*:闇夜に潜む薬売り
コロコロと、蛙の鳴き声が甲高く響き渡る田園地帯を、ある一つの人影が歩いていた。
月を背にしているため、影の中に包まれてその顔も表情も何も伺うことはできず、幽鬼や亡霊のような不気味な印象を抱かせていた。
もっともその場には影以外の何者の姿も見えず、ただただ不穏で不気味な時間だけが過ぎ去っていた。
「……表では顔を出すなと言ったはずだ」
その影が、不意に近くの草むらの影に向けて苛立ち交じりの声を放った。
鋭く差すようなその厳しい声に反応し、草むらの影の一部が溶けるように形を変え、いびつな人影を表した。
折れ曲がった背骨に不揃いに盛り上がった両肩、腕は異様に太く長く、その割には両脚は獣のように細く折れ曲がっている。でこぼこと異常な形に変形してる頭部からは、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべた口元といやらしく光る二つの眼が覗いていた。
「ケケケ……そいつはひどいですぜ、お客さん。こっちは連中の監視の目をかいくぐって様子を見に来たってのに、冷たいですなぁ…」
「頼んだ覚えはない……」
異形の男は影に対して親しげに、しかし下卑た感情を隠しきれない様子で語りかけているが、影の反応は実に淡白なものだった。
ここまでずっと無表情だったことを見るに、影が異形の男に対してあまりいい感情を抱いていないことがありありとわかったが、それでも振り切って歩き去ることをせず、対話のために足を止めているところを見るに、何かしら重要なつながりがあるらしい。
それがわかっているのか、異形の男は多少の無礼も気にすることなく、草むらの影の中から不躾に影の顔を覗き込んでいた。
「ケケケケッ……ところでいかがですかぃ? お買い上げになったモノはよく効くでしょう……?」
異形の男が尋ねると、影ははじめて笑みを浮かべた。自分の持っているそれを手元で弄び、異形の男にも見えるようにしながら見る見るうちに上機嫌になっていく。
手の中に感じる重さに満足するように、影は耳まで裂けていきそうな笑みを見せつけていた。
「ああ、実にいい塩梅だ……まさかこれ一つでここまでの力が手に入るとはな。過去の遺物と聞いてはいたが、正直眉唾物だと思っていたぞ」
「ケケッ……国の役人どもの目をかいくぐって何とか手に入れたもんですからねぇ。本物でなきゃあっしの苦労が浮かばれませんや」
「くくく……確かにその通りだ。高い金を出したこっちも浮かばれん」
気味の悪い、悪意に満ちた笑い声を交わし合う影と異形。両者をつないでいる者は、影が手にしている者だけであり、それがなければ瞬く間に破綻するような関係性である。影がそれを独占するために、異形の男を斬り殺していてもおかしくはなかった。
それでもいまだに破綻していないのは、影が持つ者に対しての知識の量が、異形の男の方が多く所持しているからであった。一歩間違えばあっという間に影の命を奪うであろうそれをより詳しく知っているからこそ、異形の男を排除できないのであった。
すると異形の男の表情が、やや困ったように歪められた。何事かと振り向く影に、異形の男は若干咎めるような押し殺した声で話しかけていた。
「聞きやしたが……あの魔女と一戦交えたってのは本当ですかぃ? ちと無茶が過ぎたんじゃないですかねぇ…?」
「適当に獲物を探すつもりだったんだが、こいつが急にあの女の血を吸いたいと騒ぎ始めるものでな……我慢の限界だったんだ」
「……余計なお世話かも知れませんがね、線引きはちゃんとしておいたほうがよろしいと思いますよ?」
酒にでも酔っているような、蕩けた視線を己の手の中に在るものに向けていることに、異形の男は身を案じているような視線を送る。それは影の持つ者の正体を知らないものが見ても、以上とわかる様子のおかしさであった。
まったく聞いていない様子の影の態度にもめげず、異形の男は機嫌を損ねないように細心の注意を払いながら、困ったように眉間にしわを寄せながら再度話しかけた。
「あっしにはどうにも、今目の前にいるのがあんたなのかそいつなのかわからなくなってきちまいましてねぇ……呑まれる様なことにならなきゃいいんですがねぇ」
「馬鹿にするな。これしきの事で食われてたまるものか」
異形の男の忠告にやや表情を険しくした影が答え、手に持っていたそれをしまってしまう。途端に影の表情が最初のような冷淡なものに戻るが、異形の男にはそれがただ表面上で鳴りを潜めただけだということがわかっていた。
徐々に覚醒しつつある、獣以上の内なる凶暴性を演技で隠しながら、影は異形の男に冷たいまなざしを送っていた。
「だが、こいつに身を委ねている間は実に心地がいい……何でもできる気がするからな。何なら、今度会うときにはあの魔女の首でも土産に持って行ってやろうか?」
「……ご冗談を」
冗談じみた口調で話しているが、異形の男には影が半ば本気で言っていることがわかっていた。
いまだに役目を果たしている理性の鎖が引きちぎれれば、まず間違いなくこの相手は再び魔女のもとに現れ、首を狩るか死ぬまで挑み続ける事だろう。
すると、影に見えないような位置で冷や汗を流す異形の男に気を配ることなく、冷淡な目の奥に恐ろしく残虐な精神を隠した影が、再び歩き始めた。
「おっと、いい加減こいつも焦れてきたらしい。そろそろ餌の調達に行かねばならんようだ」
「クケケッ……どうぞお気をつけて」
仕方がないといった様子で歩き去っていく影だったが、その足取りは軽くこれから行う行為を楽しみにしているのがまるわかりであった。最初は自分の持ち物のために付き合っていた行為が、いつの間にか影自身に必要な習慣となっていた。
着実に侵されている影の精神状態に戦慄しながら、異形の男は影の姿が見えなくなるまで深々と頭を下げ続けた。
そしてやがて、影の姿が完全に見えなくなると同時に、異形の男は先ほどまでのへりくだった態度が嘘のように、ふてぶてしい表情を浮かべて道端で胡坐をかき始めた。
「ケケッ……ありゃもう駄目だな。ほとんど奴に意識を乗っ取られちまってやがる。案の定というかなんというか、なかなかうまくいかないもんだなぁ」
ぼりぼりと頭をかき、姿の見えなくなった客が去った方向に目をやる。
おそらくあの向こう側で、幾度も惨劇が起こる。影が手に入れた代物を従えるため、またさらなる成長のための儀式が行われようとしている。
それ自体には異形の男が思うことは何もない。しかし彼の目的としては、影に渡したものを完全に使いこなしてくれることが一番の望みであった。それが逆に使われるようになっているのなら、今回の客も外れだったと評価するほかになかった。
「さようなら、お客さん。次に会うときは……もうあんたはアンタじゃなくなっているだろうさ。せいぜいかりそめの強さで暴れまわっておくれなんし」
霧の中に消えていった男の顔をおぼろげに思い出し、異形の男はその場から立ち上がってゆっくりと歩きだす。
ここでの自分の仕事はあらかた終わった。あとは自分自身の主義として、影自身がどうなるかを見届けてやるだけのこと。後始末までは手を貸さないものの、一度鑑賞した相手が最後をどのように迎えるかというのに、異形の男は深い興味を抱いていた。
それはひとえに自分たちの利益のために、または自分自身の欲望を満たすために。異形の男はさらなる狂気が生れ出ずるを望んでいた。
「あんたがそいつでいろんなものを壊せば壊すほど……あっしらの懐は潤い続けるんですからねぇ。ヒヒッ……クヒヒヒヒヒヒ‼」
不気味な異形の笑い声が、少しだけ肌寒く、不快な風の中に消えていくのだった。




