73 木枯らし一番が吹いた翌朝のこと
イコマは、アヤが出て行った扉を見つめて、立ち尽くした。
バーチャルとはいえ、肉体を持った状態。
が、泣いていることに気づいた。
涙を流す感触を味わうことが、それが喜びの涙であればなおさらのこと、これほど心地よいものだったとは。
あの声、あの表情……。
彼女が中学生だった頃、学校から帰ってきては、今日あったことを、口の回りが追いつかないほどの勢いで次々に話してくれたあの頃。
叱られて、トイレに篭って泣いていたあの頃。
夕飯のカキフライを食べながら、少しずつ悩みを打ち明けてくれた高校生の頃。
バイト仲間とのカラオケが楽しかったといっては笑い、就職の面接が上手くいかなかったといっては泣いていたあの頃。
そしてなぜか、急によそよそしくなった朝。
酔った勢いで抱きついても、身をよじって逃げていったあの夜。
彼女と一緒に過ごした日々。
大阪のマンションの一室。
アヤが工作で作った紙粘土の魚はいつまでも洗面台の上に飾られていたし、アヤの作った鉛筆立てをイコマは最後の日まで使い続けていた。
結婚に夢破れ、家に帰ってきたとき、アヤは初めてイコマをお父さんと呼び、また一緒に暮らしていいですか、と聞いたものだ。
その幸せは永遠に続くかと思えるほど、平凡でなにげなく、春の日の木漏れ日のように柔らかな暖かさに満ちていた。
そんな暮らしが一変したのは、木枯らし一番が吹いた翌朝のことだった。
優がいなくなったあの朝……。
アヤは自分が帰ってきたことがその原因ではないかと感じ始め、たった二人になってしまった小さな家族の関係はギクシャクし始めた。
それからの重苦しい二十数年の日々。
そしてイコマがアギになり、アヤがマトとなってからの百年。
それはいずれも遠い過去。
だが、鮮明な記憶となってイコマの頭脳を駆け巡る。




