殺意が聞こえる 4
母の言葉は、鳴り止まない不協和音に苦しんでいた響の心に、一つの静かな「調律」をもたらした。
「救わなくていい。ただ、その孤独を聞き届けなさい」
その日を境に、響の生き方は一変した。
彼は自分のエゴを殺し、私的な感情を極限まで排除した。相手の人生に土足で踏み込み、無理やりナイフを取り上げるような真似はしない。ただ、殺意の音の正体を見極め、相手が自分自身の心の奥底にある「声」に気づくまで、その場に寄り添い続ける。
それが、慶太や他の者たちに見せてきた、あの響の行動原理となった。
だが、この過酷な能力を抱えて生きる代償は大きかった。
社会に出ても、満員電車の怒号、オフィスに渦巻く嫉妬や悪意のノイズが、休みなく脳を削り続ける。一つの場所に留まれば、聞こえすぎる「真実」が人間関係を壊してしまう。
結果として、響は定職に就くことができず、清掃員や警備員など、職を転々としながら食い繋ぐ生活を送っていた。
この力を金儲けや保身に使う誘惑がなかったわけではない。他人の弱みを握り、優位に立つことなど容易い。だが、母がそうしなかったように、響もその一線を越えることはなかった。
もし、自分のエゴでこの力を利用してしまったら、その瞬間、自分は救いようのない「怪物」に成り果ててしまう気がしたからだ。
「……また、聞こえてきたな」
響はソファから重い腰を上げ、クローゼットに掛けてある白衣を手に取った。
アパートの外に出ると、冬の終わりの冷たい風が頬を刺す。
街には無数の人々の心の音が溢れていた。以前のように、耳を塞いで蹲ることはもうしない。響はその不協和音の一つひとつを、ただのノイズではなく、孤独な誰かが上げる切実な「叫び」として聞き分けようと、静かに神経を研ぎ澄ませた。
あの日救えなかった朝日、そして自分自身を赦すために。
自らの運命を呪う日々は終わった。これからは、聞こえてしまった殺意の音だけを追いかけ、誰にも知られることなく、その孤独の隣に立ち続ける。
響は雑踏の中へと消えていく。
その背中は、どこまでも孤独で、けれど迷いのない「番人」の強さを帯びていた。
(おわり)




