10 変わらないのは…
キャッキャとはしゃぐ中身のない会話が、だんだん遠ざかっていく。その声と足音が完全に消えるまで待ってから、ラフニカはようやく肩の力を抜いた。
フェリスの耳はまだ気配を追うようにピクピクと動いているが、尻尾はもうリラックスしてゆらゆらと優雅に揺れている。ということはおそらく、彼らが戻ってくる様子はないのだろう。
それならもう下ろしてもらおうかな、と地面が恋しくなっているラフニカは思う。――人生で、こんなにも大地を渇望する日が来るなんて。
「いくつか確認したいんですけど……」
だが、フェリスの方が少し早かった。先を越され、ラフニカはしぶしぶ口を閉じる。
話より先に下におろしてくれと頼んだら、きっとフェリスは快く聞いてくれるだろう。でもそうしたら、自分が高いところに怯えているように思われてしまう。
そんな弱みを見せるのは、ちょっと悔しい。
「ええ、なんでしょう」
平静を装って返す。――多分、装えているはずだ。
「まずは、あのリリアとかいう女性。あれって誰です? ラフニカちゃんに妹さんなんて……」
「よく知ってますね。確かに彼女は妹じゃなくて、従姉妹です。愛想が良くて気がきくのでウチの両親が気に入っていて。それもあって私のことを姉扱いしてるんですよ」
正確に言うと、『都合の良い姉扱い』だ。面倒事は押し付けて、美味しいところだけを持って行く。
だがラフニカの両親にしてみれば、華やかで外面が良い彼女は、生真面目なだけの暗い実の娘よりも可愛いらしい。いくらその理不尽を訴えても、彼らが取り合ってくれることはなかった。
「そして、ジファール様の今の婚約している相手です」
呪いが原因で婚約破棄になった時、あまり揉めなかったのはここに理由がある。
もともとジファールとラフニカの婚約は家同士の結びつきを強め、更なる友好関係をアピールするための政略的なもの。その目的があるのに婚約破棄で揉めることを思えば、同じ家門の中で婚約者が替わることの方がよっぽど影響が少なかった。
その結果ラフニカだけが『捨てられた呪われ令嬢』として汚名を被ることになっても、誰も気にしなかったほどには。
「なるほど。そりゃ会いたくない相手にもなりますね」
納得したように尻尾をぱたりと梁に打ちつけたフェリスに、ラフニカは軽く頷いて言葉を切る。
実際のところ、彼が本当に今の説明で満足したのかはわからない。
それだけであれば、ラフニカがリリアにあれほどまでに怯える必要はないからだ。
でも、だからといってそれ以上のことを口にするつもりはなかった。
――そう。
彼女が、ラフニカに呪いを掛けた張本人だなんて、誰にも証明できないのだから。
久々に会った従姉妹の姿に、ラフニカはひっそりと拳を握り締める。
苛烈で思い込みが激しく、自分の幸せのためなら手を汚すことも厭わない性格。そんな彼女の在り方は、あまりにも呪いと相性が良かった。
呪いに打ち勝つには、想いの強さが必要――それを聞いたときラフニカが真っ先に感じたのは無理だ、という諦めであった。
だって自分は、他人を押しのけてまでジファールを得たいと思わない。自分にそれだけの価値があるとも思えない。呪いを解くことに意味を見出せない。
どうせジファール家との婚約はリリアに変更されたことで円満に片付いたのだ。
今更何をしても状況が良くなることはないし、リリアにさらに恨まれるだけ。そこまでして呪いを解こうという気力など、湧かなかった。
むしろ、そこまで一心に情念を燃やすリリアのことがただただ恐ろしかった。
(私では、あの子に勝てない……)
久々に目にした従姉妹を前に感じたのは、当時とまったく同じ敗北感。そのことに気付いて、自嘲する。
変わっていないのは、リリアではなかった。自分が、結局あのころから何も変われていないのだ。
「では、もうひとつだけ聞いても良いですか」
しばし考え込んでしまったラフニカを前に、フェリスはあっさりと質問を変えた。
「彼らが言ってたご実家の話……あれは、本当ですか」
それ以上追及されなかったことに安堵しつつ、ラフニカは頷く。
「……ええ、事実です。ちょうど昨日、恋人に会わせろという手紙が届いたところで」
「わかりました。いつにします? 俺は当番さえ入ってなければ、週末は大体空いてますけど」
「え」
一瞬返す言葉が見つからなくて、言葉が途切れた。その反応に、フェリスが不満そうに口を尖らせる。
「もともとそういう話だったでしょ? そんなに驚かれるなんて、信じてもらえてなかったみたいで心外っすねぇ」
「あ、いえ。フェリス様を疑っていたわけではないのですが……」
そこまで言ってから、一瞬だけ言い淀んだ。
視線を彷徨わせれば眼下の地面が随分と遠くにあるのが見えて、慌てて目を逸らす。――まずい、時間が経つにつれて高所の恐怖がじわじわとこみ上げてきている。
「その。最初にお話しした時は酔っていたので気軽に頼んでしまったのですが、私の親は……端的に言って結構人間性があまりよろしくない人達で。相手を不愉快にさせる達人、とでも言いますか。あんな人たちにフェリス様が侮辱されると思うと、申し訳なくて」
「お。もしかして、俺のことを心配してくれたんです?」
「そう……なりますかね。私を悪く言われるのは慣れているので構わないのですが、フェリス様までそれに巻き込まれるのは許せそうにありませんし、フェリス様にあんな想いを味わって欲しくもないので。身内のことですし、自分で収めようかと」
口にしながら、ラフニカは自分の矛盾をひしひしと味わっていた。
――本来この偽の恋人関係は、お互いに周囲からの追求を躱すために始まったものだ。それなのに、いざことが起きたら自分だけで解決しようとするなんて……。
(そんなの、ただこの関係を楽しんでるだけってことになるのでは……!?)
今になってその意味するところに気がつくが、もう口から出てしまった言葉は取り消せない。
――それに、実際嫌だったのだ。あの嫌味な家族にフェリスのことを悪く言われるのが。その所為で、フェリスが傷ついてしまうことが。
幸いフェリスが彼女の矛盾に気づくことはなかったようだ。「気遣ってくれたことは嬉しいですよ」と、さらりと微笑む。
だが、ほっとしたのも束の間。フェリスはその爽やかな笑顔のまま「でも、却下です」と想定外の言葉を続けた。
「へ? 却下って……」
「クソみたいな相手に会うのも、二人ならエンタメってことで楽しめるでしょ、多分。――大丈夫。俺、どーでも良い相手に何言われても気にするタイプじゃないんで。ラフニカちゃんに嫌われたら立ち直れないけど。だから二人で挨拶、行きましょう?」
「それに……」と言いながらフェリスは秘め事を囁くように、ぐいと顔を寄せた。
瞬きをすればまつ毛が触れそうになるほどの至近距離。思わずのけぞりそうになるが、バランスを崩すのが怖くてそれもできない。
「俺にはラフニカちゃんに『うん』と言わせる最強の切り札があるんです」
「切り札……?」
フェリスの口角がニヤリと上がった。少し意地悪なその笑みに嫌な予感を覚えたが、狭い梁の上に逃げ場はない。
蛇に睨まれたカエルのように、ラフニカは涙目で硬直する。そんな彼女の耳元に、フェリスはとっておきの一言を囁いた。
「そろそろ……下に降りたいでしょう?」
「なっ……!」
――確かにそれは、最強の殺し文句であった。




