第四話 フレームアウトの亡霊 その2
それから三日後。
メジロにもらった名刺の裏に書かれてあった番号に恐る恐る電話をかけると、一回目のコールが鳴る前に、本人が出た。
「はあい、目黒川メジロです」
「あの、どうも、私、骨皮と申しまして」
「はいはい、ええと、ホネカワさん?はい、こんにちは」
「はあ、こんにちは、あの、私、先日目黒でお会いしたものですが」
「ああ、はいはい、ええと…目黒?あの、さんまくださった方?」
「いえ、違います。ファミレスで少し、お話ししたものです。」
「ええとすみません、2万円くださった方?」
「いいえ、違います。あの、お金、払わなかったものです。」
すると、メジロのトーンが、ガラリと下がった。「…ああ、あの人か」
骨皮はめげずに続けた。
「実は、あの、あなたに写真をお渡ししたくて」
「写真?私のですか?」
「ええ、そうなんです。あの後、もう一度よく見てみたらですね、その…(幽霊が)よく、撮れてることに気がつきまして」
「へえ?」声のトーンが、一段階上がった。
「そんなに、よく撮れてました?」
「ええ、そうなんです。それでその、現像したお写真と、謝礼をですね、是非、お渡ししたいと思いまして」
「そうですか」メジロは歌うように答えた。「そういうことなら、いいですけど」
早く自分の写真とお金をもらいたいメジロと、アダムジョッキーの幽霊を確認したい骨皮とは、次の休日まで待てなかったので、その夜に、横浜のスタジオで待ち合わせを決めた。
*
そのスタジオはかつては工場だった、大きな倉庫を改造したもので、コマーシャル撮影や映画の撮影に使われている、有名なスタジオだった。骨皮もかつてここで仕事をしたことがあるので、よく知っていた。その時はある有名なカメラマンの助手として働いていたのだが、骨皮が近づくたびに心霊現象が起こるので、クビにされたのだった。
待ち合わせ場所はスタジオの前であったが、約束の七時になってもメジロは現れなかった。時計の針はすでに八時前を指している。
骨皮はそっと門の隙間から、スタジオの中を覗き込んだ。巨大なクレーン機材や、照明器具が運ばれてゆく。寝不足でゾンビのように青白い顔をしたスタッフたちが駆け回っている。撮影に使うのだろうか、象や馬たちが列になって進んで行く。その光景は骨皮の職業的好奇心を刺激した。
骨皮はカメラ機材を運ぶスタッフたちにまぎれて、中へとそっと忍び込んだ。
四番スタジオの中では、CMの撮影が行われていた。骨皮はいつものように闇に紛れて中へと進んでいった。
カメラの前では、休憩中の有名な人気女優バッキーが、スタッフ数人と輪になって談笑をしている。その美しさはやはり他とは桁違いであり、骨皮は凝視しないようにするので精一杯であった。
カメラの傍で、監督とカメラマンが画角のことで激しく言い争っている。プロデューサーと代理店の人々が各々パソコンに向かって何かをカチャカチャと打ち込みながら今回の広告の方向性とバッキーの可愛らしさについてのんびり話し合っている。美術のスタッフが疲れ果てた顔で隅っこの方へぼんやり腰掛けている。照明スタッフがライトの位置をせせこましく調整している。
骨皮は突然向けられたライトのきらびやかさに思わず目をつむった。ライトは骨皮を一瞬てらしただけで、すぐステージの上へと移動した。骨皮は光に目をやられて、しばし呆けたように佇んでいた。
そうしているうちに、なんだか、莫大な金額と人数が動いている彼らの仕事に比べて、自分のやっている仕事がなんともちっぽけなものに思えてきて、骨皮は悲しくなった。そうして、早くここを立ち去ろうと思った。メジロがもう来ているかもしれないしー
その時、骨皮の喪服のポケットでケータイがぶぶぶと震えた。見ると、メジロからのメールが入っていて、「すいませんけど、もう少し待ってもらえますか。カメラマンと監督が、さっきから、バカみたいなことでもめてるんです。」という内容だった。
骨皮ははっとして、あたりを見渡した。するとやはり、目黒川メジロが、スタジオの端っこの、光の当たらぬジメジメとした場所に、紙コップをくわえて、座っているのだった。その存在感のなさは、骨皮のそれと、なかなかいい勝負であった。
*
声をかけようとして、骨皮は思いとどまった。そもそも骨皮は無断でここへ入ってきたのだし、メジロはあれでも仕事中なのである。しかし骨皮を何よりも躊躇させたのは、メジロのその陰鬱な横顔であった。
「スタンドインさんお願いしまーす!」
スタッフの声が高いスタジオの天井に響く。メジロが慌てて立ち上がる。よく見るとメジロはバッキーと同じ、純白のワンピースを着ている。
メジロはカメラの前に立った。キャップをかぶったデブのカメラマンがファインダーを覗き込む。ヒゲの監督がじっとモニターを見つめて、スタッフを手招きで呼び寄せる。
「あのさあ」
「はいっ」
「あのスタンドイン、君が発注したの?」
「はいっ、そうです」
「バッキーとだいぶ違くない?」
「そうでしょうか」
「どう見たって違うだろ。おかしいだろ。バッキーあんなに足太くないだろ。顔ももっと小さいしさあ」
「でも、プロフィールを見る限り、バッキーさんと同じだったのでー」
「ばかやろう!」監督の罵声が響く。スタジオ内が一瞬にして静まり返る。
「はいっ」
「お前なあ。何のためにスタンドインがいると思ってんだよ?ええ?」
「タレントを疲れさせないための、カメラ前の身代わりです。人形です。」
「そうだよなあ!」
「はいっ」
「これじゃあカメラ位置決められねえってことも、わかるよな?」
「はいっ、わかります」
「くそ、バッキー本人に頭下げて、入ってもらうしかねえよ」
「はいっ」
「ほらそんならもうあの子いらないから、どかしてどかして!」
青年スタッフが、メジロの方へ駆け寄って行く。メジロに軽く頭を下げて、「すいません」と軽い謝罪を繰り返している。
「ほらあ、早くしろ!邪魔なんだよ!」
カメラマンの罵声に、メジロはすごすごとカメラの前をどく。先ほどのジメジメとした椅子の前まで戻ると、椅子から落ちた紙コップを拾い上げて、もう一度椅子の上に置いた。長い髪が邪魔をして、その表情はうかがえない。
するとそこへ、一人のプロデューサーらしき男性が穏やかな笑顔でメジロに近寄って行って、優しい猫なで声でこういった。
「その服、大事なものだからさ、シワとかつけないようにして、返しといてね。それじゃあ、お疲れ様。」
メジロはぼそぼそと、「はい、わかりました」と行って、お辞儀をした。先ほどまでメジロが立っていたカメラの前には、バッキーがたくさんのスタッフに囲まれながら立っている。瞬く間にカメラ前の殺伐とした雰囲気は明るい、温和なものとなって、光量も、スタッフの士気も上がっていく。
「ああ、やっぱりバッキーは絵になりますねえ」と、画面を覗き込んだ代理店の人間が呟いた。
メジロはすべてに背を向けて、控え室に帰るかと思われたが、ふと足を止め、振り向いて、スタッフたちの意識がカメラの方へ向けられているのを確認すると、スタッフ用のお菓子を両手いっぱいに抱えて、鞄に詰め込んだ。その間、ほぼ三秒もなかった。そうして何事もなかったかのような顔をして、スタジオを出て行った。誰に挨拶をすることも、されることもなく。
「それでは、本番まいりまーす」
骨皮はその声にはっと我に帰り、慌ててスタジオを飛び出した。