第五話 飢饉時代の亡霊、大食い選手権に出場する その2
その店は駅ビルの中にあって、床は窓際の隅っこの席に一人座っていた。骨皮は彼女に声をかけようとして、はたと思いとどまった。
床のテーブルには、山と積み上げられた皿があった。一瞬、ここは食べ放題の店なのかと錯覚したほどだった。しかしそうではない、骨皮が立っている場所は、あくまでおしゃれな洋風カフェの店内である。
床は狂ったようにサラダをムシャムシャと食い漁っているのだった。その表情は、飢えに飢えたハイエナといった様子であった。骨皮はその異常な様子に、声をかけるのをためらった。
その瞬間、顔を上げた床と、バチリと目があった。骨皮はその殺気立ったまなこに、背筋に電撃のような寒気が走るのを感じた。
骨皮はくるりと踵を返して、出口へ向かった。
「そこのもの、待て、待たぬか」
それは床のやわらかな声で発せられた、攻撃的な子供の声だった。
「犬肉を出す店を知らんかね」
骨皮は努めて平静を装いながら、静かに答えた。
「なんですって?」
「犬肉というたんじゃ。あれが食べとうて食べとうてかなわんのじゃ。」
「さあ…吉祥寺にはないと思いますが」
「ではどこへ行ったら良いのかね?」
「そうですね。インドとか、中国とか、あちらの方に行ってみたらどうです。」
「何。」床は目の色を変えて、立ち上がった。「そなた、わしに土人の国へ参れというのか」
「いいえ、そういうわけでは…」
「わしを舐めとうな?」
「い、いえ、そんなことは」
ガチャン!床はフォークを手に取ると、自分の首筋に突きつけた。骨皮はおもわずヒィ、と叫んだ。近くで注文を取っていた店員が悲鳴をあげた。
「何をしているのですか」
「わからぬか。切腹じゃ。男児たるもの、他の男児にバカにされたら、誇りのために自死するのが当たり前じゃ。悔しかったら、お前も腹を切ってみいや!」
そう言って、床は手元にあったナプキンをハチマキにして頭に巻きつけると、その星を施したネイルの指先で地面の埃を慎重に払い、背筋を伸ばして正座をすると、ワンピースの裾を白装束のように膝の下にしまいこみ、ナイフを両手で握り、腹に向けた。その美しい一連の手さばきに、客も店員も骨皮も、おもわず魅入ってしまったほどだった。
骨皮はハッと我に帰り、床に一歩ずつ近寄り、なんとか説得をしようと試みた。
骨皮はしかし、彼の覚悟の前に、今ここで思いつく限りの自分の言葉は、なんと薄っぺらいものだろうと思った。これが、時代の逆錯誤というものだろうか。
切腹を覚悟した昔の人間の前で、現代人の言葉など、あまりにひ弱が過ぎるというものだった。床の振り上げたナイフが、蛍光灯にきらめき、光ったー
その時、パッと光ったフラッシュに、床の動きがハッと止まった。
「なにあれ、やばー!」振り向くと、店の外に、無数の人だかりができていて、床に向かってカメラを向けているのだった。
どうやら、切腹ショーか何かと勘違いしたらしい。
骨皮は隙を狙って、近くにあったワンプレートを引っ掴むと、「ごめんなさい」と一礼してから、床の頭にごつんとやった。
*
骨皮は気絶した床をタクシーに詰め込むと、「黄金寺まで」と手早く告げた。
森野床をおんぶして、ようやく本堂の中にたどり着く。息を整えている骨皮の目に、タヌキチが人妻を口説いている声が聞こえてきた。
「ふむ。ふむ。いけませんね奥さん。悪いものが取り憑いておるようです…ふむう、これはいけない、これはいかん!」
「あの、どういったものが憑いているのでしょうか」
「ふむ。とてつもなく悪いものには違いないんですがな。ちと、触らしてもらってもよござんすか」
「はあ、もちろんですわ。」
「ふむふむ。これはいかん。これはなんとも!これは厄介な悪霊ですぞ。」
「あらやだ、お坊さま、そんなところに幽霊がつくものなんでしょうかしら。」
「そうですぞよ奥様。亡霊はこういう、ジメジメしたところを好むんですぞ。まあ、ゴキブリやノミなんかと同じですな。しかし、これは時間がかかりますぞ。下手したら今宵一晩、かかるかもしれませぬ。よろしければわしの新しいウォーターベッドで…」
それから骨皮は、どしどしと渡り廊下を駆けてくる、狸の鬼嫁の太鼓のような足音と、金だらいで頭を叩くガツンと言う音、きゃあ!という人妻の悲鳴を聞いた。
それから間も無く取り乱した人妻が慌てた様子で飛び出して来、ハイヒールをつっかけて参道をかけ戻っていく背中を見送ってから、骨皮はそこでようやく、本堂の中へ「おこんにちは、骨皮です」とわざとのんきに声をかけた。
「やあいらっしゃい!」そこには頭にたんこぶを作った狸が一匹、金だらいに雪崩かかるようにして座っていた。殴られた衝撃で、元の姿に戻ってしまったらしい。「なんだねその、清楚なお嬢さんは?え?」
「ちょっと厄介な霊に憑かれているようでしてね。」骨皮は床を、まだ人妻の熱気で暖かな座布団の上に寝かせた。「君の力を借りたいのです」
「ほほう…」タヌキチは粘りつくようなじとっとした目で床を見、それから骨皮を見つめた。
「そのいやらしい目はなんですか」
「いやあ。君がこう言うタイプを好きだったとは、意外だなあと思ってね」
「誤解ですよタヌキチ君」
「君はもっとギャルいのが好きと思っていたんだがねえ。まあ良い良い。そんならささっと、呼んでみるかね」
タヌキチは勝手に一人で納得した様子であった。タヌキというのはこう言う独善的なところがある。あなたももし周りに独善的な友人がいたら、尻のあたりにモフついたものが飛び出してはいないか、とくと観察してみるがよろしい。
話を元に戻そう。タヌキチは手馴れた様子で、頭をぽりぽりやって、鼻くそをホジホジし、尻尾をフリフリしてから、ぽんぽん、と木魚を三回叩いた。すると、床がパッと目を覚まして、ムクッと起き上がった。
その顔には、先ほどと同じ、剣呑で古風な男児の表情がまざまざと浮かんでいた。
「呼んだよ!」タヌキチは尻尾をしまいこむと、骨皮に向き直った。「さて、わしの仕事はおしまい。あとは好きにしてどうぞ」
「あのう、タヌキチさん」骨皮はおずおずと尋ねた。
「ふむ」
「君の降霊術というのは、これだけですか」
「なんだね今更。よおく知っているくせにさ。真のプロフェッショナルの仕事というものは、このように地味で、簡潔なものだよ」
「だけどもう少しこう、ぱあっと光ったり、襖が飛んで行ったり、障子に穴が空いたり、雷がピカピカ光ったり、そういうのを読者諸君は期待していると思うのですが」
「そう言われても困るねえ。そういうのが欲しいなら、よそへ行ってくれたまえよ」
「おお、ガチャガチャうるせえわい!」
気づくと床が抜いた大仏の木刀を自分の首へ突きつけて、二人を睨みつけているところであった。骨皮は真っ青になって、タヌキチの仕舞いかけの尻尾にしがみついて声にならない助けを求めた。
タヌキチはすっかり落ち着いた様子で、
「まあまあ落ち着きなさいよ。お茶でもどうかね?え?」と言った。
「ちゃ、だと!わしを舐め腐っているのか!肉を出せ。犬肉じゃ!」
「ねえ君。一つ言っておくがね、犬肉というのは時代にそぐわぬ一品なんでね、そう簡単には用意はござらんよ」
「何肉ならあるというのじゃ!」そう言って床は、木刀を骨皮の目先に突きつけた。「答えてみい!」
「た、た、タヌ…」震え上がった骨皮がいい終わるより先に、床の頭上に巨大な饅頭が降ってきた。
巨大な饅頭は床の細い体に文鎮のようにのしかかり、身動きをとれなくさせた。
それはタヌキチの得意な空気を饅頭に変える「変化術」であった。
「そうそう、そういうのですよ」骨皮は先ほど「タヌキ」といいかけた事実をごまかそうとして、つとめて明るくそう言った。「そういうのを求めておるんですよ、我々は!」
「さあ、どこぞの暴君よ」タヌキチは骨皮を無視して、穏やかに話しかけた。「君の歴史を聞かせておくれ」
すると床の中の亡霊は、饅頭効果によるものなのか、それともタヌキチの優しさに打たれるものがあったのか、先ほどとは打って変わったように、穏やかに告白を始めた。
*
わしは宮千代というのじゃ。
わしの生まれた時代は、長く続く寒冷な気候と、火山の噴火や大地震や天候不順による、飢饉の時代であった。
わしの生まれは青森じゃった。
しかし東北の諸藩は、財政を維持するために大阪や江戸に米をどんどん回していたので、ろくすっぽ備蓄もなくてのう。
道端には死体が溢れていてのう。数珠を握りしめて、死体を踏まないように避けながら、毎日お寺さんまで通ったもんじゃ。
下手に踏んづけでもしたら、怒られるからのう。「うちの夕飯に何をするんじゃ!」とな。
わしは毎日、仏さんに祈り続けた。生まれてくる妹が、無事に生きられますようにと。
それから一ヶ月もしないうちに、隣の家の爺様が死んだ。食べ物を食べる順番は、若い者から食うと決まっておったので、年寄りは面白いくらいにどんどん死んだ。
だが噂によれば、隣の家のじいさんはバカみたいに食うたので、家のモンが蔵に閉じ込めて殺したということじゃった。
だがわしらの家のモンは、仏教の教えを信じおった。現世で悪いことをしたら、来世で必ず報いが来る。その逆もまた然りじゃと。
それでも、食物はどんどん減っていく一方じゃった。草や猫の肉まで食った。わしは何度も思うたもんじゃ。仏様なんて、本当はいないんでないかと。だけど、生まれてくる妹のことを思い出して、必死に自分を奮い立たせた。
そんなある日、とうとううちのじい様が死んだ。
するとその晩一人の女性が訪ねてきて、こういうのじゃ。
「こちらの爺さんが亡くなったと聞きました。どうか片身なりとも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか、うちの爺さんもせいぜいあと二、三日かと思われますので、すぐにお返しに上がります」
わしらはもちろん断った…しかしわしらは追い詰められていた。
そんなある日、わしはとうとう、見てしまったのじゃ。
それはわしがお寺さんから帰ってきて、腹の空いたあまりに、からっぽの米びつの底をペロペロやってる時じゃった。
隣の部屋から、音が聞こえた…
ずる。ずる。ずる。
わしは最初、大蛇が這っているのだと思うた。腹を減らした大蛇が、わしの家族を丸呑みにしに来たのじゃと。
わしは震える手で米びつをつかみ、そっと音のする方へ歩いて行った。ひどく冷たい夜じゃった。フッと見上げた三日月は、刺さるように尖っていた。
音が近くなってくる。わしは米びつをぎゅっとつかんで、大蛇の頭を見たら、それで殴りつけるつもりじゃった。
わしは勢いよく障子を開けた。そうして、見てしまったんじゃ。おっ母が、赤子を胎内から引きずり出しているのを。
何をしとるんじゃ。わしが尋ねると、おっかあは当然のように、食べさせるものがないので殺したんじゃ、と答えた。
わしは弾けるように飛び出した。走って走って走りまくった。どこまでも追いかけてくる月が恐かったのを覚えておる。
河川敷で、大きな何かにつまづいた。それは大きな犬の死骸じゃった。わしはその肉をひっつかんで食べた。
気づいたら、わしは涙を流しておった。
悲しくて、じゃない。苦しくって、でもない。
ただ、美味しくて美味しくて、たまらなかったのじゃ…
それが、わしが最後に食うた肉の味じゃった。
わしはあの肉をせめて最後にもう一度食いとうて食いとうて、かなわんのじゃ…




