第09話 見知らぬ天蓋(前)
夢を見た。
どんな夢かだって? そんなこと誰にも絶対に教えねーよ。
俺だって……いつまでも……こんな夢ばかり……
まどろみから抜け出し、勢いよくパッと目を開く。寝つきの悪さは職業病だと心得ている。
見知らぬ天蓋があった。
ほとんど無意識に現状確認へ五感を集中させる。脳内の血流量が一気に上昇する。目玉をぐるりと180度見渡す。
頭が沈むこむほどのふかふかの枕。金の刺繡が施された掛布団には重さというものがなかった。こんなにも心地良過ぎるベッドは俺には似合わない。
窓へ視線を向けるが、人の背丈よりもずっと高いカーテンで外の風景は閉ざされている。
上体を起こし、大きく背伸びをする。一日中走り回ったかのようにけだるい体。きっと夢などではなかったのだろうなと思考は確信するが、記憶を辿っても光景がうまく像を結ばない。
ガチャリと冷たい金属音を立て、ゆっくりと扉が開くと菫色のドレスを着たマチルダの姿が見えた。
「あら、起こしてしまいましたか。私のことは気にせずお休みになって下さい」
俺は静かに首を横に振る。
マチルダが勢いよくカーテンを開けると、まぶしい光が差し込んだ。その光は赤みを帯びていて昼と呼べる時間が過ぎ去ったことを教えてくれた。
「どれくらい寝ていたのですか」
「そうですね。もう、かれこれ5年になりますか」
「えっ」
俺が思わず声をあげると、マチルダは愉快そうに笑う。
「冗談ですよ。でも、ほぼまる一日は寝ていましたよ。経験のないことですから普段使わない部分が消耗しているんですわ」
マチルダはそういって自分の二の腕の肉をぷにぷにとつまんで見せた。普段使わない部分とはそこなのか。
「僕はすっかりお姫様の気分ですよ。寝床に拘ったことはないですが、これならずっと眠っていたい」
ふかふかのベッドをパンパンと叩く。
「あらあら、大げさなこと。それに私も姫様と呼ばれるような身分ではありませんよ。粗末とはいいませんが、ここも古いだけの屋敷です」
ゆっくりと枕元に近づいてくるマチルダ。その姿をいくら眺めても、何不自由なく生きてきた深窓の令嬢にしか見えない。その彼女がこれから闇の世界を生きていこうとしているのだ。ほんの一時の命のやり取りにさえ俺の精神は摩耗しきっていた。あのような体験を経て、平然としているマチルダが不気味にさえ思えてくる。
マチルダにできるのか。こうして関わった以上もう他人事ではない。それになにより俺の個人的な事情が、彼女をこのまま放っておかない。
落ち着くにつれ、疑問が次々と湧いて出てくる。知識への飢え、俺にとって最も頼りになる生存本能だ。
「聞きたいことが山のようにある」
「十兵衛様は私の命の恩人です。どんな質問にも答える覚悟はできていますわ」
マチルダはいつもと変わらず優しく温かい眼差しで俺を見つめている。この女性に俺を騙すような企みがあるはずはない。
「『アレ』はなんだ」
その答えをマチルダは最初から用意していたようだ。
「デボラは魔人となりました。魔人とは魔を得た人間のことです。魔とは……そうですねぇ、言葉にするのは難しいのですが、乱暴に言えばあらゆる他の可能性を犠牲にしても自らの願望を実現しようとする性質のことです。深い絶望を知った人間が、魔を得て、人外の力を行使する例は古くから知られていました。我が一族の初代が魔人狩りの使命を授け、ウェザーエザー家が誕生したのはバラ戦争と呼ばれる内戦が終わった直後のことです」
450年ほど前か。大昔というわけでもないんだな。
「マチルダのお父上もその魔人との戦いで命を落としたということでいいのかな」
「ええ。デボラとは比べ物にならないほど、古く強い魔人です。父と兄たちは、ソレを追撃し、海峡を越えてブルターニュで追い詰めたのですが、そこで最後の反撃にあい、相打ちのような形で果てたと聞いています」
マチルダの父も彼女が家督を継ぐことなど考えたくもなかったのだろう。でも、だったら事前に何か手を打つことはできなかったのかと悔やまれる。
俺が、取り急ぎ知らなければならないのは、我々の機関でさえ(おそらく)その存在を知らなかった魔人という存在。なぜその機密が守られているか。それはとても奇妙なことだった。
「その魔人って奴はたくさんいるのか。イギリス以外の国にも?」
「ええ。グレート・ブリテンとアイルランドだけで年百件ほどの魔人が討伐されています。大陸にはもっと多くの魔人がいることでしょう」
驚くべき数字だ。それはもうありふれた存在と言ってもいい。それを世界から隠し通すことが果たして可能なのか。いや、もしかして日本にもソレは存在してるのか。だったら、先生だってそれを知らないはずが……思考が止まらない。
「魔人とは元は人間だといったよな。年に100人もの人間があんな風に姿を変えているってことか。原因は分かっているのか」
「魔人となりうる人間は多くいます。自らの欲望を叶えたいと思う執着。そういったものを抱えた人間です」
それってほとんどすべての人間じゃねーか。
「しかし、魔人へ至るには儀式と生贄が必要となります。それは禁忌の知識であり、誰もが知りうべきものではありません。儀式にはある特殊な『触媒』が必要となりますし、生贄とはすなわち人の命です。魔人は多くの命を生贄に捧げるほどに、強い力を手に入れるのです」
「つまり、魔人ってのは病気や事故ではなるもんじゃない。他人に強制されるのでもなく、自ら望んでそうなるということだな。であれば滅することをためらう必要もないか」
なんて感じで、俺は情報を整理するので精いっぱいだった。
だから目の目にいる、人間のことをすっかり忘れてしまっていた。
マチルダは声を震わせていた。俺はうかつだ。
「デボラは、悪い人間ではありません。教養も、熱意も、正義を愛する心も間違いなく持っておりました。私を熱心に慈善活動に連れていってくれましたし、進歩的な考え方もいろいろと教えていただきましたのよ。ほんの小さな心の間隙に誰かが付け入ったのだと、私は信じています。だから、私は止めたかった。私は彼女の異常に気付いていました。それでも、もし彼女に引き返す道があるのならば、チャンスを与えたいと……」
「それで君一人で館まで行ったのか」
「デボラの屋敷からは……使用人の遺体が13体発見されました。すべては私が私情で動いたことで起きてしまったことです」
デリカシーって奴が足りなかった。
俺も俺で、闇の世界に長く居すぎたのかもしれない。彼女を慰めようという気持ちはなかった。俺はただ彼女を観察していた。
彼女は失敗を悔いている。もし迷うことなく最初から討滅のために動いていたら、どうだったのか。
俺は答えを知っている。彼女の後悔に対する確固たる回答を俺は持っている。
だが、それを言葉で伝えても意味がない。だから、沈黙。それが正しい。
「そうだね。だったら、次に生かせばいい。私情を捨てて正しい判断ができるように、少しづつ君は成長していけばいいんだ」
彼女の望んでいるだろう言葉が、思わず口から漏れてしまった。
日和見主義者の優しさだ。
俺は正しさを裏切った。彼女を真実から遠ざけた。