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悪の剣  作者: Dai


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第21話 檻の職場(後編)

それから、日々はただ続いた。

朝は早く。

夜は遅く。

境界のない労働時間だけが積み重なっていく。

カズマの机には常に通知が鳴っていた。

『まだ?』

『なんで終わってないの?』

『他の人はできてる』

最初は焦りだった。

次は疲れだった。

そして今は――何も感じない時間が増えていた。

(もう、わからない)

仕事を辞めるという選択肢は、最初から存在していないように思えた。

辞める勇気ではなく、辞めた後の現実が怖い。

だから続けるしかない。

それが“普通”になっていく。

ある夜。

ビルの中はまだ明るい。

カズマは一人、残業をしていた。

指は動いているのに、意味が追いつかない。

その時。

ドアが開く。

上司だった。

「まだ終わってないの?」

ため息混じりの声。

「期待してたんだけどなぁ」

書類を机に置く。

「まあいいや。明日までで」

それだけ言って、帰ろうとする。

カズマは笑えなかった。

「……すみません」

その声は、もう感情が抜けていた。

上司はドアの前で一言だけ吐き捨てる。

「使えないな」

その言葉で、何かが切れた。

(もう……無理だ)

視界が揺れる。

呼吸が浅い。

胸の奥が締め付けられる。

逃げ道がない。

やめたいのに、やめられない。

誰にも助けを求められない。

(もうダメだ……限界だ……)

その時だった。

ふと、あの言葉が蘇る。

――助けてほしい時は、助けてと言え。

(……誰にだよ)

(こんな状況で……誰に……)

カズマは机に手をついた。

指先だけが震えていた。

呼吸が荒くなる。

そして――

「……もう無理だ……」

「助けてくれよ……」

それでも足りない。

もっと奥から声を出すように。

「……助けて……」

まだ足りない。

喉が裂けるほどの声。

「助けてぇぇぇ!!」

その瞬間だった。

空気が止まる。

廊下の奥から、音。

コツ……

コツ……

ゆっくりとした足音。

カズマは振り向く。

黒いスーツ。

包帯。

木刀。

政宗。

「……聞こえたぞ」

カズマは震えていた。

「……え?」

「よく言った。」

政宗は一歩だけ前に出る。

その足音すら、異様に静かだった。

カズマの視線の先で、上司が顔をしかめる。

「なんだよお前……勝手に入ってくんな!」

政宗は答えない。

ただ、ゆっくりと上司の方へ歩く。

逃げるでも、急ぐでもない。

“確信だけの歩み”。

「これは仕事ではない」

「支配だ」

「この構造の中では、人は逃げられぬ」

上司が苛立つ。

「関係ない奴が口出すなって言ってんだよ!」

政宗は止まる。

静かに言う。

「関係ない人間など、いない」

空気が変わる。

カズマの呼吸が浅くなる。

上司が笑う。

「正義ごっこかよ」

その瞬間。

政宗は机に視線を落とす。

ゆっくり木刀を抜く。

そして――振る。

机に深い亀裂が走る。

カズマは一瞬、それが何を意味するのか分からなかった。

書類が宙に舞い、キーボードがずれ落ちる。

少し遅れて、乾いた破裂音が響いた。

上司の顔が固まる。

「……は?」

政宗は静かに言う。

「これは警告だ」

カズマは動けない。

理解が追いつかない。

ただ、“終わった何か”だけが見えている。

政宗はカズマを見る。

「立てるか」

カズマはゆっくり立つ。

足が震えている。

でも立っている。

「……立てます」

政宗は頷く。

「なら十分だ」

そして、少しだけ視線を窓へ向ける。

少し開いた窓から、外の静かな夜風が入り込んでいた。

カズマの机の上には、まだ消していないデータがあった。

チャット履歴。

勤務記録。

圧力の証拠。

政宗はそれを見て言う。

「それでいい」

静かに続ける。

「助けを求めることは、逃げではない」

「自分を守る選択だ」

カズマは唇を噛む。

政宗は背を向ける。

「終わらせるかどうかは、お前次第だ」

そのまま歩いていく。

上司は何も言えない。

ただ崩れた空気の中に立っている。

翌日。

会社は静かだった。

だが、それは“終わった静けさ”ではない。

“崩れ始めた静けさ”だった。

カズマは机に座っていた。

カズマはスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。

手は震えている。

送れば、すべてが変わる。

会社も、自分の立場も、何もかも。

(……本当にこれでいいのか)

指が止まる。

その時だった。

ふと、あの夜の言葉が頭をよぎる。

――自分で動くことも忘れるな。

――証拠を掴め。

――壊す側ではなく守る側になる第一歩だ。

政宗の声だった。

あの時は、ただ怖さの中で聞いていただけだった。

でも今は違う。

(証拠は、もうここにある)

カズマは画面を見つめる。

逃げでもない。 衝動でもない。

自分で選んでいる。

深く息を吸う。

そして、送信した。

社内ログ。

勤務実態。

パワハラの記録。

すべてが外へ出る。

その瞬間から、空気が変わる。

社内チャットが止まる。

上司の説明が追いつかない。

隠れていた構造が、ゆっくり崩れていく。

午後。

カズマは呼び出される。

だが、もう以前のように怖くはない。

退職届を机に置く。

「辞めます」

それだけだった。

上司は何も言えない。

カズマは一礼もしない。

ただ、歩いて出ていく。

ビルの外。

夜と朝の境目の空気。

政宗はいない。

ただ風だけが残っていた。

カズマは一度だけ振り返る。

(終わったのか……)

そして、すぐに思う。

(いや)

(始まったんだ)

ビルの中では、まだ誰かの通知音が鳴り続けていた。

それは、昨日のカズマの音と同じだった。

歩き出す。

もう、戻らない方向へ。

カズマは歩きながら、ふと手のひらを見た。

そこにはもう、震えはなかった。

ただ、少しだけ汗が残っていた。

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