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五時に、この土地はもう動いている

四時五十分に目が覚めたのは、鳥の声だった。


布団の中でしばらく動かなかった。天井を見ている。六月の光はもう入っている。カーテンはつけていない。障子だけだが、障子越しでも朝は明るい。東京のマンションでは遮光カーテンを使っていた。ここでは、光を遮るものが薄い。


スマホを開く。米国市場は小幅安。VIXは前日とほぼ変わらず。特に材料はない。ストラングルのポジションは安定している。プレミアムが一日分減っているだけ。今日もセータで稼ぐだけの日になりそうだった。


布団の中で数字を確認する。この習慣は会社にいた頃からだった。違うのは、隣にデスクがないことと、天井が低いことだった。


五時を過ぎた頃、外で音がした。


車のエンジンだった。どこかの家から出ていく車。一台ではない。少し間を置いて、もう一台。


布団を出て、北側の小窓を開けた。空気は湿っている。昨夜の雨が上がったばかりのようだった。道路が濡れている。空は曇りだが、明るい。梅雨の合間の、光を含んだ曇り空だった。


南側の窓も開ける。風が通った。潮の匂いが薄く入ってくる。


外に人の気配があった。


声は聞こえない。だが、戸の開閉、足音、何かを運ぶ音、水を流す音。五時台に、すでにこの一帯は動き始めていた。


南里はコーヒーを淹れながら、窓の外を見た。向かいの家の窓が開いている。斜め先の家の前に、洗濯物が出ている。五時台に干している。


東京のマンションでは、五時に起きているのは南里だけだった。マンションの廊下は静かで、隣の部屋から物音がすることもなかった。南里が画面を開いて米国市場を確認する時間は、世界が南里のためだけに動いている時間だった。


ここは違った。南里が起きる前に、この土地はもう動き始めている。


近江の家の方から、箒で掃く音がした。三軒先。この距離で掃く音が聞こえる。


六畳間に入り、机に向かった。PCを起動する。画面が点くまでの間、耳が外の音を拾っている。誰かの車のドア。水道管の音。犬の声。どれも遠いが、無音ではない。


八時。前場の準備に入った。日経先物の気配値を確認する。横ばい。今日も大きな動きは出そうにない。


南里は手元のメモに今日の予定を書いた。


前場。昼に食事。後場。振り返り。買い出しは今日は不要。夜間立会は軽く見るだけ。家の用事はない。回線も安定している。今日は理想に近い一日が組めるはずだった。


九時、前場が始まった。板を見る。出来高は薄い。価格は動かない。IVは低水準。待つだけの時間が続く。


十時を過ぎた頃、近江が来た。


「南里さん、ゴミの日じゃけえ」


南里はゴミの日を知らなかった。向島のゴミ収集のスケジュールを確認していなかった。


「何曜日ですか」


「燃えるゴミは火曜と金曜。今日は火曜じゃろう。出すとこ、分かる?」


「いえ」


「道の角を曲がったとこにネットがあるけえ、そこ。八時半までに出さんといけんのよ。今日はもう過ぎとるけど、次から気をつけんさい」


「分かりました」


近江は帰った。南里は画面に戻った。ゴミの日。火曜と金曜。八時半まで。前場は九時に始まる。八時半にゴミを出しに行くと、準備の時間が削られる。


小さいことだった。だがこの小さいことが、南里の時間の外から勝手に決まっていた。


---


昼、食堂へ行った。


片岡の店は開いていた。カウンターに座り、日替わりを頼んだ。今日は鰆の塩焼きだった。


前回と同じ席に座っている。片岡は南里を覚えていた。


「今日も日替わりで大丈夫ですか」


「はい」


定食が出てくるまでの間、南里は店の中を見ていた。客は二人。作業着の男が一人と、年配の女性が一人。前回と同じような顔ぶれだった。常連が固定されている店なのだろう。


厨房で片岡が動いている。手順に無駄がない。注文が入ってから出てくるまでが早い。だが急いでいるわけではない。流れができている。


定食を食べた。鰆は脂がのっていた。六月の鰆は春より脂が落ちるはずだが、焼き加減で補っている。皮目がぱりっとしていて、身が崩れない。味噌汁は赤出汁。小鉢はきんぴらと酢の物。前回と同じく、凝ってはいないが、ちゃんとした味だった。七百円でこの内容なら、東京では考えられない。


会計のとき、片岡が言った。


「木曜は仕込みの都合で、定食の種類が少なくなるかもしれません」


「分かりました」


「来られるなら、火曜か水曜がいちばん揃ってます」


南里は頷いた。火曜か水曜。それは片岡の店の都合であって、南里の相場のスケジュールとは関係がない。だが、ここで食事を取るなら、こちらがそれに合わせることになる。


店を出た。車に乗り、古家に戻る。十二時四十五分。後場にはまだ間がある。


帰り道、橋の手前で信号に捕まった。対向車線を軽トラが通っていった。荷台に木材が積んであった。森脇の車だったかもしれない。確証はない。だが、この島で軽トラに木材を積んで走る人間は多くないだろう。


この島は、南里が画面を見ている間も動いている。店は店の時間で開き、車は車の用事で走り、ゴミは決められた日に出さなければ腐る。


南里の一日は相場から始まる。だがこの土地の一日は、その前からもう始まっていた。


古家に戻り、机に向かった。後場の準備をする。午後の板を開く。先物は横ばいのままだった。ポジションの含み益は朝から百円増えただけだった。セータが効いている。一日あたりの利益は小さい。だが毎日積み重なる。


十五時十五分、引けた。微増。振り返りをノートに書いた。損益、ポジション、IV。一日分の記録。


窓の外から、また車のエンジン音がした。誰かが出ていき、誰かが戻ってくる。この一帯は、南里の画面とは関係なく回っている。


静かな場所ではあった。だが、時間まで静かなわけではなかった。

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