷たい石畳の上に、ひっそりと転がる一つの物体があった。


 黒い煙が立ち昇っていた跡に残されていたのは、肉体や因子のすべてが消滅しても消えることのなかった遺留品。ヒビだらけに叩き割れた、黒縁の眼鏡であった。破片となったレンズが、夜の静寂の中で鈍く光を反射している。


 闇の奥から、革靴の静かな足音が近づいてきた。


 現れたのは、嵐彩花であった。


「やれやれ……。激しい精神攻撃で精神を削られ、憔悴しきっていたとはいえ、足元のこれにすら気づかず帰ってしまうとはね。人間というのは本当に愚かで脆いよ」


 彩花は優雅な手つきで腰を落とし、壊れた黒縁の眼鏡をそっと指先で拾い上げた。月光にかざすと、ヒビ割れたレンズの奥に残り香のように漂う、鈴木修の微かな未練の波紋が冷たく輝いていた。


「今これを見られたら、余計な疑念を生むところだったよ。……だが、折角だから使わせてもらうとしよう。最高の『温かな嘘』を補強するための、完璧な材料としてね」


 彩花は愛おしそうに眼鏡をハンカチで包み、制服のポケット深くへと押し隠すと、闇の中へと静かに姿を消した。


 翌朝。鳳凰学園のキャンパスは、昨夜のフェスティバルの熱気と余韻、そして明日からの冬休みを控えた生徒たちの華やかな喧騒に包まれていた。


 だが、生徒会室の中だけは、どこか重苦しく冷たい空気に満ちていた。


「アイシャ先輩……本当に大丈夫ですか?昨日から全然ご飯も食べてへんみたいやし、顔色も青白いですよ……」


 土屋理子が心配そうに覗き込み、紙コップに入った温かいポタージュスープをデスクの上に置いた。


 風花アイシャは、きれいに整理されたデスクの前でスマートフォンの画面をただじっと見つめていた。昨夜耳にしたあの声の恐怖、そして連絡の途絶えた鈴木修の存在。


 スマートフォンに何度も送信したメッセージには、一つも既読がつかず、冷たい無音が続いている。昨夜の激しい精神波の余波による憔悴が、いまだに顔色を青白く翳らせていた。


「ありがとう、理子さん。でも、心配いりませんわ。少し……疲れが残っているだけですから」


 アイシャは無理に唇の端を上げて微笑んでみせたが、その紫水晶の瞳の奥の光は痛々しいほどに影っていた。自分が仲間とともに恐ろしい事態に関わってしまったのではないかという底なしの疑念が、彼女の正気を刻一刻と苛んでいた。


 時子や水琴、火燐も、適切な励ましの言葉を見つけられずに言葉を詰まらせる。昨夜の戦いの最中、アイシャが一瞬見せた激しい動揺。誰もがその理由を直球で尋ねかね、もどかしい静寂が生徒会室を支配していた。


 その時、コンコン、と優雅で静かなノックの音が響き、生徒会室の重厚な扉が滑らかに開いた。


「失礼するよ。みんな、昨夜はお疲れ様。フェスティバルは大成功だったね」


 入ってきたのは、彩花であった。


 宝塚の男役のような気品漂う佇まいに、優雅な制服ブレザーを着こなした彼女は、手に一通の上質な和紙の封筒を携えていた。


「彩花さん……」


 アイシャが顔をあげると、彩花は包容力に満ちた穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりとアイシャのデスクへと歩み寄った。


「アイシャさん。先ほど職員室の近くを通った時に、担任の先生から君へ渡してほしいと頼まれてね。……鈴木修君から、学校宛てに届いた手紙だよ」


「――ッ!?」


 その言葉が出た瞬間、アイシャの全身に激しい電流が走った。


「鈴木……くんから……手紙……?」


「ああ。ご両親の転勤の手続きで慌ただしく、直接渡しに来られなかったそうだ。先生も『風花に渡してやってくれ』とおっしゃっていたよ」


 彩花は恭しく手紙を差し出し、アイシャの華奢な手の上にそっと載せた。


 アイシャの指先が激しく震える。封筒の表書きには、間違いなく、同じ生徒会書記として何百枚もの書類をともに作成してきた鈴木修の、あの丁寧で生真面目な筆跡が躍っていた。


 アイシャは祈るような心地で、慎重にハサミを入れて封を開き、中の便箋を静かに広げた。


『風花会長へ。

 挨拶もできずに急に学園を去ることになってしまい、本当にごめんなさい。


 両親の急な都合により、昨夜のうちにどうしても遠方の街へ引っ越さなければなりませんでした。


 フェスティバル直前で多忙を極める風花さんや生徒会のみんなに、余計な心配や負担をかけたくなくて、黙って発つ無礼をどうか許してください。


 以前、旧校舎のベンチで話そうと言っていた件も、もう気にしないでください。不器用な僕の独り言です。


 昨夜、慌当地なさのあまり旧校舎裏で愛用の眼鏡を落としてしまい、予備の眼鏡も持たずにそのまま飛び出してしまったことも恥ずかしい限りです。


 風花さんが生徒会で気高く輝いている姿を、遠い街からずっと応援しています。


 今まで、本当にありがとうございました。

 鈴木修』


「あ……ああ……っ」


 手紙を読み進めるにつれ、アイシャの目からボロボロと大きな涙の粒が溢れ落ちた。


 便箋に認められた「両親の急な都合」という言葉。昨夜の怪物が呟いた「旧校舎横のベンチ」という言葉。そして、旧校舎裏で「眼鏡を落としてしまった」というあまりにも具体的な一文。


 彩花が以前教えてくれた事実に、手紙の内容が何から何まで完璧に合致していた。


(ああ……よかった……! 鈴木くんは、ちゃんと生きていたのね……! 昨夜あの場所で眼鏡を落としたまま、ご両親と一緒に遠くの街へ引っ越しただけだったんだわ……!)


 胸を刺していた不気味なトゲが一瞬にして引き抜かれ、激しい安堵の波がアイシャの全身を包み込んだ。


(昨夜のあの恐ろしい声は……私の恐怖と疲労が見せた、悲しい幻聴だったのね。鈴木くんが怪物になるなんて、そんな恐ろしいこと、あるはずがなかったんだわ……っ!)


 アイシャは手紙を胸に固く抱きしめ、声を忍ばせて泣きじゃくった。


 耐えがたい恐怖と疑念から救われた安堵。自分が信じたかった「温かな嘘」に無意識にしがみつき、現実から目を背けることで、アイシャの心は平穏を取り戻していった。


「よかった……よかったね、アイシャさん」


 彩花がそっと腰を落とし、泣きじゃくるアイシャの肩を包み込むように優しく抱きしめた。その美しくも包容力に満ちた顔立ちには、慈愛に満ちた笑みが浮かべられている。


アイシャは流す涙をそのままにし、「眼鏡……探さなきゃ……」と呟くと、彩花はアイシャに優しく答えた。


「僕が探して先生に渡してもらうから、今はゆっくりするといいよ。それに、彼は君のことを一番に思っていたからこそ、あえて黙って去ったんだ。君の優しさは、ちゃんと彼に届いていたんだよ。だから安心して。」


「はい……はい……っ! ありがとうございます、彩花さん……っ!」


 アイシャは彩花の胸に顔をうずめ、子供のように涙を拭った。


 時子、理子、火燐、水琴の四人も、心底胸を撫で下ろし、晴れやかな笑顔でアイシャを見守っていた。生徒会室を包んでいた重苦しい陰りは立ち消え、温かな光が満ちていく。


 夕暮れ時。

 放課後の生徒たちが去り、オレンジ色の茜光が静まり返った生徒会室へ斜めに差し込んでいた。


一人残った彩花は、ゆっくりとポケットから小型の通信端末を取り出した。端末の画面には、監査パートナーであるウサ子の目を通した生体観測データが、静かに明滅している。


『アイシャの精神波形、完全安定。疑念の兆候、計測不可レベルまで低下だピョン。現場で回収した遺留品の眼鏡を工作に組み込んだ手紙の筆跡模倣と工作、完璧だったピョン』


「ふふ……当たり前だよ。人間というのはね、耐えがたい残酷な真実よりも、用意された美しい嘘の果実を進んで欲したがる生き物なんだから」


 彩花は画面に並ぶ数値を冷たい指先でなぞり、薄く笑った。


 昨夜回収したあの割れた眼鏡は、すでに彩花の手によって跡形もなく粉砕され、消滅させられている。


 鈴木修という存在は、もうこの世界のどこにも存在しない。彼の肉体も魂も、昨夜の戦闘で魔法少女たちの手によって完璧にこの世から撃滅され、消滅したのだから。


 先生に「鈴木君のご家族から生徒会長宛てに預かった」と思い込ませる程度の精神干渉など、彩花にとっては造作もない戯れに過ぎなかった。


「完璧な劇だよ、本当に……。純粋な少女たちが、自らの手で仲間を殺し、それを救いだと信じて微笑んでいる……」


 彩花は端末を閉じ、茜色から漆黒へと染まりゆく窓外の景色に向かって、優雅に、そして絶望的なほど美しくほくそ笑んだ。


 完璧に構築された鳥籠の中で、少女たちは束の間の平穏を噛み締め続ける。


 真実の絶望が、彼女たちを完全に飲み込むその日まで――。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

バフォメット戦お疲れ様でした。それにしても精神攻撃なんてエグいことしますねぇ。

彩花……怖いよぅ。((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル

魔法少女たちの運命が今後どうなっていくのか、ぜひ見届けていただけると幸いです!


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次回、第27話もどうぞよろしくお願いいたします。

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