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海辺の仮設拠点

全25話完結済みです。初日5話、一挙公開。以降毎日19:40更新。

橋を渡りきったあたりで、潮の匂いが車内に入ってきた。

窓は三センチだけ開けていた。エアコンの効きが悪く、外気を混ぜた方がましだった。匂いは予想していたが、密度が違う。東京で嗅ぐ海の気配とは別のものだった。空気に厚みがある。


ナビが到着を告げる前に、左手に家が見えた。

写真で確認していた。木造平屋、築四十年以上。前の住人が出てから数年空いていたらしい。屋根は傷んでいるが崩れてはいない。外壁の色は褪せて、元が何色だったのか分からない。庭というほどでもない前庭に、草が膝の高さまで伸びていた。


車を降りて、まず駐車位置を確認した。道路から家まで数メートル。搬入はしやすい。隣家との間隔は狭いが、荷物を運ぶ分には問題ない。


海が見える。

左を向けば、島影の向こうに水面が光っていた。五月の終わりで、空は晴れているのに重い。風はあるが、涼しくはない。


南里はそれを三秒ほど見て、視線を家に戻した。

十二年前、大学の臨海実習でこのあたりに一週間いたことがある。穏やかな海と島影が気持ちよかった記憶だけが残っている。


だが今は、その記憶で来たわけではない。家賃、回線速度、最寄りのスーパーまでの距離。それだけで選んだ。安い。静か。東京に戻るまでの仮設拠点。それでいい。


玄関の引き戸に手をかけた。少し重い。レールが錆びているのか、建付けが悪いのか、途中で引っかかる。力を入れれば動くが、毎回これだと面倒だ。


中に入ると、空気が変わった。

外より湿度が高い。閉めきっていた家の空気が、そのまま溜まっている感じがする。壁と畳から、古い木と埃と、かすかにカビの気配がした。


六畳間を見る。ここに机を置く。窓は南向きで光は入るが、窓際は湿気がたまりやすそうだった。モニターは壁側に寄せた方がいい。コンセントの位置を確認する。二口が一箇所。足りない。延長コードは持ってきている。


隣の四畳半を覗く。布団を敷いて寝るだけの部屋にする。押入れを開けると、前の住人が貼った棚紙がまだ残っていた。画鋲の跡もある。南里には関係ない。


台所は狭かった。ガスコンロ二口、小さなシンク。冷蔵庫を置いたら動線がきつくなる。自炊は最小限にするつもりだから、問題はない。


風呂場のタイルを見て、給湯器の型番を確認した。古い。追い焚きはない。まあいい。


一通り見終えて、南里は六畳間に戻り、窓を開けた。

風が入る。潮の匂いと一緒に、隣家の気配が入ってきた。どこかで戸が閉まる音がする。人の声ではないが、人がいる気配だった。


閉めようかと思ったが、湿気を逃がす方が先だった。


車に戻り、荷物を運び始めた。モニター二台、ノートPC、ルーター、延長コード、椅子。机は折りたたみのものを積んできた。生活用品は最小限にした。衣類、寝具、タオル、洗面用具。段ボール四つに収まっている。


搬入を終えて、机を六畳間の壁際に置いた。椅子を合わせ、モニターの位置を仮決めする。回線工事は明後日の予定だが、スマホのテザリングで最低限は動く。


ルーターの電源を入れ、PCを開いた。

画面が点く。板情報のブックマークを開き、S&P先物の値を確認する。日本時間の夕方、米国はまだ動いていない。明日の朝には前場が始まる。環境はまだ整っていないが、見ること自体は今日からできる。


姿勢を正した。椅子の高さを調整する。机の天板は少したわんでいる。水平器は持ってきていないが、モニターが微妙に傾いている気がした。


外から声がした。


「ちょっと、ちょっと」


女の声だった。近い。玄関の方からだ。


南里は椅子から立ち上がらなかった。まだ挨拶の段取りは考えていない。引っ越しの報告は大家経由で済んでいるはずだった。


声が続く。


「今日来たん? 荷物出とるけえ、来たんかと思うて」


返事を待たずに、引き戸が開く音がした。さっき南里が苦労した引き戸を、その人物はためらいなく開けた。


玄関に立っていたのは、小柄な女性だった。七十代だろう。エプロン姿で、手にビニール袋を提げている。


「近江です。隣いうか、三軒先。前の人のときから、ちょっと気にしとったけえ」


南里は廊下に出て、軽く頭を下げた。


「南里です。今日から住みます」


「そうじゃろう。大家さんから聞いとるよ。男の人が一人で来るいうて」


近江は玄関から一歩入り、室内を見回した。まだ段ボールが積んである状態を、遠慮なく眺めている。


「窓、開けたんじゃね。ええよ、閉めきっとったら湿気がひどいけえ」


南里は頷いた。返す言葉を探している間に、近江はビニール袋を差し出した。


「食べんさい。大したもんじゃないけど、今日は買い物も行けんじゃろう」


中身はおにぎりと、小さなタッパーに入った煮物だった。


「ありがとうございます」


「台所、使えるん? ガスの開栓はしたん?」


「明日の予定です」


「ほうね。じゃあ今日はそれで済ませんさい。電子レンジはある?」


「いえ」


「冷たいままでええよ、煮物は」


南里は袋を受け取った。礼を言ったが、自分でも声が硬いのが分かった。近江は気にした様子がない。


「この家はね、窓の開け方にコツがあるんよ。南側だけ開けても抜けんけえ、北側の小窓も開けんといけん。前の人もそうしよった」


「分かりました」


「あと、押入れはときどき開けた方がええよ。カビるけえ」


「はい」


近江はもう少し何か言いたそうだったが、南里の返事の短さを感じ取ったのか、一度だけ頷いて玄関へ戻った。


「まあ、困ったことがあったら言いんさい。近いけえ」


引き戸が閉まった。さっきより滑らかに閉まった気がした。


南里は六畳間に戻り、椅子に座った。

ビニール袋を机の端に置いた。おにぎりの匂いがする。煮物は冷たいままでいいと言われた。


PCの画面に目を戻した。

S&P先物は動いていない。明日の朝、前場が始まる。回線が来るのは明後日。環境はまだ整っていない。


窓の外から、また戸が閉まる音がした。近江の家だろう。三軒先だと言っていたが、音はもっと近くに聞こえた。


畳の匂いと、潮の匂いと、煮物の匂いが混じっている。


静かな場所に来たはずだった。静かではある。だが、無音ではなかった。暮らしの気配が、思ったより近かった。

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