13 好きになんて、ならない
そうして部屋にフェリスと二人残されたことで、ラフニカはほっと肩で息をついた。ようやく緊張の糸を緩めることができる。
しばらく息が浅くなっていたようで、ゆったりと呼吸を繰り返すと徐々に身体の強張りが薄れていくのが感じられた。
「いやぁ、聞きしに勝るクソみたいな連中でしたねぇ。よくもまぁあんな親からこんな素敵な女性が育ったもんです。お疲れ様でした、と」
フェリスのあっけらかんとした声に、逆に居た堪れない気持ちが強まった。
露悪的な言い方は、きっとラフニカが気にしないようにという彼なりの思いやりだろう。
「父が大変失礼を……」
首をすくめて謝罪を口にし始めたラフニカに、フェリスは「いやいや」とすかさず首を振る。
「何言ってるの。もう、家族じゃないでしょ。向こうが絶縁言いはじめた時はどうしたもんかと思いましたが、これで良かったんじゃないですか」
「ええ、そうですね……後悔はありません」
「その割には憂鬱そうですね」
今の心情をズバリと言い当てられて、ラフニカはそっと目を逸らした。
「申し遅れましたが、叙爵の件、おめでとうございます。それほど大きなお話とは承知しておらず、失礼しました。――知っていたことではありますが、フェリス様は本当に優秀ですね。騎士としての実力も確かで、王家の覚えもめでたく、そして周囲の方からも好かれている。本当に……素晴らしいです」
「そいつは、どーも。でも、今のタイミングで言われると含みを感じますねぇ」
「いえ、貴方への賛辞は本心からのものですよ。……ただ翻って、自分のことを考えると気が滅入るだけで」
見苦しい感情を口にしていると自覚しつつも、言葉は止まらなかった。
「さほど要領が良い訳でもなく、仕事も人並み。そのくせ愛想も悪くて人から好かれることもない、陰気な呪い持ち……それが私です。さらに今、貴族でもなくなったとすると、私が貴方の横に立つにはあまりに釣り合わないと」
言いながら無意識のうちに隠された手首をさすっていた。
いくら包帯に隠されていようと、無価値の烙印を押すその呪いの痕は消せはしない。
やり込められた父を見て痛快な気持ちになりながらもどこか心が晴れなかった理由は、ここにある。
本来は自分だって彼の隣に立つ資格はないのだ。ただ、嘘の関係があるからこうしていられるだけで。
きっと、フェリスの叙爵のタイミングはそう遅くはない。彼と対等に話ができる時間は、もうあまり残されていないだろう。
「バカなこと、言わないでください!」
悲鳴のような声を上げ、フェリスはラフニカの肩を掴んだ。
その力の強さにラフニカは思わず顔をしかめる。しかし、普段は優しいはずのフェリスはその表情を見ても手を離そうとはしない。
「ラフニカちゃんは、自分の価値をわかってなさすぎる!」
大きくひと呼吸おいて、フェリスはゆっくりラフニカに視線を合わせた。
細い瞳孔が光る眼差しは、これまで見たこともないほどに真剣な色を帯びている。その鋭い眼光に貫かれ、ラフニカは言いかけた反駁の言葉を飲み込んだ。
「確かに俺は要領が良いです。大概のことはそれなりにこなせますし、人に好かれるように振る舞うことだって自然にできる」
でも、と掠れた声で続けながら唇を歪め、フェリスは自嘲するような笑みを浮かべる。
「俺の本質は、所詮は獣。貴女のようにコツコツとひとつのことを積み上げることはできないんです。すぐ結果が出る、自分に得になることしか取り組めない――そうやって上辺の器用さだけで取り繕ってきたから、他人に心を預けてもらえない」
言いながら、ラフニカの肩にフェリスの指が食い込んでいく。それは、そのままフェリス自身の苦悩を表しているようであった。
「だから、俺はラフニカちゃんが本気でスゴいと思ってる。ひたむきに物事に取り組み、地道な努力を積み重ね、ゆっくりでも確実に歩みを進める。そんな貴方のあり方が、俺には眩しいほど美しい。――俺だけじゃない。ラフニカちゃんのそんな誠実な姿勢は、職場のたくさんの人の心を掴んでいるんですよ」
じわじわと頬に熱が昇っていく。ひび割れた心に、フェリスの言葉が染み込んでいく。
――見てくれていた、知ってくれていた。そのうえで、その不器用な頑張りを良いものだと認めてくれていた。
それ以上はいけない。
「わ……私、少しお手洗いに」
その喜びの先にある感情に行き着く前に、ラフニカは慌てて席を立った。
脇目も振らず部屋を出て、とにかくフェリスから距離をとろうと足を動かす。
(大丈夫、私はまだ大丈夫……)
暗示のように同じ言葉を繰り返しながら、忙しなく目線を走らせて逃げ場を探す。ひたすら足を動かして、余計なことは考えないように。
人目のつかない裏庭まで出たところで、ラフニカはようやくその歩みを止めて大きく息を吐き出した。
壁に背を預け、胸の前で右手を握り締める。まだ心臓がうるさい。その鼓動を無視するように目を閉じて、ラフニカは必死に自分に言い聞かせる。
(大丈夫、弁えている。私は、ウソの恋人。彼を好きになったりなんかしない……)
早鐘のように鳴る心臓は、ここまで急いで歩いて来た所為だ。頬が熱いのは、室内が暖炉で蒸していただけ。
身の内が焦げそうなほどの甘く切ないこの感覚は――。
そこまで考えてから、ラフニカは力なく顔を覆った。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「どうして貴方のようなような立派な方が姉と結婚しようと? 貴方だったら、他にいくらでも選択肢はあったでしょうに」
応接室の中から漏れ聞こえる、扉の先の声。
なんとか気持ちの整理をつけて部屋に戻ろうとしたラフニカは、その声に扉に手を掛けたままぴたりと動きを止めた。
「ええと、君は」
「あ、申し遅れました。長男のジャックです。いずれ家を継ぐ身ではありますが、今年卒業してしばらくは文官を務める予定です。城内でお会いしたら、よろしくお願いします」
自信と若さに満ち溢れた弟の声を聞いて、ラフニカは父の思惑を悟った。
失言と失礼な態度を繰り返し、絶縁状まで叩きつけた父には、フェリスとの関係構築はもう望めそうにない。それならば後継者で年も近いジャックをあてがった方が、まだ取り戻せる可能性があると見込んだのだろう。
(それにしても、ジャック……立派になったのね)
そんなタイミングでないことは自覚しながらも、ラフニカは扉の前で立ちつくしたまま静かに感慨にふけった。
年の離れた弟と一緒に過ごした時間は、あまり多くはない。
赤ん坊だった頃の彼が「だぁ」と笑いながら親指を握り返してくれた記憶、ラフニカが家を出るときにまだ三つだった彼が小さく手を振ってくれた記憶、物陰からこっそり覗いたデビュタントの時の成長した姿――ラフニカにあるのはそんな小さな、でも宝物のような思い出ばかり。
向こうがどう思っているかはわからないけど、ラフニカにとって弟は間違いなく可愛くて大事な肉親だった。
「ふーん、まぁそちらさんの素性はどうでも良いんですけどね。俺がラフニカちゃんを選んだのがそんなに意外です?」
淡々と返すフェリスの無関心な反応に怖気づくことなく、ジャックは「そりゃそうですよ」と迷いなく答える。
「勿体ないじゃないですか。フェリスさんにはこれから輝かしい未来と選びたい放題の結婚相手が待ってるのに、どうしてわざわざ姉なんかと? 姉にどんな価値があるって言うんです?」
心底わからないという不思議そうな声。それに答えるフェリスの声は、一気に冷ややかなものとなった。
「これだけお世話になってる相手の価値がわからないとは……やれやれ、見下げたもんだ」
「なっ、……どういう意味です」
「たとえば、文官の就職。コネが強いでもなく、成績がさほど良い訳でもないアンタがどうして採用されたと? 姉であるラフニカちゃんがあちこちに頭を下げて、弟であるアンタを紹介したからでしょ。真面目な仕事ぶりで信用されてるラフニカちゃんの後押しがあったから、アンタの就職は決まった」
「っ……! そんなはず!」
「たとえば、家庭教師。ケチで視野の狭いアンタの父親が、子供の家庭教師の手配なんてしてくれる訳がない。あれだって、職場でラフニカちゃんが良い家庭教師の情報を聞きまくってアンタにつけてやってたんです」
苛立ちを含みながらも、フェリスは冷静に言葉を連ねる。
「……」
その内容に絶句していたのは、ジャックだけではない。ラフニカもまたそうだった。
(どうして……彼がそこまで知っているの……?)
確かに今挙げられたラフニカの行動は、隠れて行なわれたものではない。職場であれば知っている人もそれなりに居ることだろう。
だが、そこまで重要でもなく珍しくもないその情報を、何故フェリスがわざわざ知ることがあったのか。
そんなことを思っている間にも、フェリスの言葉は止まらない。
「学校への寄付、式典の時の装身具の手配……知ろうと思えば、ラフニカちゃんの献身はアンタだって簡単に知ることができたはずだ。赤の他人である俺だって知ってる話なんだから。それなのにアンタはラフニカちゃんのことを何も知ろうとはせず、碌でもない親から聞いた話ばかりで判断して彼女を蔑んだ」
「そんなつもりは……」
「だとしたら、尚更タチが悪いってことで。……アンタの両親は、もう良い。彼らはわかってて、わざとやってるんだから。指摘したところで全部ムダだし、改めることもないでしょ。でも、アンタが常識人の顔をして自分の無知を省みず、なんの悪気もなく受けた恩を踏みにじって姉を語ろうって言うのなら――」
一拍おいて、フェリスは低い声で言い放つ。
「俺は、アンタを許さない」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
ゴン、という音が響き、室内の会話はそこで止まった。
遅れてずきずきと痛み出した額に、今の音が自分が扉に頭をぶつけたものだと気がつく。
(……あ、もうダメだ)
ずるずると床に座り込みながら、妙に冷めた頭の中でそんな思考がよぎった。
扉に打ち付けた痛みも、この高揚を打ち消すには弱すぎる。
(これ以上誤魔化すことはできない。私は、――フェリス様に恋してしまった)




