家をまだ家にしていない
朝、五時に目が覚めた。
布団の中で、まずスマホを開く。米国市場の引けを確認する。S&Pは小幅安、VIXは低水準のまま。特に動いていない。テザリングの速度は遅いが、数字を確認するだけなら問題なかった。
布団から出ると、畳が冷たかった。五月の終わりだが、朝の古家は妙にひんやりしている。壁が厚いのか、湿気が冷えを含んでいるのか、理由は分からない。
顔を洗い、インスタントコーヒーを淹れた。ガスの開栓は昨日済ませた。コンロの火は点くが、点火のたびに少し引っかかる。換気扇を回すと、古いモーターの音がした。
六畳間に入り、机に向かう。
今日の仕事は、この部屋を完成させることだった。
モニター二台の位置を決める。左にチャートと板情報、右にニュースとスプレッドシート。この配置は東京のときと同じにする。視線の動き方を変えたくない。モニターアームは持ってきていないので、段ボールを一つ潰して高さを調整した。
椅子の高さを合わせる。机の天板はやはり少したわんでいる。水平ではないが、許容範囲だった。キーボードとマウスを置き、ケーブルを配線する。延長コードを壁のコンセントから引く。二口しかないので、電源タップを二つ繋いだ。
ルーターの仮置き場を決める。回線工事は今日の午後。それまではテザリングで凌ぐ。
配線が終わると、南里は椅子に座り、画面を点けた。
姿勢を確認する。背筋を伸ばし、肘の角度を合わせる。視線の高さ、モニターとの距離。これがずれるとトレード中に首が詰まる。長時間座る仕事だから、ここだけは妥協しない。
食事と収納は簡素でいい。寝具も最低限でいい。だが机、椅子、モニター、回線。この四つだけは削らない。
仮の環境で板を眺めた。日経先物の気配値を見る。前日の海外の動きを反映して、小幅に上げている。IVは低い。動きが出るまでは待ちだった。
ここまでは順調だった。
問題は、部屋の方だった。
窓際に手を触れると、結露はしていないが、壁が冷たく湿っている。昨日開けた窓を朝に閉めたら、六畳間の空気がすぐに籠もった。開ければ潮が入る。閉めれば湿気が溜まる。
襖を開けて四畳半との間を通そうとした。襖が重い。昨日より明らかに重い。木が水分を吸って膨らんでいるのだと分かった。力を入れれば動くが、片手では引けない。
床を歩くと、廊下と六畳間の境目あたりで、わずかにたわむ箇所がある。体重をかけると沈む。抜けるほどではないが、気になる。
コンセントの位置が悪いことは昨日確認済みだが、延長コードを這わせてみると、導線を横切る形になった。椅子のキャスターが引っかかる。テープで固定するか、配線を変えるか。
一つずつは小さい。だが全部合わせると、この家は思ったよりニュートラルな箱ではなかった。
南里は立ち上がり、家の中を歩いた。台所の換気扇、風呂場のタイルの目地、トイレの水の流れ、玄関の引き戸。それぞれに癖がある。安い家だから不具合があるのは想定内だった。想定内だが、癖の数が多い。
天井を見上げた。六畳間の隅に、薄い染みがあった。雨染みだろう。今すぐ困るものではないが、梅雨に入ったらどうなるか分からない。
十一時頃、外から声がした。
「南里さん」
近江だった。玄関の引き戸を開ける音がする。昨日と同じ、ためらいのない開け方だった。
「おはようございます」
南里は廊下に出た。近江はエプロン姿で、今日は手ぶらだった。
「回線の工事、今日じゃったよね。業者さん、午後いうとったけど、この辺は遅れることがあるけえ、気をつけんさい」
「はい」
「あと、窓ね。南側だけ開けとるじゃろう」
「ええ」
「北側の小窓、開けた? 昨日も言うたけど、抜けんのよ、片方だけじゃ」
南里は開けていなかった。北側の小窓の存在自体、あまり意識していなかった。
「この家はそういう家じゃけえ。風の道があるんよ。前の人は朝いちばんに全部開けて、夕方に閉めよった」
「分かりました。やってみます」
近江は頷いたが、帰る気配がない。廊下から六畳間を覗いている。
「机、置いたんじゃね。パソコンで仕事するん?」
「ええ、まあ」
「窓際はやめた方がええよ。湿気るけえ。壁の方に寄せた方がいい」
寄せている。すでに寄せている。南里はそう言おうとしたが、近江は自分の目で確認して、一つ頷いた。
「ああ、寄せとるね。ええわ」
安堵ではなく、確認が済んだだけの声だった。
「あんた、この家をまだ家にしとらんね」
南里は一瞬、意味が取れなかった。
「荷物は入れたけど、住むいうのは置くだけじゃないんよ。まあ、おいおい分かるけえ」
近江はそれだけ言って、帰っていった。引き戸が閉まる。今日も滑らかだった。
午後、回線工事の業者が来た。予定より四十分遅れた。近江の言った通りだった。
工事自体は一時間ほどで終わった。ルーターを繋ぎ、速度を測る。下り百五十メガ。十分だった。これで環境の核は揃った。
夕方、買い出しに出た。
車で橋を渡り、尾道側のスーパーへ行く。片道十五分ほど。東京なら徒歩五分の距離に、車で十五分かかる。往復三十分。駐車場から店まで歩き、カートを引き、会計をし、車に積み、帰る。ちょっとした買い物に時間の塊がいる。
水、米、レトルト食品、インスタントコーヒー、トイレットペーパー。最低限を買って帰った。食事は燃料補給だった。うまいかどうかは問題ではない。時間を取られないことが重要だった。
古家に戻ると、朝とは空気が違っていた。
窓は北側も開けて出た。近江に言われた通りにした。帰ってきたら、確かに空気が動いていた。昨日までの籠もった感じが薄れている。壁はまだ湿っているが、呼吸が少し楽だった。
認めたくはないが、効果はあった。
机に座り、PCを開く。回線が繋がっている。板を開く。チャートを開く。スプレッドシートを開く。画面の配置は東京と同じになった。
だが部屋は違う。
畳の匂い、建具の重さ、窓の外の近さ。東京のマンションは箱だった。壁と床と天井で仕切られた空間。中に何を置いても、箱は変わらなかった。この家は違う。窓を開ければ空気が変わる。閉めれば籠もる。家が呼吸している。置けば終わる部屋ではなかった。
近江の言葉が残っている。住むというのは、置くだけじゃない。鬱陶しいのに、理屈としては否定しきれなかった。




