第十二話 初めまして、バージョン1.0
三条河原。
五月の風が鴨川のせせらぎを連れて、鼻先をくすぐる。
アキトは三条大橋の袂で、何度も深呼吸を繰り返していた。
手元の端末には、怜から送られてきた
「新人研修カリキュラム」が表示されている。
「……よし。落ち着け、アキト。
今日は俺が『教育係』なんだ。
先輩らしく、ビシッと——いや、ガサツすぎず——」
「……あの。予定時刻より15秒ほど早いけれど、
あなたが私の『教育係』の阿倍野さん?」
背後から響いたのは、鈴の音のように澄んだ、
けれどどこか「理屈っぽさ」を予感させる硬質な声だった。
アキトが振り返ると——
そこには、清潔感のある白いブラウスと紺のスカートを纏った
少女が立っていた。
かつての「管理者」としての威圧感はない。
だが、その瞳に宿る知的好奇心と、
少しだけ勝ち気な眉の角度は——
まぎれもなく、彼女そのものだった。
「……カナ、さん」
「ええ。今日からインターンとして配属されたカナよ。
私の名簿、もうチェック済み? 仕事が早いのね。
でも、あなたのその霊素の垂れ流し方、少し効率が悪くない?
0.1%の出力ミスが、後で致命的なバグを招くわよ」
初対面の挨拶よりも先に「仕様の不備」を指摘してくる。
その徹底した「カナらしさ」に、
アキトはこみ上げる涙を堪え、いつものガサツな笑顔で応えた。
「ははっ、手厳しいな。
……初めまして、カナさん。
阿倍野アキトです。今日から君の教育係をやる。
……よろしくな、新人さん」
「……よろしく、アキト。
でも勘違いしないで。
私は最短であなたを追い越して、
この街のシステムを『最適化』するつもりだから。
あなたのその『適当なやり方』、私が全部書き換えてあげるわ」
「ああ、期待してるよ。
でも、この街のバグは、理屈だけじゃ解けないんだ。
……それを、これからゆっくり教えるよ」
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二人が河川敷を歩き出す。
彼女に1300年の記憶はない。
アキトが命を懸けたことも、
兄の湿布に埋もれたことも、
すべては初期化されている。
けれど——
アキトはポケットの中のメモ帳に、そっと触れた。
『次のバージョンは、もっと「適当」でいいかもしれない』
「……カナさん。一個だけ聞いていいですか」
「何?」
「『適当』って、得意ですか」
カナは少しだけ眉をひそめ——
それから、なぜか、小さく笑った。
「……苦手よ。でも、なんとなく——
できるような気がするわ、今は」
アキトは、それ以上何も言わなかった。
それで、十分だった。
---
「やあ、二人とも!
最高の新規ブートじゃないか!!」
その時、上空から黄金のオープンカーが
猛スピードで下降してきた。
「新人お祝いで、**『阿倍野家特製・新人研修用・24金製クリップ』を
1000セット**、今すぐ三条河原に空輸するよ!」
「——だから、いらねーよバカ!!
追いかけてくんな、兄貴!!」
アキトは絶叫しながら、隣のカナをちらりと見た。
「……理解不能。あの男の行動原理は、
もはやバグを超えて芸術の域ね。……ねえ、あれも研修の範囲内?」
「……残念ながら、あれが『日常』です」
「……面白いわね」
カナが、楽しそうに目を輝かせている。
アキトとカナは、顔を見合わせて笑い、
春の京都を全力で駆け抜けた。
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その夜。
アキトのスマホに、一件の通知が届いた。
差出人:**阿倍野 晴臣(兄)**
『……君が泣かなかったのを、私は知っているよ、アキト。
若草山の夜も、銀閣寺の朝も、ずっと見ていたよ。……よく頑張った。
お祝いで——』
メッセージは、またそこで途切れていた。
「……兄貴のくせに」
アキトは、スマホを握りしめたまま、
夜空を見上げた。
目の奥が、じわりと熱くなった。
今度は——堪えなかった。
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【天平OS:バージョン1.0 ——全システム、正常稼働中】
1300年の孤独を終えた少女と、彼女を「新人」として迎え入れた青年。
二人の新しい物語の「バージョン1.0」が、今、力強く起動した。
——そして、どこかで晴臣が、
「お祝いで」の続きを、言い損ねている。




