9 会いたくない二人
吐息が、首筋にかかる。
二人の体温が混ざり、溶け合って輪郭がわからなくなっていく。
「ほら、もっとこっちに来て。ちゃんとくっつかないと落ちますよ?」
ラフニカの耳元をくすぐるのは、もはや囁やきというよりも息のような声。
落ちないようにと身体に回されたフェリスの腕は、まるで抱き締めるかのようで。
奇妙な熱が身体の中に籠もり始めるのを感じて、ラフニカはギュッと目をつぶった。
「あれ〜? こっちの方に来たと思ったんだけどなぁ……」
足元で聞こえる声に、身体が固まる。
見つかりたくない――もとよりそう思って逃げ出したのだけれど、こんな状況に陥っている今、この姿はなおさら他人に見られるわけにはいかなかった。
無意識に身体をこわばらせたラフニカを宥めるように、フェリスの手が背中を撫でる。追い詰められた状況だというのにその手を心地好く感じてしまう自分が居て、それが少し悔しい。
(どうしてこんなことに……?)
相手の心音すら聞こえる至近距離に心を乱されながら、ラフニカは現実から逃避すべく己の行動を振り返っていた――。
ことの発端は、仕事の関係でかつての婚約者、アルマンド・ジファールの職場の近くに向かわなければならない用事ができたことにあった。
気は進まなかったが、仕事であれば仕方ない。ラフニカは彼に会わないことを祈りつつ用事を済ませたのだが……。
「ラフニカ?」
嫌な予感というのは、当たるものだ。
必死の祈りも虚しく、背後から聞こえたのはジファールの声。その声に、ラフニカは振り返ることなく走り出していたのだった。
ジファール家とラフニカの家は関係が近い。昨日の実家からの手紙のことだって、彼なら知っていてもおかしくはなかった。
そうなれば、前回あれだけ勘違いを垂れ流したジファールのことだ。どれだけ面倒なことになるか。
さらに彼は要らないところで勘が良い。フェリスとの関係を説明しても、それが通用しない可能性もあった。
とはいえ、逃げ出した時はそこまで論理立てて考えていたわけではない。
そのときの彼女の頭にあったのは、単純な「会いたくない」という気持ち。
「あ、おい、ラフニカ!?」
だというのに、彼はどうあってもラフニカの気持ちを踏みにじりたいらしい。
必死に逃げているのに、足音は執拗にラフニカの後を追ってくる。
( まずい、この先は行き止まり……!)
逃げ道を失ったことに気づき、絶望する。
――そのとき。
「お困りですか、おじょーさん」
フェリスの声が頭上から降ってきたのであった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「普段からこんなところに居るんですか」
眼下を彷徨くジファールに聞こえないように小声で囁きながら、ラフニカはちらりと足元を見下ろした。
フェリスの声と共にぐい、と引き上げられる感触と浮遊感に包まれて……気がつけば、ラフニカは天井の梁の上へとその身を置いていた。
普段自分が行き来している廊下が、随分と遠く見える。王城の天井は高い。その梁に誰かが居るなんて考えたこともなかった。自分がそこに居ることなんて、猶更だ。
「いやいや、別に? ま、ちょーっとヒトに会いたくない時に使ってるだけですよ。今回はぐーぜん、ぐーぜん」
しれっとしたフェリスの答えはかなり怪しい。
でも、今のラフニカにはそれを横目で睨むこともままならなかった。
普段しっかりと踏みしめている大地がないというのが、こんなにも心許ないものだとは。支えを求めて、隣に座るフェリスの身体に本能的に縋りついてしまう。
そんな状況への羞恥と高所の恐怖で、気づけば涙目になっていた。情けない姿を見せているとは思うが、そんなラフニカをフェリスは妙に嬉しそうに眺めている。
ああ。穴があったら入りたい……それもこれもすべてジファールが早く出て行ってくれないから……。
そんなことを脳内で毒づいていたところで、ラフニカの耳はもうひとつの新しい足跡を捉えた。
「アル様? どうしたんです?」
聞き覚えのある、嫌な思い出ばかりが蘇る甘ったるい声。その声の主が現れた途端、ラフニカは身体がすっと凍りついたかのような錯覚を覚えた。
まるで心臓を直接握られたような、不快で恐ろしい感覚。自分の意思とは関係なく、はく、はく、と浅い呼吸が漏れる。
「ラフニカ?」
ラフニカの様子がおかしいことに気づいたのだろう。フェリスの心配そうな声が聞こえる。
早く大丈夫だと答えなければと思うのに、喉の奥が締め付けられたようで声が出ない。
右腕に刻まれた呪いの刻印に沿って、氷が流し込まれたようだった。手足が急速に熱を失い、指先が震える。どこまでも孤独で冷たい海に沈んでいくように、現実が遠ざかっていく。
上下の感覚が曖昧になるめまいに、身体がくらりと傾いて梁の上から落ちそうになる――。
温かな体温がギュッと身体全体を包み込むのを感じて、ラフニカはハッと意識を引き戻した。
異常を察したフェリスが自分の身体を支えてくれたのだと、遅れて気がつく。
フェリスの新緑の瞳が、心配そうにラフニカを覗き込むのがわかった。ほっと息をつくラフニカに寄り添うように、自分ではない落ち着いた鼓動が聞こえてくる。
その温もりに、徐々に落ち着きが取り戻されていった。
バランスが崩れない程度に大きく深呼吸をして、もう大丈夫だと頷いてみせる。
幸いなことに、下の二人がラフニカに気づくことはなかったらしい。ジファールは天井に目を向けることなく、入り口を振り返った。
「ああ、リリア。今、ラフニカを見かけた気がしてね。ここまで来たんだけど……」
「お姉さまが?」
ジファールの答えに、リリアは苛立たしげな声をあげた。
その甘やかで、それでいてたっぷりと毒を含んだ声にラフニカは察する。彼女はあのときから変わっていない。
「もう、アル様ったらお優しいこと。今となっては婚約者でもなんでもないのだから、お姉さまのことなんて放っておけば良いのに」
「いや、まあ、そうなんだけどね。でも、ちょうど気になる話を聞いたものだから」
「気になる話、です?」
「ああ。どうも彼女、ありもしない恋人の存在を実家に主張しているらしい」
「まあ」
二人の嘲笑の交じるやりとりに、ラフニカは頭が痛くなった。どうやら彼らはラフニカの恋人の話をちらりとも信じてはいないようだ。
一応……実情はどうであれ、ラフニカがフェリスと恋人関係にあることは話題になっているはずなのだが。
「当然、彼女の父親も不審に思ってね。その恋人とやらを連れてこい、と言ったそうだから……どうするつもりかと思ってね」
「そんなの、ホラを吹いたお姉さまの身から出た錆でしょう。アル様の気にすることではありませんわ」
「あはは、妬いているのかなリリア。そんなところも可愛いよ」
「もうっ、アル様ったら――」




