第五話 飢饉時代の亡霊、大食い選手権に出場する その3
話し終えると、宮千代は疲れてしまったのか、瞼を閉じて、寝息を立て始めた。
タヌキチが私の方をちらりと見て、「いやあ、まいったね」と言った。「あんまり話が重たいので、すっかり胃がもたれてしまった」
「いやあまったく、本当に」
「だけど、まあ、骨皮君。これは実に簡単な問題だ。要は、死ぬ前に食った犬肉の味を忘れられないと、そういうこった。」
「どうやらそのようです」
「そこいらの犬畜生を食わせてやりゃあ良い。そうしたらこのお嬢さんも解放されて楽になると、そういうこった」
「ちょっとあなた!」奥の居間から、嫁のどら声が響いてくる。「女狐からラインが届いてる!どういうことなの説明して!」
タヌキチは大きなため息を吐くと、すごすごと本堂を出て行った。骨皮は意識を失って、眠っている床の顔を見つめた。
*
床が目を覚ましたのは、それから一時間後のことだった。うつらうつらしていた骨皮の肩を、遠慮がちな手が揺さぶった。
「骨皮さん」
「ああ、ようやくお目覚めですか」
床は滲んだアイラインをこすった。小さな目の下に、どす黒いクマができた。月の光にぼうっと浮かび上がるその表情が、不思議と宮千代のそれよりもずっと獰猛に見えて、骨皮は一瞬だけハッとした。
しかし、すぐ我に返って、骨皮は丁寧に、床の身に起きたこと、そして起きていることを、一から十まで説明をしてやった。
骨皮はなるたけ明るく話してやるつもりであった。飢餓時代の亡霊が自分の身に取り付いているなんて、想像しただけでも気が狂いそうなお話だ。
しかし話せば話すほど、骨皮は胸が締め付けられてくるのだった。というのも、宮千代の語ったことのあまりの悲惨さに、耐え難い思いが沸き起こってくるのを、どうしようも止められないからであった。
話し終わる頃には、骨皮はすっかり子供のようにぐずついてしまって、そばに転がった狸の子供の尻尾で、涙と鼻水とを拭った。骨皮は宮千代の気持ちに、すっかり感情移入していた。
床はその間、何も言わずに、座布団の上に、正座してじっと聞いていた。
話し終わると、ポツンと一言、こう言った。
「そうじゃないかと、思っていたんです」床は喉を詰まらせた。「最近、ずっと変だなと思っていて。気づけば冷蔵庫の中身が空っぽになっていたり、無意識のうちにコンビニのアイスを買い占めたりするものでしたから」
「いつからですか?そうなったのは」
「先月、だと思います。旅行したんです、青春18きっぷで。」
「なるほど。いかにもあなたのやりそうなことですね」
とげとげしい声で言ってしまってから、骨皮はハッと口をつぐんだ。しかし床は、それを褒め言葉と受け取ったようだった。
「ええ、昔から憧れていたんです。友達と一緒に、東京から岩手、秋田、青森と登って行って。青森の八戸で、あるお寺に立ち寄りました。そこには石碑が置かれてあってー
天明の大飢饉についての記述が、刻まれてありました」
「その石碑に、何かしたのですか?」
「いいえ、私ー」床はそこでグッと喉を詰まらせた。「何も、そんな、幽霊に取り憑かれるようなことは何も!」
骨皮は床をじっと見つめた。床はさっと目をそらし、床の継ぎ目を見つめた。
「森野さん。これは私の推測ですが」
「はい」
「ツイッターにあげたのでは?」
床は途端にきつい目つきになって、骨皮を睨みつけた。
「…あげましたけど、でも、それが何か」
その目つきと口調には、普段隠されている床の気性の荒さというものがにじみ出ていて、骨皮はしてやったりと思った。やはりこの女、ゆるふわ系なんかではない。全ては偽りの姿なのだ。
「何か文章を添えましたか?」
「添えました」
「それを、見せていただけます?」
床は何か文句を言いかけて、しかしそれを飲み込んで、小さな赤いカバンにしまったスマホを取り出すと、慣れた手つきで画面を打ち始めた。ものの一分も経たないうちに目的のものを見つけると、骨皮の方へスマホをひっくり返して見せた。
そこには、水玉の浴衣を身にまとい、日傘をさし、石碑の前でにっこり微笑む床の写真と、
「知らないおじさんに写真を撮られました。失われた青春。エモい、めっちゃエモい。」
床は決まりが悪そうな顔をして、素早くスマホを引っ込めた。骨皮は色々思うところがあったが、すべて飲み込んで、静かに尋ねた。
「エモいって、どういう意味ですか」
「えっ」
「エモいっていうのはー」
「エモーショナルってことですけど」
「はあ」
「…」
「つまりそれは、大飢饉がエモいっていう意味ですか、それとも、浴衣を着ている自分自身がエモいってことですか、それとも、古き良き日本に目を向けて、同世代の若者が興味も持たない大飢饉という歴史に目を向けて旅をしている、ちょっと個性的な自分自身がエモいっていうことですか」
骨皮は言ってしまったから、再びハッとした。どうして自分は、彼女に向かって、つい刺すようなセリフを吐いてしまうのか、骨皮にはわかっていなかった。床は答えなかった。
「とにかく、森野さん」骨皮はわざと大きな声を出した。「ですので、きっとあなたはあまり気が進まないでしょうが、犬を食べねばなりません。そうすれば、その憑き物は成仏して、あなたも元の生活に戻れるのです…その、エモい生活に」
「…」
「こんなに追い払うのが簡単な幽霊は、他にはなかなかいませんよ。あなたはとてもラッキーです。ですから気は進まないでしょうが、どこかで犬をー」
床はすっくと立ち上がった。月の光を遮断して、その表情は真っ暗だった。
「わかりました。お騒がせして、すみません」
「いえ、別にー」
「それじゃあ、失礼いたします」
床はそそくさとヒールを履くと、素早く歩き去って行ってしまった。
なんだか不安になって見送る骨皮の後ろから、「おやおや」と間抜けな声がした。振り返ると風呂上がりのタヌキチが、ホクホクしながらビール瓶を片手に立っていた。
「帰してしまったのかね?」
「ええ、まあ」
「良かったのかね?」タヌキチはどかっと木魚の上に座ると、垢まみれのグラスにビールを注ぎ始めた。
「何がです」
「一緒に帰らなくって」
「タヌキチさん。何か誤解しているようですが、私と彼女は初対面で、特に特別な関係ではないのです」
「いや、そういう意味じゃないさ」タヌキチはニヤニヤしながら冷たいグラスを差し出した。「殴らなくって良かったのかね、と言っているんだ」
骨皮はぽかんとタヌキチを見つめた。
「どういう意味です。なぜ私が彼女を殴らねばならないのです」
「わかっておったともさ。君が彼女を連れて入ってきたときから。君が彼女を、大、大、大嫌いってことくらい。」
「なぜ」
「君の冷たい目がそう語っておったよ」
骨皮はしょぼんとうなだれた。自分ですらわからない自分の気持ちというものを、この古狸は一瞬でいいあてる。自分が狸で、相手が人間のような錯覚さえ起こしそうだった。
「しかし、わからないねえ。なぜそんなに彼女を嫌うかねえ。大変礼儀の正しい、可愛らしいお嬢さんではないか」
「わかりません。自分でも。」
「許してやれ。許してやれ。わしもこの乾杯で、君を許そうではないか。君が心の奥底で、わしを食用と思っておることを」
骨皮はそこでタヌキチへの咄嗟の非礼を思い出して、ますますうなだれた。彼ら親友同士はカチンをグラスを合わせた。ビールの泡は月の光に照らされて、黄泉の水のように美しく、キラキラ光った。




