71 個人的なお考えなら、聞かずに
と、空気が動いた。
対岸の景色が滲んだかと思った瞬間、目と鼻の先に黒い影が浮かびあがった。
体中のアドレナリンが一気に濃度を増し、思わず身構えそうになるのを堪えて、目の前に現れるものを見つめた。
影は、瞬く間に形を成した。
そこに立っていたのは、一昨日見た黒い生き物だった。
身長、約二メートル五十センチ。
ずんぐりとしていて、まるでアオバズクが突っ立っているかのよう。
黒いとは思っていたが、目の前で見ると、頭部や脚を除き、蜂の羽のような黒っぽい薄膜で覆われている。
頭部はアシカのように飾り気がない。
厚いしっとりした皮膚で、目や鼻や耳は人間のものに近く、大きな瞳は黒かった。
胴体から短い足が出ているが、金属的な輝きを持った黒い鱗で覆われている。
指は五本あって、人間の足のように並んでいる。
関節も爪も、ヒトのものに近い。
胸の辺りが膨らんでいるが、唐突に、その横から腕が出てきた。
腕も脚と同じように黒い鱗で覆われているが、やはり人間のような指が備わっていた。
ただ、胴体の大きさに比べて、アンバランスなほど長い。
こいつは、先日見たJP01と名乗ったやつだろうか。
む。
握手を求めているようだ。
突き出された手の甲は細かな鱗片に覆われているが、手の平はやはり人間のものと同じだった。
レイチェルが躊躇することなく、その手を握り返した。
双方無言で数秒間握り合ったまま、互いを見つめあう。
黒い者はンドペキにも握手を求めてきた。
まともに目が合った。
ンドペキの目はマスクのレンズに遮られて相手には見えないはずだが、ぴたりと焦点が合っていた。
射すくめられたかのように、ンドペキもその手をとった。
金属繊維で編まれたグローブの上からでも、相手の持つパワーが流れ込んできたかのような衝撃を受けた。
相手が少し力を込めただけで、意識がかき乱されるような感覚がしたかと思うと、心の中に高揚感がじわりと広がっていく。
相手は徐々に力を強めているようで、それにつれて心が押しつぶされそうな圧力を感じる。
ンドペキが力を抜くと相手もフッと力を抜き、手が離れた。
黒い者が、ゆっくり口を開いた。
口が歪む。笑ったのだろう。
「お会いできて光栄です」
若い女性の声だった。
「セルビッキ郡指令、JP01と申します」
レイチェルが応える。
「私はレイチェル。ニューキーツの行政長官です。こちらは、ンドペキ伍長。街の軍団に所属しています」
相手は、さらに口を大きく開け、どうぞよろしくと言った。
「あなたのご指名なのですから、紹介は不要だったかしら」
「厚かましいお願いをして、申しわけありません。お気を悪くされませんでしたでしょうか」
「いえ、そういう意味ではありません。ただ、例外的だったようですので」
「ニューキーツの街だけが、という意味ですね?」
「そうです」
ンドペキは居ても立ってもいられない気分になっていた。
レイチェルという女の素性はわかった。
長官というからには、街の最高位にあたる者だ。
東部方面攻撃隊を掌握している正真正銘の上官、司令官であるということになる。
それがレイチェルという名であることさえ失念していたとは、今更ながら情けなかった。
しかし、それはいい。
ハクシュウがその指示に従い、自分が脇に控えていてもおかしくはない。
レイチェルとの身分の差は、大いにあったとしても。
それ以外のことは、依然、わからないことだらけだ。
自分が会談場に控えているのは例外的な措置だというが、いったいなんだというのだ。
そもそも、セルビッキ郡とはどこだ。
地球上にそのような街はないはず。
「ンドペキ氏には、私が個人的にお会いしたいと思ったからです」
JP01と名乗った相手は、そういってンドペキをますます驚かせた。
お会いできて光栄です、などと返すのがまっとうな態度だろうか。
せめてマスクは取って、相手に敬意を表するべきなのだろうか。
あるいは、レイチェルが言ったとおり、あくまで黙っておればよいのか。
微妙な怒りが噴き上がる。
しかし、JP01と見つめ合っていると、不思議とその気持ちは大きくはなっていかなかった。
ンドペキは知らなかったが、地球上にあるすべての街で、今日の同じ時刻に同じようなスタイルで、彼らの代表と会談が持たれている。
各地の会談は、それぞれの行政庁の長が、相手陣営の代表と一対一で会っている。
ニューキーツだけが、ンドペキにも指名があったということらしい。
個人的に会ってみたい、とはどういう意味だろう。
以前の自分が何かをしたのだろうか。
今は街の一兵士であり、特別な存在でもなければ、特殊能力の持ち主でもない。
もちろん、この連中とも面識はない。
「個人的なお考えなら、聞かずにおきましょう。では、ご用件を伺いましょう」
レイチェルが促すと、JP01が視線を戻し、語り始めた。