89 ダンスのレッスン
んっ!
俺の部屋の前に誰かいる!
ドアをノックしている!
女!
濃紺のワンピース。
素足にサンダル。
肩から大きなバッグ。
長いホワイティーアッシュな髪。
な?
なっ?
レイチェル?
仮面はつけていないが……。
顔の輪郭は……。
見ない振りをして通り過ぎようとしたが、遅かった。
振り返ったレイチェルと目が合った。
くっ!
俺だとは気づくまい。
顔は見えていない。
この装備は知らないはず。
そうあって欲しい!
しかし、希望ははかなくも潰えた。
レイチェルが手を振ったのだった。
そして、笑って、ンドペキ!と呼んだのだった。
万事休す。
自分の部屋を無視して通りすぎる不自然さを取るか、レイチェルに近づいて次の展開を待つか。
あるいは、ここでレイチェルを刺すか……。
ンドペキは瞬時にめまぐるしく頭を回転させた。
もう二、三歩の間に決めなくては。
が、決められなかった。
立ち止まってしまったのである。
部屋へと続く数段の階段の下で。
レイチェルが駆け下りてくる。
そしてまたニコリとすると、瞳を輝かせた。
「ダンスのお稽古に行った帰り。寄ってみたの」
「……」
ンドペキは突っ立っていることしかできなかった。
「行政庁の中では、そんなレッスンしてないから」
「……」
レイチェルが、少し顔を曇らせる。
「迷惑だった?」
「いえ……」
「よかった。でね、私それなりに素質あるんじゃないかって、自分では思ってるんだけど」
「はい」
「ね、ん・ど・ぺ・き。今はオフタイムなんだから、もう少し普通にしてよ」
「……」
ンドペキは、それならそれで、早く立ち去ってくれ、と念じた。
一刻も早く!
「そんなレッスンが街にはあるよって、同僚の子が教えてくれてね。彼女、親友なんだけど、その子も通ってたんだって」
ダンスのレッスンがどうした!
立ち去れ!
立ち去ってくれ!
今すぐにだ!
「こんな時代だけど、いろんな楽しみって見つけられるものなんだ。人間ってすごいよね! ね、そう思わない?」
まったく!
意味不明!
今にも自分を殺そうとしている組織の長だ!
こいつは!
なのに、この無邪気さはなんだ!
完璧な芝居のつもりなのか!
俺を油断させようという手なのか!
「あんな会談があった日なのに、街はいつもと変わらない。ダンスのレッスンもいつもどおり。これって、すごくない?」
悟った。
こいつを帰らせるには、平然と普段どおりに相手をして、さ、そろそろ寝るよ、とさりげなく別れを告げて部屋に入るフリをするしかない。
今ここで、こいつを刺すことができないなら。
「はい、そうですね」
「また、そんな言い方して」
レイチェルが頬を膨らませる。
「恋人みたいにしろとは言わないけど、もうちょっと、やさしくできないかな」
「もうしわ、すみ、いや、ご、ごめん」
「なんだかなあ」
エメラルドの瞳がきらめいている。
「そろそろ寝るよ。気をつけて帰って……」
「は? まだ八時よ。今日、そんなに疲れた?」
「あ、はい」
「じゃ、肩、揉んだげようか」
「えっ」
絶句してしまった。
部屋に入るというのか、この女は!
いったいどういう神経をしているんだ!
政府機関の娘、いやこいつはホメム!
ホメムはこれが普通なのか!
それとも、部屋に入ったとたん、バッグから物騒なものを取り出すというのか!
ンドペキがたじろいで、後ずさったのをみて、レイチェルは口調を変えた。
「ごめんなさい。やっぱり迷惑だったみたいね」
と背を向ける。
「……」
ンドペキは身じろぎもせず、レイチェルの後姿を見送った。
俺は部屋には入らない。
レイチェル。
いい子だ。
そのまま、消えてくれ。
早く!
しかし、レイチェルは振り返って……、そして立ち止まった。
「じゃ、また明日」と、手を振って。
ンドペキも手を振った。
「はい。よろしくお願いします」
そのまま、レイチェルは立ち去ろうとしない。
お見送りにならないではないか。
心を決めた。
部屋に入ってやる。