第19話 暴走の影
夜。 帰宅ラッシュの道路は、ゆるやかな流れを作っていた。
白いセダンを運転するサラリーマンは、疲れた顔でハンドルを握っていた。
「……やっと帰れるな」
その一言は、小さく安心を含んでいた。
だが、その安心はすぐに壊れる。
バックミラーの奥。 黒い車。
異様に近い。
「……え?」
気づいた瞬間、車間距離はほとんどゼロだった。
(近すぎる……!)
信号で止まる。 そのたびに、黒い車は同じ位置に“戻ってくる”。
車線を変える。 追い越そうとする。 それでも――黒い車は必ず後ろにいる。
逃げているはずなのに、逃げられていない。
「なんだよこれ……!」
ハンドルを握る手に汗が滲む。 呼吸が浅くなる。
クラクションを軽く鳴らす。
その瞬間。
キィィィッ!!
黒い車が横に飛び出した。 わざと前へ出て、ゆっくり減速する。
塞ぐ。
進ませない。
逃げ道を消す。
「……ふざけんなよ……!」
声が震える。
(動きが全部読まれてる……?)
道路そのものが“檻”に変わっていく感覚。
その頃。
少し離れた歩道。
黒いスーツの男。 包帯。 木刀。
政宗。
彼はすでに立ち止まっていた。
「……歪んでいる」
言葉はそれだけだった。
だが視線は真っすぐ道路へ向いている。
そして歩き出す。 走らない。 迷いもない。
交差点。
黒い車は、白いセダンを完全に塞いでいた。
逃げ道なし。
ドアが開く。
男が降りる。
「降りろよコラ!!」
怒鳴り声。
サラリーマンは動けない。 指先が冷たくなっている。
(終わる……?)
その思考を断つように。
「やめよ」
声。
空気が変わる。
街灯の下に、政宗。
男が睨む。
「誰だテメェ!」
政宗は答えない。
一歩。 また一歩。
近づくたびに、空気が重くなる。
サラリーマンは直感する。
(この人……来た瞬間から“違う”……)
男が叫ぶ。
「ちょっと遊んでただけだろ!!」
その言葉に、政宗の目がわずかに細くなる。
「遊びではない」
その瞬間。
黒い車が急発進。
一直線に突っ込む。
キィィィッ!!
サラリーマンが叫ぶより先に。
政宗は動かない。
直前で、半歩だけ横へ。
ただそれだけで、車は空を切る。
ドンッ!!
縁石に乗り上げて停止。
静寂。
サラリーマンは震えていた。
「……今の……見えなかった……」
黒い車の男は焦る。
「なんなんだよお前……!」
政宗はゆっくり木刀に手をかける。 まだ抜かない。
それなのに――場の空気が“終わり”の形になる。
「お前は、恐怖を遊びにした」
男が笑おうとする。
「ただイラついてただけだって!」
その言葉を、政宗が切る。
「その一瞬が、命を壊す」
静かな声だった。
サラリーマンの脳裏に、自分の数分前の恐怖が蘇る。
(これが……続いていたら……)
逃げ場のない恐怖。
それは確かに“暴力”だった。
その時。
遠くからサイレン。
複数の警察車両。
同時に、ドラレコの自動通報が入っていた。
逃げ道はもうない。
男の顔から色が消える。
「……冗談だろ……」
政宗は静かに言う。
「冗談で済む話ではない」
木刀を抜く。 しかし振らない。
ただ構えるだけ。
それだけで男は一歩も動けない。
やがて男は崩れるように膝をついた。
「……もうやらねぇ……」
声は弱い。
政宗は見下ろす。
「遅い」
「悔いるなら、最初からするな。」
政宗は木刀を静かに腰へ差した。
その瞬間、男は完全に力を失った。
「警察だ! 動くな!」
「映像は確保している。」
警察官たちが男を取り押さえる。
黒い車は回収される。
証拠はすべて揃っていた。 過去の煽り運転の履歴も明らかになった。
逃げる余地はない。
サラリーマンはようやく息を吐く。
「……助けて、くれたんですよね」
政宗は振り返らない。
「助けではない」
「ただ戻しただけだ」
「この道の形を」
風が吹く。
政宗は歩き出す。
サラリーマンはその背中を見送る。
もう見えない。
だが確かに思う。
(あれは……人間じゃない)
政宗は夜の中へ消えていく。
その先には、さらに深い“歪み”。
まだ、終わっていない。




