いつの間にか消えた夏
木魂に誘われて、わたしたちは森の奥へ入っていった。兵隊さんのお堀から、村の共有地の竹やぶへ向かう途中だ。カナカナ蝉がすだく中、薄暗くなってきた森をクラゲのような木魂がふわふわと浮いて、流れていく。と、そこに誰かが立っていた。
わたしと同じ、おかっぱ頭の女の子だ。モンペに国民服を着て小さな水筒を肩がけしている。綺麗に濡れた白目が、闇の中で光っている。
「くるくる?」
と、女の子は聞いてきた。子供がおもちゃをねだるときのような、どこかうきうきした声だった。
(どうしよう…)
わたしは思わず夏彦さんを見た。一体、どうやって答えればいいのだろう。
「うん、じゃあそうしようか」
と、夏彦さんが答えたのはそのときだ。
「本当?」
すると、女の子は笑った。小さかった口が耳まで裂けて、目は顔の半分くらい大きくなって金色の蛇の目が、ぎらぎらとこちらを見つめてきた。
「ああ、大勢で行くよ。あとで行くよ」
夏彦さんが言った瞬間だ。女の子は、こくりと頷くと、消えてしまった。後には何もない。化かされなかった。助かった。わたしは、ぽかんとしてしまった。
「どうして大丈夫だったの?」
「お呼ばれしたからさ」
夏彦さんは答えた。わたしは、全然、意味が分からなかった。
次の日に夏彦さんとそこへ行った。竹やぶを越えて、裏山の付け根にある茅葺屋根の大きなおうちだった。広い縁側があった。でも、森がかげって暗いのか、そこにはもう、誰も棲んでいないみたいだった。
「くるくるは目玉じゃない。『来るか、来るか』と言ってたんだ」
と、夏彦さんはさして得意でもなさそうに言った。あとで聞いた話によると、この古い農家は砲台陣地を作る兵隊さんの宿舎になっていたそうで、戦争が終わっても家族が戻って来なくてそのままになっていたそうだ。
「木にも魂があるみたいに、家にもある。『神様』も同じだ。そう、名付けられたものは、名付けられた通りの役割をいつまでもしたがる」
空き家になった家は、誰も棲まなくなって家の役割が果たせないので、来る人構わず、うちへ帰って来いと誘っていたのだ。
「被害にあった人は、みんなお父さんだ。家族のいるうちに帰ろうと、急いで兵隊さんのお堀を通ったんだろうね」
夏彦さんはその日、五日屋さんのひ孫夫婦とその子供たちを連れてきていた。
「本当にここへ棲んでいいんですかい、先生」
「猟師がいなくなるまでね。人間の主が帰ってきたら、出て行けばいい」
わたしはその日、狐の子供たちと陽が暮れるまで遊んだ。盥いっぱいに井戸の水をくみ上げて水遊びをしたり、スイカを割ったり、ゴム跳びをしたり。おかっぱ頭の女の子もそこにはいた。とても楽しかったけど、次の日になったらなぜか、誰の顔も思い出せなかった。
くるくるの怪談話が聞かれなくなったあと、空き家には、若い夫婦が移り住んだそうな。
「みんな、誰かの帰りを待っているんだ。美代ちゃんも本当は、ここにいない夏彦おじさんの帰りを待ってあげないといけないんだよ」
「わたしは夏彦さんがいい」
夏彦さんは、きっぱりと言った。
「それは駄目だよ。だから、私はいつか美代ちゃんには何も告げずにいなくなるよ。だって私はいつわりの夏彦さんなんだから」
わたしはずっと、夏彦さんのことを忘れないようにしようと思っていた。夏彦おじさんが入れ替わったら、あ!違う!と大声を上げてやろうと考えていた。でも本当にいつの間にか、夏彦さんはいなくなっていた。その頃にはわたしはもう、別のことに忙しかったに違いない。
いつの間にか代用教員を辞めた夏彦おじさんは、自動車のエンジニアになって名古屋の会社に就職していた。