初めての海
「じゃ、ディアナちゃんは、わたしの膝の上ね」
「なんで!?」
翌日、ブライトナーへ向けて出発した一行だったが、出発までにクラリッサとアルマの間で一悶着あった。
ブライトナーへは二台の馬車に分乗して行くことになっていた。
一台はアルフォンスがアルブレヒトブルクから乗ってきた馬車で、これには引き続きアルフォンスとバルナバス、アウレールの二人が同乗して向かう。もう一台は、ビンデバルト家の保有する馬車の中でも最も大型のもの。これは一列に三人ずつ並んで座っても余裕があるほどで、これにディアナ達五人が乗っていく予定だ。
「だって、ディアナちゃん成分を補給しなきゃいけないから」
「意味が分かりませんわ。アルマさんは昨日さんざんディアナさんに抱きついていたじゃない?」
モニカとマーヤが並んで座り、その向かいにディアナを真ん中に右にクラリッサ、左にアルマが座っていた。しかし、すぐにアルマがディアナを自分の膝の上に座るように言い、クラリッサが反論する形で火花を散らす。クラリッサが言うように、昨日アルマはことあるごとにディアナに抱きついて離れず、ディアナのベッドで一緒に寝ようとした。それに対抗するようにクラリッサも一緒にベッドに潜り込んだため、昨夜は三人で川の字になって寝たのである。
「クレアちゃんはいつも一緒にいるんだから。こんな時くらいわたしがディアナちゃんを独占してもいいじゃない!」
そう言ってアルマが口を尖らせるが、クラリッサも譲らない。
ディアナの左右から文字通り頭越しにおこなわれるやりとりに、我慢できなったディアナは立ち上がると、黙ったまま向かいのモニカとマーヤの間に腰を下ろした。
「ディアナさん(ちゃん)!?」
あっという間の出来事に、クラリッサもアルマも目を点にしてディアナを見つめる。
「喧嘩するなら、あたしはこっちに座るから」
ディアナが冷たく言い放つと、二人は慌てて取り繕うように仲良くし始めた。
「二人ともディアナちゃんが絡むと意地になるんだから……」
その様子を、モニカとマーヤが呆れたように生暖かい目で見つめていた。
「この調子だと、ディアナちゃんに素敵な人が現れても、きっと色々難癖つけて認めようとしないんじゃないかしら?」
「そうねぇ。二人のお父さんを納得させなきゃいけないなんて大変よ」
二人がディアナに同情の籠もった視線を向けた。
「当然ですわ。ディアナさんに相応しい殿方は、わたくしが探して差し上げますわ!」
「何でクレアちゃんが探すの? ディアナちゃんの相手はわたしが見付けるんだからね!」
再び言い争いを始める二人に、うんざりした表情を三人が浮かべるのだった。結局ディアナは、ブライトナーに到着するまでの三日間、二人の間に腰を下ろすことはなかったのである。
そういう些細なこと以外にトラブルらしいものはなく、三日後、無事にブライトナー領へと到着した。
「海が見えてまいりましたわよ!」
窓の外を眺めていたクラリッサの言葉に、マーヤを除く海を見たことがない三人が、一斉に窓へと貼り付いた。
「ちょ、ちょっと痛いですわ。押さないでくださいませ!」
窓に押しつけられたクラリッサが「グエッ!」とカエルのような悲鳴を上げた。押しつけられたまま文句を言っているが、誰も言うことを聞かずに初めて見る海を眺めていた。
ちょうど峠を越えて視界が開けた場所だ。
眼下には白い岩肌の海岸と小さな港町が見え、その先に陽光を受けてキラキラと輝く海原がどこまでも広がっていた。
「あれが、……海?」
想像してた以上の大きさに、ディアナは圧倒されていた。
視線のずっと先で空と海の境目が混ざり合っているが、あれが水平線というものだろうか。あの先にずっと行くと魔族のすむ国があるんだったか。
ディアナはこれまで全てだと思っていたものが、この世界に比べたらほんの小さなものだと改めて思った。そして、いつかあの海の向こうへ行けるなら行ってみたいと、密かに考えるのだった。
「少しだけですわよ!」
馬車が止まると、待ちきれないといった様子でディアナ達が砂浜へと飛び出していき、その後ろから頬を膨らませたクラリッサが大声で怒鳴っていた。
結局、海が近づいてくると、ますます興奮した三人に辟易したクラリッサは、一旦馬車を止めて彼女らの興奮を醒ますことにしたのである。
アルフォンスも一緒に飛び出していこうとしていたが、こちらはバルナバスとアウレールの二人によって阻止されていた。そのため、ここまでアルマ達から必死に隠していた彼の醜態が、興奮したディアナを見ることで露見するという危機は免れたのである。
「冷たい!」
履き物を脱いで、恐る恐るくるぶしまで海に入った三人が嬌声を上げる。打ち寄せる波で足元の砂が流れる不思議な感覚に目を細めていた。三人は指先を海につけると、ペロリと舐めてみた。
「しょっぱ!」
「ホントだしょっぱい!」
「本当にこれ全部塩水なの!?」
ディアナ達ははしゃぎながら、いつまでも海を堪能していた。
どれだけそうしていただろうか。
いつまで経っても戻ろうとしないディアナらに、業を煮やしたクラリッサが眉を吊り上げた。
「貴女達、いい加減にそろそろ戻りなさっ、きゃっ!」
ディアナがクラリッサに海水をかけてしまった。
すぐにバツが悪そうな顔をディアナが浮かべたが、すでに手遅れだった。
「ディアナさん!」
水を滴らせたクラリッサが、据わった目でディアナを睨み付けていた。さすがにやり過ぎたと思ったディアナだったが、謝罪を口にする前にクラリッサから海水を浴びせられてしまった。
もうそこからは歯止めが効かなくなる。
皆、膝まで海につかると、衣装や身だしなみが乱れるのも構わず、「キャッキャ」言いながら水を掛け合うのだった。
「ち、ちょっと皆、やめなよ」
一人だけ海に入らず、なりゆきを見ていたマーヤが遠慮がちに声をかける。しかし、目をキラリと光らせたモニカにロックオンされてしまう。
「あら、マーヤ一人だけいい子ぶるなんてダメよ」
「ちょ、ちょっとモニカ!?」
「濡れるときはみんな一緒よ」
「アルマまで!?」
慌てて逃げようとするが遅かった。
マーヤは二人に両脇を抱えられ、海へとドナドナされていくのだった。
――三十分後
ふと我に返った五人は、心の底から後悔していた。
ディアナはともかく、普段は冷静で最後の防波堤となるクラリッサまでもが、頭から水を滴らせて項垂れていた。いつもと違う場所、雰囲気で気分が躁となっていたのだろう。
「気持ち悪い、なんかベトベトする」
「ホント、髪の毛もゴワゴワしてて、櫛が通らないよ」
「それよりクレアちゃん。このままブルーノのところへ行って大丈夫?」
遊んでいるときはいいが、濡れた海水が乾いてくるとベタベタと服が肌に貼り付いて気持ちが悪い。乱れた髪を直そうと櫛を入れてもひっかかって通らない。
それよりもこれからブルーノの実家、ダウデルト子爵家にこの格好のまま行かなければならないのだ。一応荷物は馬車に積んであるため着替えることはできる。だがいくら広いといっても、五人が着替えるには馬車は狭すぎた。
「清らかな泉!」
ディアナが清浄の魔法を発動し、現れた水の球体に全身が包まれる。球体は高速で回転していたが、数秒もすると何事もなかったように消えた。
「ディアナさん、何を?」
「ん。ベトベトが気持ち悪かったから」
ディアナはこともなげに言うと皆に勧める。
清浄の魔法で不快な塩分が消え、すっきりしたようすだ。
「そうね。どうせ濡れてるんだもの。それならサッパリした方がいいわね」
アルマはそう言って清浄の魔法を使う。
その後、全員が汚れを洗い流し、とりあえずさっぱりすることはできた。
「このまま向かうしかないかしら?」
その後、温風魔法で服や髪の毛を乾かしてみたものの、お世辞にも身だしなみが整ってるとは言いがたく、皆で話し合った結果、とりあえず事情を話して身だしなみを整えさせて貰うことになったのである。
馬車に乗り込もうとしていると、前方から一騎の騎馬が駆けてくるのが見えた。警戒したディアナが視力を強化して確認すると、馬上に見知った顔を発見し、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「ブルーノ!?」
「アルフィーが着いたのに、中々到着しないから様子を見に来たんだ。うわっ、どうしたんだ。びしょ濡れじゃないか!?」
駆けつけたブルーノは挨拶もそこそこに、全身ずぶ濡れの五人を見て呆れた声を上げた。
「ブルーノ、丁度よかったですわ。お願いがあるんですの」
さすがにこの格好のままではクラリッサはともかく、他の皆はジークムントの前には出られない。かつてブルーノがそうだったようにダウデルト家は、ビンデバルト家と違って身分にそれほど寛容ではないのだ。初対面がずぶ濡れのままではクラリッサの手前、いきなり処分されることはないだろうが、どういったことを言われるか分からなかったのだ。
「わかりました。この先にエルマーの家があります。そこで身だしなみを整えてください。わたしは先に行って話を通しておきます」
「わかりました。助かります」
「ありがと」
ディアナが声をかけると、若干照れた様子を浮かべたブルーノが、馬首を巡らせて一足先に駆けていく。
「ブルーノってあんな感じだったっけ?」
「ん?」
「久しぶりに会ったけど、なんか明るくなったなぁって」
以前は「孤高」という言葉がぴったりなほどで、進んで他人に関わろうとはしなかったように思う。親しげに話をするなんて、それこそエルマーとしか見たことがなかったくらいだ。アルマはアルケミアは彼にもいい影響を与えてるのかも知れないと考え、そのときは深く追求しなかった。
その後五人は、エルマーの実家で身支度を調えると、ようやくブルーノの実家へと到着したのであった。




