第10話 傷の家
朝の橋の下は、まだ冷たかった。
川の流れる音だけが、静かに空気を揺らしている。
パシッ、と乾いた音が響く。
「いてっ!」
ユウキは尻もちをつき、砂の上に手をついた。
顔をしかめながら見上げると、そこには木刀を構えた侍が立っていた。
包帯の奥の目は、いつも通り冷静だった。
「遅い」
短い一言。
「またそれかよ……」
ユウキは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「振りも甘い」
「足も止まる」
「全部ダメじゃん、俺」
「全部ダメだから言っている」
即答だった。
ユウキは苦笑するしかない。
「ひどいな……」
侍は木刀を肩に担ぎ、淡々と続ける。
「少年、強くなりたいと言ったのはお前だ」
「言ったけどさぁ……」
「泣き言を言うな」
「言ってないって!」
侍はため息をひとつ吐く。
「これからは毎朝ここへ来い」
「え?」
「鍛えてやる」
ユウキは目を見開いた。
それは、侍の方から言った初めての言葉だった。
少しだけ沈黙が流れる。
「……行くよ」
「なら来い」
それだけだった。
だがユウキの胸の奥には、妙な熱が残った。
学校の昼休み。
教室はいつも通り騒がしい。
しかしユウキは、ある一点に違和感を覚えていた。
ミオ。
同じクラスの女子。
最近ずっと笑っていない。
誰とも話さない。
ただ静かに、何かに怯えているようだった。
体育の授業のとき。
ミオが腕を押さえた瞬間、袖がわずかにずれた。
そこに見えたもの。
紫色の痣。
一つではない。
重なるように、いくつも。
ユウキは息を止めた。
(……なんだよ、それ)
ミオはすぐに袖を戻し、目を伏せた。
放課後。
ユウキは橋の下に走っていた。
「なあ、おじさん」
侍は視線を上げる。
「何だ」
「同じクラスの女子なんだけどさ……」
「ほう」
ユウキは少し言葉を選ぶ。
「最近ずっと様子がおかしい」
「様子?」
「怯えてるっていうか……今日さ」
ユウキは息を吸う。
「腕に痣があった」
侍の目がわずかに動いた。
「転んだって言ってたけど、たぶん違う」
川の音だけが、やけに大きく聞こえた。
侍は少しの間黙っていた。
そして静かに言う。
「ならば見ろ」
「え?」
「真実を見てから決めろ」
ユウキは戸惑う。
「どういう意味?」
侍は視線を逸らさずに続けた。
「思い込みで人を裁くな」
その言葉に、ユウキは少し驚いた。
昔なら、真っ先に動く男だった。
「まず確かめろ」
「……分かった」
侍はそれ以上言わなかった。
その夜。
ミオの家。
部屋には酒の缶が散乱していた。
空気は重く、息が詰まりそうだった。
「金はどうした!!」
怒鳴り声が響く。
「生活費で……!」
バシッ!!
母親が床に倒れる。
「やめて!!」
ミオの叫びも届かない。
父親は怒りに任せて母親を突き飛ばす。
「邪魔だ!!」
机にぶつかり、鈍い音が響いた。
ミオは震えながら叫ぶ。
「お母さん!」
だが父親の目は、すでに壊れていた。
「こっち来い」
ミオの体が固まる。
「最近生意気だな」
一歩、また一歩。
ミオは後ずさる。
「父親だぞ?」
肩を掴まれる。
「やめて……」
その声は、すでに震えていた。
その目を見た瞬間、
何を恐れているのか分かった。
母親
「やめて!!」
必死に間へ入る。
父親
「邪魔するな!!」
母親が殴られる。
ミオ
「お母さん!」
父親
「部屋に戻れ」
ミオは泣きながら母親を抱きしめる。
父親は舌打ちをして部屋へ戻った。
乱暴に扉が閉まる。
家の中が静かになる。
だが――
誰も安心していなかった。
母親は震えていた。
ミオも震えていた。
誰にも助けを求められない。
誰も助けてはくれない。
そんな夜だった。
翌日。
職員室は異様な空気に包まれていた。
「その腕の痣、どうしたの?」
担任の問いに、ミオは小さく答える。
「転んだだけです」
「本当に?」
ミオは黙る。
養護教諭が優しく言う。
「無理に話さなくていいからね」
その瞬間だった。
涙が落ちた。
ドンッ!!
扉が開く。
「ミオォォォ!!」
父親が乱入する。
空気が凍る。
「余計なこと喋ったのか!!」
担任が止めに入る。
「落ち着いてください!」
バキッ!!
担任が吹き飛ぶ。
悲鳴が上がる。
「俺の家族に首突っ込むな!!」
机が蹴り飛ばされ、書類が宙に舞う。
誰も止められない。
「ミオ!!来い!!」
ミオは震える。
そのときだった。
「見苦しいな」
静かな声。
全員が振り返る。
職員室の入口。
黒いスーツ。
包帯の男。
侍だった。
「おじさん……!」
ユウキが呟く。
父親は怒鳴る。
「なんだお前!」
侍は一歩前に出る。
「妻を殴り」
「娘を怯えさせる」
さらに一歩。
「弱き者しか傷つけられぬか」
「うるせぇ!!」
父親が殴りかかる。
だが、届かない。
パシッ。
木刀が腕を弾く。
「ぐっ!」
足払い。
床に倒れる。
さらに一撃。
肩を打たれ、動きが止まる。
「終わりだ」
静かだった。
やがて警察が到着し、父親は連行された。
ミオは泣き崩れ、母親も泣いていた。
だが――
ユウキが振り返ったとき。
「……あれ?」
そこに侍の姿はなかった。
夕方。
橋の下。
いつもの場所。
「先に帰るなよ」
「目立つのは好かぬ」
ユウキは苦笑する。
「相変わらずだな」
少しの沈黙。
侍がぽつりと言う。
「お前は」
「ん?」
「ユウキであったな」
ユウキは笑う。
「うん」
侍は頷く。
「覚えておこう」
「今まで覚えてなかったの?」
「少年で十分だった」
「ひどっ!」
侍は何も言わない。
だが、その表情は少しだけ柔らかかった。
そして、空を見上げる。
「俺の名は――伊納政宗」
「え?」
「昔の名だ」
ユウキは少し照れたように笑う。
「じゃあ政宗さんだな」
侍は首を振る。
「政宗でいい」
「じゃあ俺もユウキでいい」
「少年でいい」
「まだ言うのかよ!」
夕焼けが橋の下を赤く染める。
この日から――
二人の関係は、少しだけ変わった。




