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「よし、ここだね」


 コンパスから伸びる赤い糸を頼りに、私たちは目的地へとたどり着いた。

 セミも飛んでこなさそうなほど高い場所。さっきよりも空が近く感じるし、太陽の熱も強く感じる。キャンパス内を歩く人がゴマ粒みたいに小さいし……。我ながら、よく、ここまで上がれたものだ。


「今、やりきった顔をしているね」

「さすがに六階を自力で上がるとね、妙な達成感が湧いてきちゃった」

「案外、芹香は体を動かすことが好きかもしれないね。何かスポーツをしてみるのもいいかも」

「確かに……。体を動かすと、記憶の戻りも良さそうだしね」


 そんな本気のような冗談をフミと話していると、赤い糸がピンと張る。

 見ると、廊下の先に一人の女子がいた。黒い髪は腰ほどあり、大人しそうな顔をしている。手には楽器を持っていた。といっても袋に包まれているから、何の楽器かは分からない。長細いから、フルートだろうか?


「え、芹香?」

「……ん?」


 目の前の生徒について、様々なことを考えていると。

 その子が私を見て、目を丸くした。


「芹香じゃないの。どうしたの、メールも返さないで!」

「え、っと……?」


 私のことを知っている? しかも、こんなに親しげに接してくれるということは……

 彼女が、私の記憶にある「大学でできた唯一の友達」なのだろうか?


「彼女は、今回の手紙の受取人だよ。まだ君は思い出せていないようだし、僕が間に入ろう」


 彼女が目の前に来る前に、フミがコソッと耳打ちする。

「初めまして」と言ったフミを見て、彼女はやっと、彼の存在に気づいたようだった。警戒しながら「誰?」と、私の隣に並ぶフミを見つめる。


「実は藤村さんは事故にあってね。少しの間、入院していたんだ」

「え、事故? 入院? それは本当なの、芹香!」


 両肩をつかまれて、ぐわんぐわんと揺すられる。この衝撃で一気に記憶が戻ればいいけど、三半規管が弱い私には、酔いによる気持ち悪さだけが残る。


「あ~、まだ病み上がりだから、慎重にね」


 フミが遠慮がちに言うと、その子の手は、機械のようにガシンと止まる。青い顔を見るに、ワワワという感じだろうか。


「ハッ! そ、そうですよね……。ごめんね、芹香」

「う、ううん」


 見た目に反して、パワフルな子だ。私は頭に星を浮かべながら、目の焦点を合わせ直す。


「事故といっても自転車で転んだだけだし、入院もね、頭を少し縫ったくらいなの」

「そうなんだ、頭を……。でも退院してるってことは、良くなってるってことだよね?」


「うん」とうなずこうとしたら、隣のフミが「見た目はね」と合いの手を入れた。瞬間、女子の顔がグワッと険しくなる。


「どこ? どこが調子悪いの⁉」

「え、えっと、頭の中が……」

「中が⁉」

「記憶喪失になっちゃって……」

「記憶喪失⁉」


 スルッと楽器を落としてしまったけど、そこは何とかフミが抱き留めた。当の本人は落としたことさえも気づかず、潤んだ瞳で私を見る。


「それじゃあ私のことは? 覚えてる?」

「えっと……」


 ごめん――と素直に言えなかった。これを言ってしまうと、彼女を傷つけてしまうと何となく分かったから。

 いたたまれない気持ちになり、真っすぐ私を見つめる彼女から視線をそらす。

 とは言え、そこまでの反応をしてしまうと「覚えていない」と言っているのも同じことで……。軽率な行動だったと気づいたのは、彼女の瞳からスーッと涙が零れた後だった。


「あ、あの……」

「ごめん。泣いたりして……。いやね、私、芹香が私に話しかけてきてくれたことが嬉しかったからさ。友達になれたことも、本当によかったなって思っているし」


 彼女は涙を拭きながら、「よし」と。自分の頬をペチンと叩く。


「泣いてても仕方ないよね。今一番辛いのは芹香なんだし。それに、私のことを覚えてないならさ――

 もう一回、私と友達になってくれないかな?」

「え?」


 私よりも、ズッと鼻を啜る彼女の方が、ずっと気丈だった。

 スリムなロングスカートが、彼女の芯を表すように、シワ一つなく真っすぐ伸びている。


「私、かなりの人見知りだし臆病者だから、芹香が話しかけてくれなきゃ、きっと私たち友達になれなかった。でも芹香が話しかけてくれて、友達ができて……。私の大学生活、すっごく楽しいの」

「……うん」


 記憶があれば、きっと私も同じことを思っているだろう。これほど私との関係を大事に思ってくれる人は、そうそういないと思うから。


「だから夏休みも沢山遊ぼうと思っていたのに、メールしても一向に返事がないし……。もしかして芹香と友達になれたと思っていたのは私だけだったかな? って不安だったの」


 でも、まさか記憶喪失になっていたなんて――と。フミがさりげなく渡していたティッシュで、彼女は涙を拭く。

 申し訳ない気持ちでいると「でも大けがじゃなくてよかった」と。最後には、私の身を案じてくれた。

 彼女の一連の動作が、私の胸に強く響いて、どうしようもなく嬉しい。この子と友達になれるなら、私は幸せ者だ。


「私からもお願い。もう一度、友達になってほしい。名前、教えてくれるかな?」

「もちろん! 丸内美夜子まるうちみやこだよ。みやって呼んでよ、芹香!」

「うんっ。あ、連絡先も交換していい? スマホが壊れちゃって……」


 正直に白状すると、みやちゃんは「えぇ⁉」と声を上げる。


「記憶喪失でスマホも壊れて……。よくこの大学にたどり着いたね。

 あ、もしかしてその人は家族?」

「「え」」


 フミと顔を見合わせる。この場合、なんと紹介するのが最善だろう。


「失礼、自己紹介が遅れました」


 私が一人で狼狽えていると、フミが懐から手紙を出した。ということは、包み隠さず話す気なんだ。……それもそうか。本来は私の友達探しではなく、手紙の配達を目的としていたのだから。


「初めまして、丸内さんですね? あなた宛てに手紙を預かっています。こちらを」

「え、手紙?」


 みやちゃんは、ジッとフミを見た後。少しだけ眉を顰める。

 無理もない。知らない人からいきなり「手紙です」と言われても、普通の人なら戸惑う。郵便局員でもないのに、大学まで押しかけてきちゃったわけだし。


「住所も宛名も、何も書かれてない……。本当に私宛なの?」

「はい、間違いなくあなた宛てですよ。差出人は、封筒を開ければ分かります」

「……わかった」


 みやちゃんは封筒を開ける。今さらだけど、封筒って糊付けされていないんだ。


 それなら私の手紙も、記憶を思い出さなくても中身を取り出せるかもしれない――と思ったけど、私の手紙は外郭だけ縁どられており、手紙は透明であることを思い出した。もし糊がついてなくとも、スケルトンでは触れることさえ叶わない。


 やはり記憶を持つ者と、持たぬ者。この差を埋めないことには、いつまで経っても私は手紙を開けられない。


「え、これって……」


 便箋を開いたみやちゃんは、ギョッとしたようだった。何が書いてあったのだろう?

 気になってソワソワしていると、みやちゃんが私の視線に気づく。


「手紙は、友達に見せても?」

「大丈夫ですよ」


 フミが笑みを浮かべて返事をすると、みやちゃんが私に向き直る。


「芹香、驚かないでね?」

「う、うん……」


 みやちゃんの真剣な瞳。

 彼女をここまでにさせる手紙って?


 戸惑いながら、みやちゃんが見せてくれる手紙に視線を落とす。その瞬間、私も彼女と同じ顔になる。だって、便箋に書かれていたのは――


「お~、これは面白い」


 固まった私たちを、背の高いフミが上から覗き見る。そのまま手紙へ視線を移し、フハッと笑みを零した。


「かわいい肉球だねぇ。泥を使ったのかな? でもキレイについている」


 そう。便箋の真ん中には、犬の肉球が一つ。茶色のインクは妙にデコボコしているから、フミの言う通り、泥なんだろうな。だけど……犬が手紙?


「そんなことってあるの?」

「大切な人に何かを渡したいと思うのは、何も人間だけじゃない。この犬も、丸内さんに『自分の気持ちを渡したい』と思った。その手段が、手紙だった。それだけのことだよ」

「それだけって……」


 犬が手紙を書く、なんて聞いたことがない。芸でも仕込んでいたのかな?

 するとこの場にズッと、再び鼻をすする音がする。見ると、みやちゃんが目から大粒の涙を落としていた。


「二週間前にね、私が生まれた時から一緒だった飼い犬が亡くなったんだ。毎年、犬の足型をとっていたんだけど、今年は叶わなくて……。

 眠るあの子を前に『今年も足型を取りたかった』って言っちゃったの。

 もしかして、私の願いを叶えてくれたのかな?」

「うん、そういうことだね」


 ニッと爽やかな笑みを浮かべるフミ。言い切っちゃっていいのかな?って思ったけど……。

 今ここにある手紙は、フミが差出人から受け取った物だ。つまりフミは、亡くなった犬に会っている。犬がどんな気持ちで手紙を書いたのか、きっとフミには伝わったのだろう。

 そのことに、みやちゃんも気づいたらしい。

 こんなことをフミに訊いた。


「犬は……ココは笑っていましたか?」

「うん、もちろん。体は白い毛。でも前足だけ、ソックス履いたような茶色の毛。

 あの子はシーズーだね? ハッハッて息を吐きながら、走って僕に近づいてきてくれたよ。撫でようとした瞬間、ピャッとひっかかれちゃったけどね」


 フミが自分の頬に手を伸ばす。

 あの出来たてホヤホヤの傷は、ココちゃんから受けたものだったんだ。

 みやちゃんは「あぁ」と、申し訳なさそうに眉を下げる。


「ココは人見知りが激しくて、初めて会う人には、つい手が出てしまうんです。すみません」

「急に撫でようとした僕が悪いから。それより、可愛いワンちゃんだね」


「特に足がさ」と言うフミに、みやちゃんの顔もほころぶ。


「そういえば、ココに会う人はいつも『ソックス履いてる』って言ってくれたなぁ。

 そっか、今は走り回ることができるんだ。よかったぁ」


 うれし泣きするみやちゃんが、ココちゃんは老衰で歩くこともままならなかったと教えてくれた。みやちゃんが生まれた時から一緒にいるってことは、十八歳前後。もう姉妹みたいなワンちゃんだったんだ。


「ココの最後の足型が届くなんて。これ以上ない宝物だよ。本当にありがとう。

 これを支えに頑張るから、ココは私を気にしないで、天国でたくさん遊んでね」


 便箋を胸に置き、シワが寄らないように抱きかかえる。

 さっき友達と知ったばかりの子だけど、目の前でこんな光景を見てしまっては……私の目も潤んでしまう。

 震える彼女の肩にそっと手を置くと、涙でキラキラ輝く瞳と視線が合った。

 私の手の上に、自分の手を重ねたみやちゃん。「ありがとう」と、声を絞り出した。


「さぁて」


 手を握り合う私たちを見たフミが、今度は私の肩を抱き寄せる。……あ、このまま私もろとも姿を消す気なんだ。昨日、手紙を渡したおじいさんの前で、そうしたように。


「まっ――」


 さすがに友達の前で消えるのはマズイ!

 フミを止めようとした私。それと同じタイミングで、みやちゃんが「そういえば」と手を叩く。


「芹香もココと会ったことあるんだよ。覚えてる?」

「……え?」

「幼稚園が一緒だったんだ。家も近所だったし、よく遊んでたんだよ。これも覚えてない?」

「ごめん……。何も思い出せなくて……」


 やっと納得がいった。どうして内気そうな私が、勇気をだして友達を作ることができたのか。

 その理由は、みやちゃんに昔の面影があったからだ。昔よく遊んだ友達だと分かったから、私は話しかけることができた。


「昔のこと、覚えてないんだね……。でも、またこうやって友達になれてよかった。連絡先、交換しよう!」

「……うんっ」


 私たちはスマホを取り出す。昨日機種変したばかりのため覚束無い操作をする私を、みやちゃんは適切にフォローしてくれた。

 すごいなぁ、みやちゃん。初めてのスマホでも、スイスイ操作できるなんて。

 対して私は、機械音痴と言われてもおかしくないほどヨタヨタ操作。もしかすると私って、不器用なのかもしれない。

 無事に連絡先を交換した後。

 みやちゃんは不思議なことを言った。


「でも、芹香が『普通に笑える』ようになってよかったよ」

「普通に笑えるように……って、どういうこと?」


 みやちゃんは記憶喪失中の私を見て、「しまった」とバツの悪そうな顔をした後。「今だから言えるんだけど」と、気まずそうに口を開く。

 

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