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初めての作品です。
読んでいただければ幸いです。
高校二年の春。
その日は、鮮やかな水色の空に真っ白な雲が浮かび、柔らかな風が吹いていた。
新しいクラスの名簿が生徒玄関に貼り出され、大宮里桜は並んだ名前の中から、ある一つの名前を見つけた。
――瀬田智哉
その四文字を目にした瞬間、里桜の胸の奥がとくんと小さく弾んだ。
一年生の頃から、廊下や学校行事で何度か見かけたことのある男子だった。
智哉は吹奏楽部でトロンボーンを弾いていて、いつも誰かと穏やかに話していた。
大きな声で騒いだり、目立とうとしたりするタイプではない。
それなのに、智哉の周りにはいつも自然と人が集まっていた。
誰かが話している時には、急かすことなく最後まで聴き、そして、ゆっくりと頷きながら優しく笑う。
そんな姿を見かけるたびに、里桜は思っていた。
(素敵な人だ……)
同じクラスになれただけでも十分に嬉しかったけれど、二人の席は教室の端と端ほど離れていて、話しかけるきっかけがなく、目が合うことさえほとんどなかった。
それでも里桜は、朝のホームルームや授業中、休み時間になると、つい教室の向こう側にいる智哉を探してしまう。
友達の話を優しい目で聞いている横顔。
先生の話に真面目な表情で頷いている姿。
誰かの冗談に、声を上げすぎず穏やかに笑う顔。
(今日も笑ってる……)
その横顔を見つめるだけで、里桜の胸はほんのり温かくなった。
一日が、ほんの少し幸せなものになる。
けれど里桜は臆病で、誰かに自分から話しかけることがあまり得意ではなかった。
そして、ずっと気になっている智哉を前にすると、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
同じクラスになってから、言葉を交わすことはほとんどないまま、季節だけが春から夏へと変わっていった。
夏休みが終わり、新学期最初の席替えの日がやって来た。
先生が教壇の上で、くじに書かれた名前を一人ずつ黒板に書き込んでいく。
里桜は自分の名前が書かれるのを待ちながら、膝の上で指先をそっと握りしめていた。
「あ!やった!窓際!」
「えー!真ん前じゃん!誰か代わってくれー!」
席が決まった何人かが声を上げながら、どんどん移動しはじめる。
その喧騒の中で、里桜の視線は思わず彼の姿を追ってしまった。
そして視線を動かすと、ちょうど先生が黒板に大宮の文字を書いているところだった。
(……あ!私のだ!)
里桜は荷物を持って席を立つと、新しい席に向かって歩き、すぐに驚き立ち止まった。
目の前に、荷物を片付けている智哉が座っていた。
その右隣が里桜の席だった。
(隣……? 瀬田君の隣なの?)
里桜は動揺を悟られないように、慎重に新しい席へと向かった。
けれど足元はどこか落ち着かず、歩き方まで不自然になっているような気がする。
席に着こうとした時、ふと見ると智哉の少し茶色がかった髪が、窓から差し込む光を受けて柔らかく揺れている。
里桜に気づいたのか顔を上げた智哉と、目が合った。
「よろしく。」
智哉が、いつもの優しい笑顔を向けてくる。
これまで遠くから何度も見つめていた笑顔が、今は手を伸ばせば届きそうなほど近くにあった。
「……よろしく。」
平静を装ったつもりだったが、声はほんの少し震えてしまった。
智哉は気づいていないのか、にこりと笑って机の上のノートに目を向けた。
里桜も慌てて椅子に座り、誰にも聞こえないように小さく息を吐く。
(まさか、本当に隣になれるなんて……)
嬉しい。
けれど、それ以上に緊張していた。
すぐ隣に智哉がいる。
少し顔を横へ向ければ、真剣に教科書を読む横顔が見える。
ノートを取る音も、時折小さく息を吐く音も聞こえてしまいそうな距離だった。
里桜の胸の鼓動は、その日の授業が始まってもしばらく静まらなかった。
休み時間になると、智哉の席には自然とクラスメイトが集まってきた。
「瀬田、さっきのこの問題教えて。」
「智哉、文化祭、何弾くの?」
智哉は一人ひとりの話を急かすことなく聞き、ゆっくりと言葉を返していく。
「これは、この公式を使えば解けるよ。」
「曲は決まったけど、まだまだ練習しないとなぁ。」
落ち着いた話し方と穏やかな笑顔に引かれるように、周りの人たちも自然と笑顔になっていく。
里桜は教科書を読んでいるふりをしながら、時折そっと智哉の横顔を見つめていた。
(やっぱり、優しいな…)
同じクラスになってから、ずっと見つめていた時と何も変わらない。
けれど、隣の席になったことで、これまで知らなかった小さなことまで見えるようになった。
智哉は授業が始まる前、必ず机の上をきれいに整える。
トロンボーンを奏でる大きな手は、指先まで綺麗に整えられている。
誰かに声をかけられたら、一度手を止めて相手の目を見てから返事をする。
知れば知るほど、里桜の中にあった想いは大きくなっていった。
それでも、席が隣になったからといって、急にたくさん話せるようになったわけではなかった。
授業中にプリントを渡したり、教科書のページを確認したり、交わす言葉は、まだほんの少しだけだった。
「これ、プリント、まとめて前に持っていくよ。」
「ありがとう。」
そんな短いやり取りだけでも、里桜にとっては胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
放課後になれば、智哉は東側にある音楽室へ向かう。
里桜は西側にある美術室へ向かう。
吹奏楽部と美術部の部室は、同じ階の端と端にあった。
それまでの二人は、廊下ですれ違っても軽く会釈をするだけだった。
目が合えば、里桜が小さく頭を下げる。
智哉も笑顔で同じように頭を下げる。
それだけで終わってしまう。
けれど、席替えから数日がたったある日の放課後。
美術室へ向かって歩いていた里桜は、長い廊下の向こうに智哉の姿を見つけた。
楽器の入ったケースを手に持ち、こちらへ歩いてくる。
智哉だと気づいた瞬間、思わず息をのんだ。
(瀬田君……。)
いつもなら、このまますれ違う直前に会釈をするだけだ。
けれど今日は、少しだけ勇気を出してみたいと思った。
(今日こそは、声をかけてみよう。)
隣の席になったのだから、挨拶くらいしても不自然ではない。
何を言うかは、もう決めていた。
―部活、頑張ってね。
たったそれだけ。
何度も心の中で練習しながら、里桜は近づいてくる智哉を見つめた。
距離が少しずつ縮まっていく。
ふと少し目線を上げた智哉も里桜に気づき、いつものように優しく目を細めた。
けれど、いざ目の前まで来ると、里桜は急に恥ずかしくなった。
智哉の顔をまっすぐ見られず、直前になって視線を横へそらしてしまう。
(やっぱり、無理……!)
そのまますれ違いそうになった瞬間。
里桜はぎゅっと手を握りしめ、勇気を振り絞った。
「ぶっ、部活、お疲れさま!」
声が少し裏返った。
しかも、見事にどもってしまった。
(ぎゃーっ、どもった……!)
心の中で悲鳴を上げながら、里桜は顔が熱くなるのを感じた。
智哉は驚いたように目を瞬かせ、足を止めた。
突然声をかけられたことに戸惑っているように見える。
(どうしよう。変に思われたかも……。)
不安になった里桜が恐る恐る顔を上げると、智哉はすぐに柔らかく笑った。
「ありがとう。」
それから、少しだけ里桜の方へ体を向ける。
「大宮さんも、部活頑張ってね。」
自分の名前を呼ばれた。
それだけで、里桜の胸がまた大きく跳ねた。
「……うん。ありがとう。」
今度はすんなりと言えた。
けれど恥ずかしさで顔を上げていられず、里桜は小さく頭を下げると、逃げるように美術室へ向かって歩き出した。
廊下の角を曲がったところで、里桜は持っていたカバンを抱きしめる。
心臓が、まだ速く鳴っていた。
(話せた……)
ほんの短い言葉だった。
特別な会話でもない。
それでも初めて教室の外で話すことができた。
「大宮さん」と呼んでくれた声が、何度も頭の中で繰り返される。
里桜の口元には、込み上げる感情のままに笑みが浮かんでしまった。
一方、廊下に残った智哉は、遠ざかっていく里桜の背中を見つめていた。
いつも静かで、隣の席でも控えめに笑う大宮里桜。
そんな彼女が、自分に声をかけてくれたことが、少し意外だった。
そして、恥ずかしそうに俯きながら見せた小さな笑顔が、なぜか心に残った。
それから二人は、廊下ですれ違うたび、少しずつ言葉を交わすようになった。
「今日も部活?」
「うん。文化祭に飾る絵が、もう少しで完成しそうなの。」
「そっか。完成したら見せてよ。」
智哉の何気ない一言に、里桜の胸が温かくなる。
「……うん。」
思わずこぼれた、小さくて柔らかな笑顔。
その笑顔を智哉は何故か眩しく感じ、目を細めた。
里桜には、智哉が何を思ったのかは分からない。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ優しく見えた。




