第六話 屠殺係の夢 その5
猪瀬は店を出てもまだ、成仏していなかった。
彼はガラス窓に団子鼻をくっつけて、東京タワーの赤いかがやきを目に映しながら、「いけませんね。どうも、欲が出てきちまって。参ったな。」とひとりごちた。
そんな相手に、「約束どおり成仏をお願いします」などと簡単に言えるものではない。
骨皮はいつもこういう時、「いついつまでに成仏をお願いいたします」という契約書を作成しておけばよかったと悔やむわけであるが、そもそも幽霊は拇印を押せないのであるから、諦めるほか仕方ないし、もし仮に何らかのサイエンススピリチュアル的方法でそれができたとしても、血の通っている人間と、かつては血の通っていた人間という関係である以上、そう言った無機質なやり方には骨皮としてもいくばくかの疑問が残るわけである。
「彼女ね。宇田沙羅さん。あのこのことを、何とかして、助けてやりたいなって。彼女ね、遅くまで残って、いつも仕事頑張ってるですよ。そういう姿、ぼく、ずっとみてましたから。あんな綺麗な子が、苦しそうにしてるのを見ちゃあね…」猪瀬は目頭を抑えた。彼女を散々苦しめてきたのはあんたと豚ですよ、と言いたくなるのを我慢して、骨皮は慰めの言葉をかけた。
「だけどもう、生者の心配なんかしなくても。あなた、せっかく死ねたわけですからね」
「甘いですよ骨皮さん。甘いです。」猪瀬は骨皮の肩を掴もうとして、言った。「死んでからだって、大変なんですよ。僕が驚いたのは、冥土にも、正門と、裏門とがあるちゅうことです。」
「本当ですか。なんのためにですか。」
「いいですか。冥土の看板にね、こう書いてあるですよ。穢れたものは裏門から。そうでないものは正門からお入りくださいって。つまり人殺しとか、ヤクザモンとか、そういう奴らは裏から入れってことなんです」
「通ればいいではないですか。正門から。」
「それが、通れませんでした。」猪瀬は深くうなだれた。「自分は、豚殺しですから。だけど裏門から入るのもなんか嫌で。本当はそれで、この世に、戻ってきたです」
骨皮は、冥土の世界もなかなかの差別的なものだと思った。
*
かつて猪瀬が働いていた「都立屠場」は、現在は「都立食肉工場」に名前を変え、芝浦に居を構えていた。社長は死者の申し出とその遺産による広報活動を快く受け入れた。(死人からの直接の嘆願ということではなく、遺書にそう書かれてあったという事実をでっち上げた。)
猪瀬は相変わらず13階に居座っていたが、人のいる時間には決してオフィスには出てこないという約束をしっかりと守り続けていた。おかげで、13階は本来のオフィスとしての活気を取り戻し始めていた。豚の鳴き声もめっきりやんだらしい。豚の霊は多分、コバンザメみたいに猪瀬にくっついていたのだろう。
死者との奇妙な合コンから一ヶ月が経った雨の日。骨皮は宇田と二人タクシーに乗り込み、工場の見学に向かっていた。
骨皮は豚の幽霊に襲われるのを恐れて断ろうと思ったのだが、宇田がどうしてもと言ってきかないのであった。どうやら彼女は今回の仕事の仲介役である骨皮を、いざとなったら盾にするつもりらしかった。
国道の出口に差し掛かった頃、ガラスを叩く雨の音に混じって、獣の鳴き声のようなものが聞こえてきた。もう工場が近いのだろうかとあたりを見回してみたが、まだ先のようである。
怪訝に思い、助手席から何気なく振り向くと、後ろの席で青い顔をして眠っている宇田の隣に、猪瀬が座っているのを見た。膝の上には、豚がちょこんと腰掛けている。骨皮は慌てて、ここで何をしてるんです、と尋ねた。
「いや、工場が懐かしくって。見てみたくなったですよ」
骨皮は運転手が怪訝そうに投げかけてくる視線に気づいて、すぐに前に向き直った。
「大丈夫です、いや、なんもしません。ただ見るだけですよ。」という暢気な声が追いかけてくる。
ちらっと後ろを盗み見ると、猪瀬は宇田の方を愛おしそうに見つめているのだった。
*
まるでファッションショーのようだ、と骨皮は思った。
吊るされた豚の肉が、電灯の光を受けて、ギラギラと輝いている。ベルトコンベアで次々と運ばれてくるそれを、作業着に身を包んだ解体者たちが皮を剥ぎ、内臓を取り出して、次の部署へと送っていく。
「うちの工場は未だに多くの工程で、人間の技術に頼っています。機械でやるよりも、その方がずっと仕上がりがいいのです。」
そういって係のものが説明をする間、宇田はずっと骨皮の影に隠れるようにして、ハンカチで口を押さええながら、立っているのもやっとという様子であった。猪瀬はそんな宇田の後ろにくっついて、目を潤ませながら肉や職人たちの作業に見入っている。
「見てください、骨皮さん」突然猪瀬が叫んだ。骨皮はあまりの大声に身をすくめた。猪瀬は無邪気な子供のように、そばにあった豚の肉を指し示して見せた。
「綺麗でしょう、ほら。切り株の年輪みたいに、赤身と白身がこう、せめぎあって、美しい模様になっとります。うまく裁かないと、こんな風にはならんのですよ…」
猪瀬は本当に触ってるみたいに肉を撫でた。骨皮はその姿に、思わずカメラを向けた。その佇まいはまるで、偉大な作品に見惚れる彫刻家のようであった。
「こちらは枝肉といって、処理されてから冷蔵庫で一晩置かれた肉です」係員が、猪瀬の後を継ぐように言った。「この後、セリにかけられます。では、セリ場へご案内します」
係員の後について歩き出そうとした時だった。突然、大きな肉の塊が床にぶつかる音がした。しかしそれは枝肉が落ちた音ではなくー
宇田が倒れた音だった。




