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一時間半しか動けない

朝五時十分、目が覚めた。


布団の中でスマホを開く。米国市場は小幅高で引けている。VIXは横ばい。S&P先物は指標に反応して少し動いたが、すぐ戻している。特筆することはない。


画面を閉じて起き上がる。まだ六月に入ったばかりだが、朝の空気がすでに重い。窓は昨夜閉めて寝た。北側の小窓も閉めた。近江に言われた通り、朝一番に全部開ける。風が抜ける。湿気が少し動く。


コーヒーを淹れ、机に向かった。


今日の予定を頭の中で組む。八時から前場の準備。九時から日中立会。昼に買い出し。十五時十五分に引けたら振り返り。夕方は夜間立会の準備。その間に、食事と最低限の家の用事を入れる。


買い出しは昼にまとめたい。前場の間は離れたくない。引け後も三十分は画面の前にいる。つまり、動けるのは昼の一時間半ほどだった。


その一時間半で、スーパーまで往復三十分、買い物に二十分、帰って荷物を片づけて十分。残りは三十分。食事はその間に済ませるか、帰りに何か買って帰るしかない。


東京なら、コンビニが徒歩三分だった。弁当を買って戻るまで十分。ここでは、ちょっとした用事に時間の塊がいる。


八時、前場の準備を始めた。日経先物の気配値、夜間立会の動き、主要ニュースを確認する。今日も大きな材料はない。IVは低い。ストラングルのポジションはセータで稼ぐ局面だった。見ているだけでいい。見ているだけだが、見ていないといけない。


九時、前場が始まった。板が動く。出来高は薄い。価格はほぼ動かない。こういう日は退屈だが、退屈な日にポジションを触ると余計なことになる。何もしないことが仕事だった。


十一時半、前場の間に一度だけ注文を出した。コールの遠いところに小さく売り指値を置いた。刺さらなくてもいい。置いておくだけだった。


昼になった。前場の引けを確認して、車に乗った。


尾道側のスーパーへ向かう。橋を渡る。渡っている間に、帰りに何を買うか頭の中でリストを作る。米は前回買った。水もある。足りないのはコーヒー、卵、パン、惣菜。レトルトの補充。


スーパーに着くと、駐車場は混んでいた。平日の昼だが、年配の客が多い。カートを引く速度が遅い。通路で止まる。南里はそれを避けながら、必要なものだけ取っていく。


レジに並ぶ。前の客が小銭を数えている。待つ。


会計を済ませ、車に積み、帰る。橋を渡り直す。この往復だけで四十分以上かかっていた。


古家に戻ったのは十二時五十分だった。後場は十二時半に始まっている。二十分遅れた。


PCを開く。板を見る。動いていない。問題はない。ないが、遅れた事実が気に入らない。


昼食を取る時間がなかった。買ってきた惣菜のパックを開け、立ったまま箸をつけた。冷たい煮物と白飯。近江がくれた煮物とは違う味だった。スーパーの惣菜は味が濃い。


---


後場の途中、車で十分ほどの場所にある食堂のことを思い出した。


二日前、買い出しの帰りに看板を見かけていた。表通りに面しているが、目立つ看板ではない。食堂兼惣菜屋と書いてあった。


十五時十五分、後場が引けた。振り返りを済ませ、損益を確認する。微増。セータが効いている。問題なし。


明日の昼食のことを考えた。毎回スーパーまで往復するのは効率が悪い。近場に食べられる場所があるなら、そちらの方が時間を節約できる。


翌日、前場が終わった直後に車を出した。


食堂は思ったより小さかった。カウンター席が六つ、奥にテーブル席が少し。客は三人いた。作業着の男が二人と、年配の女性が一人。


カウンターの奥で、女性が動いていた。三十代前半だろう。無駄のない動きで、注文を受け、皿を出し、会計をしている。厨房との仕切りはなく、カウンター越しに調理場が見える。


「いらっしゃい」


声は明るいが、過剰ではなかった。南里はカウンターの端に座った。


壁に手書きのメニューがある。日替わり定食、焼き魚定食、煮魚定食。惣菜は小鉢単位で持ち帰りもできると書いてある。


「日替わりで」


「今日は鯵の南蛮漬けです。大丈夫ですか」


「はい」


待つ間、店の中を見た。清潔だが飾り気はない。BGMもテレビもない。厨房の音と客が箸を動かす音だけが聞こえる。作業着の男たちは慣れた様子で食べている。常連なのかもしれない。


カウンター奥の壁に食品営業許可証が貼ってあった。営業者の欄に「片岡茜」と書かれていた。歳格好からして、この女性本人なのだろう。


定食が出てきた。鯵の南蛮漬け、味噌汁、小鉢が二つ、白飯。量は多くない。だが品数に対して価格は安かった。


食べた。普通にうまかった。凝った料理ではない。毎日食べても飽きない味だった。


会計のとき、南里は営業時間を確認した。


「昼は何時までですか」


「二時です」


「夕方もやっているんですか」


「惣菜だけ。三時半から五時半まで」


「日曜は」


「休みです」


短い。南里の感覚では、もっと遅くまでやっていてもいいように思えた。立地的に客がいないわけではない。


「この時間で閉めるんですね」


言ってから、余計なことを言ったと思った。だが女性は気にした様子もなく答えた。


「閉めんと次の日が回らんので」


「需要はありそうですけど」


「ありそう、だけでは続かんのです」


返しが早かった。一拍で切られた。南里は何も言えなかった。理屈としては分かる。営業時間を延ばせば売上は伸びるかもしれない。だが、仕入れ、仕込み、体力、翌日の準備まで入れれば、延ばすほど持たなくなる。収益最大化と持続は別の問題だった。


南里はそれをトレードの言葉に置き換えた。リターンを最大化するポジションは、リスクも最大化する。持続可能なポジションは、最大リターンを捨てることで成り立つ。


分かる。分かるが、自分がそれに合わせる気はなかった。


店を出て、車に乗った。古家まで五分。昼食に使った時間は四十分ほど。スーパーの往復より短い。この店が使えるなら、昼の時間を節約できる。


だが、この店はこちらの都合では回っていなかった。二時に閉まる。五時半に閉まる。日曜は休み。こちらが行きたい時間に開いているとは限らない。


古家に戻り、机に向かった。夜間立会の準備をする。米国の雇用関連の指標が出る予定だった。


画面を見ながら、さっきの店のことを考えた。あの女性は、南里の質問に一つも困らなかった。営業時間のことも、需要のことも、聞かれ慣れている感じだった。


あの店は、安いだけの店ではなかった。安い理由がある店だった。そして、安い理由を知っている人が回している店だった。


それは理解できる。だが、向島の時間にこちらの生活を合わせるつもりはなかった。


この島は、こちらの時間に合わせる気がなかった。非合理に見えたが、向こうには向こうの順番があった。

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