呼びよるのに出んかったね
前場が始まって四十分。南里は板を見ていた。
日経225オプションのプット側を眺めている。IVは低水準のまま横ばいで、プレミアムも薄い。仕掛けるような場面ではなかった。セータが少しずつ時間価値を削っている。今のポジションは放置でいい。
放置でいいなら、やることは観察だけだった。
板の数字をスプレッドシートに転記する。証拠金の状況を確認する。デルタはほぼニュートラル。ガンマは小さい。今は待つ局面だった。待つことも仕事の一部だが、集中は要る。気を抜くと見落とす。
窓の外で、何かの音がした。
金属を叩くような音。遠くではない。近所だ。南里は一瞬だけ窓に目をやり、すぐに画面に戻った。
十時を過ぎた頃、玄関の方で声がした。
「南里さん」
近江だった。
南里は返事をしなかった。画面から目を離したくなかった。板の動きは緩いが、前場が終わるまでは離れたくない。
声が続く。
「南里さん、おるん?」
返事をしなければ帰るだろう。そう思った。
帰らなかった。
「車があるけえ、おるんじゃろう。ちょっとだけ」
引き戸の音がした。開いている。鍵はかけていなかった。この家の鍵は古く、かけるのに手間がかかる。朝、面倒で省略していた。
「南里さん」
廊下を歩く足音が近づく。南里は椅子から立ち上がった。立ち上がるしかなかった。
廊下に出ると、近江が上がり框のところに立っていた。靴は脱いでいない。上がり框の手前で止まっている。
「呼びよるのに出んかったね」
咎めているわけではない。事実を言っているだけの口調だった。だが南里には、それが重かった。
「すみません、仕事中で」
「パソコンの?」
「ええ」
近江は頷いた。理解したわけではないだろうが、それ以上は聞かなかった。
「天井のね、雨染み。見たじゃろう?」
南里は頷いた。六畳間の隅にある薄い染み。確認はしていた。
「あれ、前の人のときからあるんよ。ひどくはなっとらんけど、梅雨に入ったら広がるかもしれん」
「はい」
「それとね、台所の窓の上のところ、見た? 木が少し浮いとるんよ。外からは分かりにくいけど、雨が入るかもしれん」
南里は見ていなかった。台所の窓の上など、確認していない。
「森脇さんいう人がおるんよ。修理とか、そういうのをやっとる人。一回見てもらった方が早いけえ、声かけとこうか」
南里の口が開く前に、近江は続けた。
「大ごとじゃないんよ。ただ、放っといたら大ごとになるけえ」
頼んでいない。頼んでいないのに、話が進んでいる。南里は苛立ちを感じた。だが、雨染みが広がるなら確認した方がいいのは分かっていた。台所の窓上の浮きも、放置してよい話ではない。
「……お願いしていいですか」
言ってしまった。自分から言った形になっているが、実質的には近江が段取りを決めていた。
「ほうよ。じゃあ声かけとくけえ」
近江は帰っていった。引き戸が閉まる。南里は六畳間に戻り、椅子に座った。前場はまだ続いている。板を見る。動いていない。何も見落としてはいない。だが集中は切れていた。
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午後、森脇が来た。
軽トラが家の前に止まる音がして、南里は玄関に出た。
降りてきたのは、日焼けした男だった。三十代半ばに見える。作業着を着ている。無駄のない体つきで、愛想笑いはしないが、目つきに嫌味はなかった。
「森脇です。近江さんから聞いとります」
「南里です。わざわざすみません」
「見るだけですけえ」
森脇は靴を脱ぎ、家に上がった。南里の案内を待たず、まず天井の雨染みを見に行った。場所を知っているのだろう。前の住人のときにも来ているのかもしれない。
六畳間の隅で、天井を見上げる。指で染みの周囲を押した。
「染みは古いですね。今は漏っとらんです。ただ、上の防水がどこまで持っとるかは、雨が降らんと分からんです」
「大丈夫ですか」
「今すぐは困らんです。ただ、梅雨に一度、雨の日に見せてもらえると助かります」
次に台所へ行った。窓の上を外から回って確認し、中に戻ってきた。
「木が浮いとるのは、コーキングが切れとるだけです。今日やれます。三十分もかからんです」
「お願いします」
森脇は軽トラから道具を取り、台所の窓上を処置し始めた。手際がよかった。古いコーキングを剥がし、新しいものを充填する。その間、南里は六畳間で板を見ていたが、台所から聞こえる作業音が気になった。
二十分ほどで森脇が来た。
「終わりました。しばらくは持ちます」
「ありがとうございます。費用は」
「コーキング代だけです。千円もかからんです。近江さんの顔もあるし、今回はいいですよ」
南里は礼を言った。森脇は部屋を見回した。モニターと机の配置を一瞬見たが、何も言わなかった。
「この家、前の人が出てからけっこう空いとったけえ、他にも出てくると思います」
「出てくる、というのは」
「不具合です。住み始めると出てくるんです。空いとった家は特に。人がおらんと家は傷むけえ」
森脇は玄関で靴を履きながら言った。
「金があっても、傷んだ家は順番守らんですよ。出てきた順にやるしかないんです」
悪気のない声だった。事実を言っているだけだった。
森脇が帰った後、南里は六畳間に戻った。
台所の窓上は処置されていた。見た目はほとんど変わらない。だが雨が入らなくなった。目に見えない変化だった。
頼んでいない。近江が勝手に話を回し、森脇が来て、処置が済んだ。南里がしたのは「お願いします」と言っただけだった。
費用はかからなかった。助かった。助かったのだが、その「助かった」が面倒だった。
借りを作ったわけではない。だが、自分の住まいの状態を自分より先に近所の人間が知っていて、自分より先に段取りを組んでいた。その事実が不快だった。
前場は終わっていた。後場も特に動きはなかった。ポジションに変更はない。損益にも変化はない。トレードとしては何も問題のない一日だった。
だが、主導権を取られた感覚だけが残っていた。
この土地では、放っておく自由も思ったほど自由ではなかった。




