8 プロポーズみたい
――そうして始まったフェリスとの奇妙な関係は、意外にも穏やかに続いていった。
昼休みに落ち合って一緒に食事をしたり、たまには夜にお酒を飲んだり。それだけでなく、休日に一緒に過ごすことすらあった。
ラフニカは本来、他人と居ると肩に力が入って寛げないタイプだ。
でも、フェリスの程よい距離感が良いのか、のびのびとした振る舞いと細やかな気遣いのバランスが良いのか――彼と過ごす時間は苦痛どころか、むしろ心地よさすら感じていた。
……本人にそれを伝えることは、なかったけれど。
そうして二人の時間は着実に積み重なっていって――。
「感動です。俺、今なら死んでも良い……」
「大袈裟な」
調子の良いフェリスの言葉に、ラフニカは淡々と突っ込んだ。
今までと変わらないように見える、ラフニカの冷たい反応。でも、そんな彼女の声からかつてのトゲが消えていることに、言葉にしなくても実のところ二人とも気がついている。
「いやいや、全然大袈裟じゃないですよ。愛しのラフニカちゃんに髪を触ってもらえるなんて、本当に夢を見てるんじゃないかと」
「相変わらず調子が良いんですから、あなたは」
ラフニカの呆れた声にもめげず、フェリスは「わかってないなぁ」と振り返ってにへら、と笑う。
「獣人ってのは感覚が強くて、他人に触られるのが嫌なもんなんですよ。それなのに限られた、心を許した相手に触られた時だけは安心する。この安心感と、とてつもない幸福感――ラフニカちゃんが居なければ味わえなかった特権ってヤツです」
言いたいことだけ言って、フェリスはくるりと元のブラッシングの体勢に戻る。
早く続きを、とねだるかのように耳がぴこぴこ動いて、ラフニカは背中にくすぐったい感覚を覚えてふっと息を吐いた。
もう何度目になるか数えることもやめてしまった昼休みの逢瀬。
今日になって「ずっと頼みたかったことがある」と突然真剣な顔で切り出されたときは何事かと思ったが……まさかそのお願いが「髪をすいてほしい」なんて可愛らしいものだったとは。
さらにここまで素直な喜びの反応を見せられれば、ラフニカとしても悪い気はしない。
「……私も、貴方の髪を梳かすのはわりと好きですよ」
相手の顔が見えない方が、素直な言葉は伝えやすいのかもしれない。フェリスのさらさらの髪に慎重に櫛を通しながら、何気ない調子でラフニカは呟いた。
櫛を通すうちにツヤを増していく、茶と金の中間のような美しい色合い。窓から差す光がその輝きをあちこちにこぼしていく。
徐々に聞こえるごろごろという眠気を運ぶような響きは、ひょっとしてフェリスが喉を鳴らす音だろうか。ラフニカに寄りかかる重みと暖かさが徐々に増していく。
後ろを向いたフェリスの代わりに、パタン、パタンと一定のリズムで地面を叩く猫の尻尾が、満足げな彼の感情を伝えてくれて。
悪戯心が沸いたラフニカがそっとそれを掬い上げれば、柔らかな尻尾は手の中でふるふると幸せそうに震え、そしてするりと抜け出して元の場所へと戻っていった。
交わす言葉は少ないけれど、この穏やかな時間は確かに二人で共有しているもので。穏やかで、心が安らぐ。
「私はあまり詳しくないのですが……獣人は完全な獣の姿にもなれるというのは本当ですか? 猫になったアナタの姿、いつか見てみたいです」
そんなゆったりした空気の中でラフニカが何気なく口にしたのは、ふとした思いつきの言葉だった。
この大きさの猫なら、ブラッシングもさぞやり甲斐があるだろう――そんなことを思っての、なんてことない呟き。
それなのにそうこぼした途端、フェリスの背筋がピシリと固まった。まるで都合の悪いことを指摘された、というかのように。
「私、何か変なことを言ってしまいましたか」
気になる反応に言葉を重ねれば少しだけ不自然な間が空いて、「そういうんじゃないんですけどね」とフェリスはへらりと笑う。
「いや、獣人の本来の獣の姿を見たいってのは、『アナタのすべてを暴きたい』って言ってるも同然でしょ。つまりプロポーズみたい、というか」
言いながら上半身だけ振り返り、わざとらしい上目遣いでフェリスは首を傾げた。
「そんな言葉をあっさり口にするなんて、ラフニカちゃん意外にダ・イ・タ・ン、だなって」
「なっ……」
言葉に詰まったラフニカの反応を見て、フェリスは軽い笑い声を響かせる。
「悪い悪い、冗談ですよ。ほら、次は俺がラフニカちゃんの髪触っても良いですか? お詫びにうんと可愛くしますから――もちろん、今のままでも十分可愛いけど」
「……もう」
誤魔化されたな、と内心で察しながらもラフニカはそれ以上は深く聞かずに言葉を飲み込んだ。
聞かれたくない事情があるのなら、それは尊重すべきだ。わざわざ踏み込む必要はないだろう。どうせ、そこまでの間柄でもないのだし。
――そんなことを考えた胸がちくりと痛んだ理由は、よくわからなかった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「わ、ラフニカさん髪型変えました? めっちゃ似合ってますね、それ!」
「おっ、その感じ、今日はこの後お出掛けなのかな? 輝いているねぇ」
そうして、フェリスとの逢瀬が終わって。
職場へと戻る道中で何人かの同僚たちに通りすがりに声を掛けられ、ラフニカは歩きながらついつい髪に手を伸ばしていた。
あの後フェリスに宣言どおり髪をいじられ、今のラフニカのはしばみ色の髪は緩い三つ編みの編み込まれたハーフアップになっていた。普段の飾り気のないひとつ結びを思えば、その違いは明らかだ。
こんな可愛らしい格好は自分には似合わないのではないか、見苦しいと思われないか――最初に鏡に映る自分を見た時に感じたのは、どちらかというとそんな否定的な感情。
でも、実際の周囲の反応は思いのほか好意的だ。多少のからかいこそ含んでいるものの、皆にこやかに彼女の変化を受け入れてくれている。
(別に呪われているからといって、女性としての価値に欠けるからといって、オシャレをしてはいけない訳ではないのね――)
それ自体は当たり前のことなのに、きっと他の人がそんなことを言っていたら自分だって否定していただろうに、それでもラフニカはその当然の事実に衝撃を受ける。
もしかすると、自分は諦める必要のないことまで諦めてしまっていたのかもしれない。過剰に手放して、自分に余分を作らないように切り詰めて、それで自分を律しているつもりになっていた。
『呪われた女はこう振る舞わなければいけない』なんて、ありもしない鎖に自由を奪われて。
(それに気づけたのは、やっぱり彼のおかげ……?)
フェリスの屈託のない笑顔、まっすぐな賛辞、のびのびとした生き方――そんな彼の姿を思い描くにつれ、何故か頬が熱くなっていく。その熱が、少しだけ心地よい。
――そう。この時のラフニカはまさしく浮かれていて。
このぬるい時間がいつまでも続くものだと何の根拠もなく思っていたのだ。
『本当に婚約者が居るのなら、一度顔を見せなさい』
――実家からのそんな手紙を目にするまでは。




