ノイズが多い
朝五時、スマホのアラームより先に目が覚めた。
布団の中で画面を開く。VIXが動いていた。昨夜の米国市場で、FRB高官の発言を受けて金利が跳ねた。S&Pは一時マイナス圏に沈み、引けにかけて戻したが、VIXは前日比で二割ほど上がっている。
南里の体に力が入った。
IVが上がる。プレミアムが膨らむ。今持っているストラングルの売りポジションは含み損が出ているはずだった。同時に、この水準でさらに売りを入れるなら、プレミアムは厚い。入れるべきか、待つべきか。
布団を蹴って起き上がった。六畳間に入り、PCを起動する。窓を開ける余裕はなかった。画面が点くまでの十数秒が長い。
チャートを開く。日経先物の夜間立会は、米国市場に連動して大きく下げていた。二百円以上の下落。オプションの板を確認する。IVは全体的に跳ねている。プットの遠いところまでプレミアムが膨らんでいた。
スプレッドシートを開き、ポジションの時価評価を更新する。含み損が出ている。想定内の範囲だが、楽ではない。証拠金に余裕はある。ここで慌てて切る局面ではない。
問題は、今日の前場だった。九時に始まる。寄り付きでIVがさらに跳ねるか、落ち着くか。それによって今日の判断が変わる。
南里はノートを開いた。シナリオを三つ書く。IVがさらに上昇する場合、横ばいの場合、反落する場合。それぞれのポジション調整を考える。ここが勝負だった。ここで精度を出すために、向島へ来た。
コーヒーを淹れる。手が少し冷たい。六月だが、朝の古家はまだ冷える。窓を閉めきっているから空気が籠もっている。開けた方がいいのは分かっている。だが今は画面の前を離れたくなかった。
七時半、日経先物の気配値が出始めた。大きく下に寄りそうだった。南里はモニターに張りついた。
八時。玄関の外で音がした。
近江の声だった。
「南里さん、おるん?」
今日は出たくなかった。今日だけは出たくなかった。
声が続く。
「窓、閉めきっとるけど、大丈夫? 今日は雨が来るけえ、北側だけでも開けといた方がええよ」
南里は無視した。画面を見ている。先物の気配値が動いている。寄りの水準を読んでいる。
「南里さん?」
引き戸の音がした。開いている。鍵をかけていなかった。また、かけていなかった。
「ああ、おった。窓ね、閉めきっとるけえ」
近江は廊下に入ってきた。南里は椅子から振り返った。
「すみません、今、立て込んでいて」
「そうなん。でもね、この湿気で閉めきっとったらいけんのよ。壁が傷むけえ」
「あとで開けます」
「北側だけでも今開けんと。すぐじゃけえ」
近江は南里の返事を待たず、四畳半の方へ歩いていった。北側の小窓を開ける音がした。風が動いた。六畳間まで空気が変わるのが分かった。
「ほら、これだけで違うじゃろう。あと、今日は午後から雨じゃけえ、洗濯物は中に入れときんさい」
「洗濯物は出していません」
「ほうね。じゃあええわ」
近江は戻ってきた。六畳間を覗き、モニターが二台光っているのを見た。
「忙しそうじゃね」
「ええ」
「じゃあ邪魔せんよ。あとね、雨がひどくなったら、天井の染みのとこ、見といてね。漏りよったら森脇さんに言うけえ」
「分かりました」
近江が帰った。引き戸が閉まった。
南里は画面に戻った。八時二十分。気配値は下げ幅を広げている。集中し直す。ノートのシナリオを確認する。寄りの水準を待つ。
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九時、前場が始まった。
日経225は大幅安で寄りついた。オプションのIVは急騰している。プットの板が厚く動いている。南里のストラングル売りは含み損が拡大した。
だが、想定内だった。シナリオの一番目。IVが跳ねる場合。この場合の対応は決めてある。プットのヘッジを追加する。遠いところに小さく買いを入れて、最大損失を限定する。
注文を出す。指が動く。板を見る。約定を確認する。ヘッジが入った。これで最悪のシナリオは防げる。
次の判断。IVがさらに上がるなら、ここで新規の売りを入れる余地がある。プレミアムが膨らんでいる分、入り口としては悪くない。だが、さらに下げるリスクもある。
南里は待った。待つのが仕事だった。板を見る。出来高を見る。気配値の厚みを見る。
十時半、少し落ち着いた。先物が下げ止まった。IVの上昇も一服している。南里は一度椅子の背にもたれた。肩が固まっている。手を握って開く。指先が冷えていた。
窓の外で、雨の音が始まっていた。
近江が言った通りだった。午後から雨。だが午前のうちに降り始めている。雨脚は弱いが、断続的に降っている。
屋根から音がする。古い瓦が雨を弾く音だろう。東京のマンションでは聞こえなかった音だった。
十一時、天井の雨染みを確認した。今のところ、変化はない。染みは乾いたままだった。
机に戻る。後場の準備をする。昼食を取らないといけない。だが今日は外に出たくなかった。雨の中を車で走って、食堂が開いている時間に間に合うかどうか。面倒だった。
冷蔵庫を開けた。卵が二つ。パンが二枚。昨日の残りの惣菜パック。これで凌ぐ。
卵を焼いた。パンを齧りながら画面を見る。先物はまだ下で推移している。後場に向けて、もう一段の動きがあるかもしれなかった。
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十三時過ぎ、雨が強くなった。
窓の外が暗い。六月の雨は、降り始めると長い。風も出てきた。北側の小窓から雨粒が吹き込んだ。近江が開けた窓だった。南里は立ち上がり、小窓を少し閉めた。全部は閉めなかった。空気が籠もるのは嫌だった。
後場が始まっていた。画面に戻る。先物は横ばい。朝の急落は織り込まれたようだった。IVは高止まりしているが、追加の上昇はない。ポジションの含み損は朝より少し減っている。
このまま終われば、今日は凌げる。
十四時、天井から音がした。
水が落ちる音ではなかった。木が鳴る音だった。雨と風で、家のどこかが軋んでいる。古い家は鳴る。それは分かっている。だが、どこが鳴っているのか、放置していいのか、判断がつかない。
六畳間の天井を見上げた。雨染みの周辺は変わっていない。漏ってはいない。
台所へ行った。森脇が処置した窓上のコーキング。水は入っていない。大丈夫だった。
風呂場のタイルを確認した。問題ない。
玄関の引き戸が、風で少し動いている。閉めきっているのに、隙間から風が入る。建付けの甘さだった。
家の中を一周して、六畳間に戻った。三分ほどの中断。だが三分で済んだのは、問題がなかったからだ。問題があったら、三分では済まなかった。
画面を見る。後場は終盤に入っている。先物は少し戻している。
十五時十五分、後場が引けた。
損益を確認する。含み損は朝より縮小している。ヘッジが効いた。新規の売りは入れなかった。入れなくて正解だった。もう一段の下げがあった場合、証拠金が足りなくなる可能性があった。
ノートに今日の振り返りを書く。判断は悪くなかった。朝のシナリオ通りに動けた。結果もまずまずだった。
だが、集中は何度も切れていた。
近江の訪問。窓の開け閉め。雨の音。家の軋み。天井の確認。台所の確認。玄関の隙間風。どれも大きなことではない。どれも、一つなら三十秒で済む。だが全部合わせると、神経が削られていた。
相場の判断に直接影響したかどうかは分からない。分からないが、ノイズが入った状態で判断していたのは確かだった。東京のマンションでは、こういうことはなかった。壁が厚く、隣人は静かで、天井は漏らず、窓は隙間風を入れなかった。
南里は椅子にもたれた。
雨はまだ降っている。弱くなったが、止んではいない。窓の外は暗い。六月の夕方は、晴れていても早く暗くなるが、雨の日はさらに早い。
六畳間を見回した。
机の上にモニター二台。スプレッドシートの画面。ノートとペン。コーヒーのマグカップ。延長コードが床を這っている。壁際に段ボールが一つ残っている。まだ開けていない。中身は本と雑貨だった。開ける必要がないから開けていない。
部屋の隅に、近江が初日に持ってきたタッパーが洗って伏せてある。返さなければいけない。
天井には雨染みがある。漏ってはいない。だが染みは、前の住人がいた頃からそこにある。この家には、南里より前の時間がある。
窓の外から、どこかの家の戸が閉まる音がした。近江の家かもしれない。三軒先だが、雨の日は音が近い。
南里は立ち上がり、北側の小窓を閉めた。南側の窓も閉めた。雨が上がったら、また開ける。近江に言われなくても、もうそうすると分かっていた。それが少し悔しかった。
机に戻り、夜間立会の準備を始めた。米国市場がどう反応するかを考える。VIXの動き、金利の推移、明日の日経への影響。ここに集中したかった。ここだけに集中したかった。
だが部屋の空気は、朝と違っていた。近江が開けた窓から入った風の名残か、雨の湿気か、何かが変わっていた。机の位置はずれていないのに、景色が少し違って見えた。
この町は、思ったよりノイズが多い。
ただ静かなだけの場所なら、もっと扱いやすかった。




